フェラ・クティと同様にナイジェリアのぼんぼん(ガキのころから、英国の寄宿舎学校に通わされる。が、ドロップアウトしてバスキングを始め、注目を集め現在に至る)であるキザイア・ジョーンズ(1999年9月29日)の公演は約10年ぶりとなるのか。過去と同様、ベーシストとドラマーを従えてのもの。ここ数作は色付けに気遣おうとするところもあり、それと繋がり生でのバンド編成を変えてもいいはずとも思うが、そう感じたのはトリオ演奏が始まった途端、変わらね〜と思ってしまったからか。ちなみに、新作『ナイジェリアン・ウッド』のプロデュースはなんとコモンの側近で純ジャズ・ドラマーでもあるカリエム・リギンズ(2005年9月15日)、彼はザップ・ママ(2004年12月16日)の新作『リ・クリエイション』でも重要な役割を担っている。

 デビュー時に自称していた<ブルーファンク>という言葉をいまだMCで使っていたが、繰り返すが、独自のパッションあるギター奏法とともに畳み掛けていく感じは15年前と同様。やっぱ、偉大な個性……ながら、抜群の切れ味やどっちに吹っ飛んで行くか分からないような噴出感は減じているかもと、残念ながら思わせられた。でも、ある意味、それはメロウという言葉にも置き換えられるかな。途中で、ちょいジミ・ヘンドリックスみたい(←それ、ちょいうれしい)と思わせられたところがあったか。その感想は過去もったことはなかったはずだ。ジョーンズは途中からは上着を脱いで、上半身裸となる。本当に素晴らしい、引き締まり鍛えられた肉体、それはぜんぜん変わっていない。50分ぐらいでステージを降りたのにはアレレ、そしたら、アンコールは3曲やったけど。うち、2曲目はボブ・ディランの曲でジミ・ヘンドリックスもカヴァーしていた「見張り塔からずっと」をやる。そして、最後はベースを手に取り、スラッピンしながら歌う。そのときの編成は2ベース+ドラムでした。六本木・ビルボードライブ、ファースト・ショウ。

 店を出て、アっと驚くことが。とても公にする気になれないので内緒にしておくが、嗚呼。気を取り直して、南青山・ブルーノート東京に向かう。

 こちらの出演者は84歳になるジャズ・ドラマーであるロイ・ヘインズ。王道からはねかえったほうまでを感覚一発で乗り切っちゃうようなスケール感を持つ巨匠ですね。ジャリール・ショウ(サックス)、マーティン・ペヘラーノ(ピアノ)、デイヴィッド・ウォン(ベース)という、腕の立つ若手がそろっているワーキング・カルテットによる演奏だが、これにはかなりびっくり。もうストロングで、ハード・ドライヴィングな純ジャズを堂々ぶちかましてくれて。ぜんぜん枯れておらず、精気たっぷり。ときに、前に出てきておどけたりする仕草も、チャーミングな傑物なりという感想を引き出す。いやあ、いろんな意味で感服し、高揚しました。


 ラフォーレミュージアム原宿にて、個性と視点を持つ女性シンガーが中央にいる3アクトが登場。

 まず、ハイチ人の両親を持つカナダ生まれのシンガー・ソングライターであるメリッサ・ラヴォー(2007年11月30日)がウッド・ベーシスト(マダガスカル出身で東洋の血も入っているらしい。なんとなく、お洒落)を伴ってパフォーマンス。前回見たときとかなり得る所感が違う。もっと快活で堂々、訴求力あり。初来日時は根暗な感じがあってまずトレイシー・チャップマンを思い浮かべたが、今回はパーカッシヴなギター裁きで歌ったときには、ふとキザイア・ジョーンズを思い浮かべたりもしたもの。それから、歌心の行方の感じ(と、また曖昧な言い方をするなあ)から、アシャ(2008年9月10日、他)と重なるもの少し覚えるか。大学(専攻は理系でした)を出て現在は契約レコード会社(ノー・フォーマット)があるパリに住む彼女だが、あのときは卒論のせいでとってもどよ〜んとなっていたらしい。そういえば、そのブレイズ頭をさして、「これがもっとカラフルな色だと、ジョージ・クリントンになるよね」とぼくが言うと彼女は破顔一笑し、そうよねー。ハイチ・ルーツとはいえカナダ生まれ、普通に米英のポップ・ミュージックをいろいろ聞いてきている人。親はハイチ出身であることを言わない人で、自分でルーツに興味を持っていったそう。

 続いて、かつての渋谷系の歌姫的存在のカヒミ・カリィ(2006年1月21日)が近年付き合いを持っている強者たちを従えて登場。ギターの大友良英(2004年2月6日、2004年10月10日、2004年11月7日、2006年4月18日、2007年4月21日、他)、ベースやギターや装置のジム・オルーク(2000年3月25日、2001年2月21日、2006年4月18日、2006年10月22日、2007年4月20日、2008年8月24日、他)、そして蛍光管を用いた自作装置であるオプトロムの伊東篤宏(2007年4月21日)がやんわり重なり、流れる淡い音を出し、そこにカヒミが言葉を漂わす。ぼくにはよくその真価がわからなかった。

 そして、全曲英語で歌っているのにデビュー作が本国で10万枚というセールスを上げてしまった、フランスの新進モリアーティが登場。けっこう日本語にも興味を持つ面々はみんな英語も話すとか。それ、フランス人としては珍しいという。ステージ上にはソファーなどがおかれ、イメージはリヴィング・ルームといった感じ。そして、通常のギグでは鹿のアタマもまたメンバーのように鎮座させるというが、同行(?)させていない今回は東京で熊の人形を調達。それは、ジローと名付けられていたよう。なんか、そういう設定は、アレステッド・ディヴェロップメントを思い出させる?

 で、びっくり。こんなに芸達者な連中がそろったバンド(5人+サポートのドラマー)で、ここまで手触りのいいエンターテインメント表現を送り出す人たちだったとは。米国のルーツ・ミュージック各種を中心に欧州キャヴァレー調から少しのワールド・ミュージック興味などをないまぜにし、地域軸と時間軸をすっとばしたストーリー・テリングに長けた手作り音楽を彼らは送り出すが、ライヴはもっと立体的で、エスプリに富んでいて、さりげなく才気あふれる。つきるところ、ここには豊かな、好奇心旺盛な人間がいるゾと思わせられてしまったもんなあ。それ、CDを聞いただけではぜんぜん想像できないし、文章でもうまく説明できない。デビュー作を出したときは只の泡沫グループ、それが地道にライヴをやるにつれて話題を呼び、それが大きなセールスにもつながったという話にも納得できますね。

 シンガーのローズマリーはCDだとか細い声に聞こえるのだが、生だとぶっとくて存在感があるし、演奏陣も達者でキャラクターが立つ。で、楽器を持ち替えたりするのも楽しいし、玩具の鉄琴を持ち出したり、いろんな遊びの設定を思うまま彼らは取る。ドブロなども用い、いろんなアーシーな弾き方を身につけているぞと思わせたハンサムなギターくんは実はブランク・ザッパやマーク・リーボウが好きとか(関係ないが、パトリック・ワトソン〜2008年11月12日〜が新譜をリリースする際に電話インタヴューをしたのだが、そこのギタリストはなんとリーボウに師事していたことがあるのだとか)。ハーモニカ奏者はリトル・ウォルター他が好きな大のブルース・ハープのマニア。また、ウッド・ベース君はザ・キュアーの大ファン。が、縦ベースを弾くようになったのはプレイヤーとしての好奇心らしい。


 フィルム、ドロウイング、写真なども絡めて、サーフィンが導く周辺文化をくくろうとするイヴェント(と、取っていいのかな?)。ゆえにいろんな出し物があり音楽はメインでありつつもあくまでその一部(どんなアーティストも出演時間は40分)というスタンスを立てているが、今年からクリエイティブマンが関与するようになり、規模が大きくなり、出演者が少し豪華になった。そのため、会場の横浜・大桟橋にフェス敷地が占める面積も飛躍的に増えて、野外ステージやDJ会場なども新たに設営された。

 開催2日間のうち初日だけ行ったが、前回行ったとき(2007年5月26日)と同様に、会場ありきのフェスだと痛感しちゃう。もう海に突き出た桟橋にまったり座り、ちんたらレゲエが流れてきたらそれでOKとなってしまうもの。タフ・セッションやクール・ワイズ・マンら日本人レゲエ/スカの担い手やヘザー・ノヴァの弟のミシュカなど、その手の野外ステージ(音が悪い室内系ステージより、格段に音が良かった)出演者には気持ちよく触れました。夜景も綺麗だよなー。で、それを満喫するには晴天であることが条件なのだが、雨天予報にもかかわらず、雨はほとんど降らず。そういう意味では、運があるフェス。ぼくは“マーフィの法則的おまじない”という感じで、折りたたみ傘ではなく普通の傘を持っていった。

 それから、うれしさを感じるのは、なんとなくな緩さ。さすがにパス・チェックはあるものの、持ち込み物のチェック等はいっさいないというのは生理的によろしい。ま、そんな感じなので、もし触れられればという感じでそれなりに他に見たのは、オーストラリアのミクスチャー系のカスタム・キングス(間口を広げすぎるという感じはあるけど、人なつこくてよい。ヴォーカルの声質がいいナ)、トーマス・キャンベル監督(2005年6月2日参照)が関わりいかにも今回のフェスにお似合いのレイ・バービー&ザ・マットソン2(実演は期待はずれ。スーツを来て出てきた4人は格好良かったんだが、なんか正当な即興性に欠けた。バービーの音楽性のほうによりすぎか。ジョン・マッキンタイアも参加したザ・マットソン2のアルバムは音響ジャズの好盤だったのになー)、スイス人シンガー・ソングライターであるというリー・エヴァーソン(わりと普通の生ギター弾き語りだったような)、質のあるUA(2004年7月6日、8月12日)など。東京スカパラダイスオーケストラ(2003年10月10日)は見ようとしてすぐに退散。前にも書いたが、ここの床はデッキを模したようにすべて板張りなため鬼のように揺れる。特にスカパラのときは演奏がはじまったとたん尋常じゃない揺れ方ですぐに気分が悪くなってしまった。あれを経験しちゃうと、ここは音楽をやってはいけない場所ではないかという思いが頭をかすめます。

 その後、せっかく近所まで来たのだしと、会場の近くにある赤レンガ倉庫のモーション・ブルー・ヨコハマに行く。とってもとっても、久しぶり。出演者はヴェテラン・サックス奏者の土岐英史(2004年8月20日。彼の娘は、土岐麻子)。ギター、電気ベース、キーボード、ドラムがサポート。総じて、ソウルっぽいフュージョンを披露。気温は高くなかったが、湿度が滅茶高い日だったと帰り道に思う。



六本木・ビルボードライブ東京(セカンド・ショウ)にて、ニューオーリンズR&B偉人(2006年5月31日、6月1日)の1年半ぶりの来日公演。やはり、御大はスーツをパリっと来て登場。前回(2007年10月21日)のさいは、サックス、電気ベース、ドラムがサポートしたが、今回はそこにギタリストがつく。お、そのレナード・ポーチェはぼくがニューオーリンズで見たギグ(2007年2月2日、3日)で弾いてた人じゃないか。いい感じなちょいヤクザなルックスなので、すぐに分かる。ちなみに、サックス奏者(クラリネットも吹く)とドラマーは前回のときと同じ。今回、6弦の電気ベースを弾いていたのは、ブライアン・ブレイドのフェロウシップ(2008年9月4日)のとき来ている人のよう。みんなトゥーサンとの付き合いは当然長く、実は94年にブルーノート東京でやったとき(全8人と豪華編成だった)は今回のサポート陣はみんな同行していたらしい。

 彼がノンサッチに移籍して出した管音の絡みが印象的なトラッド/スタンダードを素材にしたセピア調インスト作『ザ・ブラインド・ミシシッピ』を出した後だけに、その手の流れを汲む非ヴォーカル曲が散見されたのが今回のポイントか。もちろん、編成が異なるため、その再演にはならないけれど(同じ回に来ていたピーター・バラカンさんが、NYでアルバムと同じ編成でのライヴをやったんですよと言っていたな)。やっぱ、ぼくは軽妙に歌うほうがいいな。ともあれ、何度触れてもいい、おいしいニューオーリンズの何かが活きたメロウな実演。笑顔になれるう〜。

 昨晩のブリックとは一転して、軽〜い。軽々ぅ。サンフランシシコの洒脱音楽の才人(2001年2月14日)、ギター、縦ベース、フィドル、そしてコーラスと鳴りものを担当する女性二人という布陣にてのパフォーマンス。その様は、なんか豊かさや正の精神を思い出させるものではあるか。当人と女性陣たちがときに繰り広げる他愛ないフリも楽しい。いい年こいて(ヒックスは41年生まれ)、そういう事できるのは本当に良いな。凝り固まらず(その音楽的方策は、一貫したもので固まっていると言えなくもないが。ぼくは01年の実演が4年前ぐらいのものに思えてならなかったもの)、お茶目に行けるのはマル。カントリーをはじめ、いろんな米国系の手作り的音楽を騙し絵っぽく重ね、ときにはマヌーシュ・スウィング的な局面も。自由自在……、渋谷・クラブクアトロ。

 とっても見たかった映画(08年米国映画。8月15日より、日本公開)を6時半より、新橋のFSホールで見る。シカゴ・ブルース(乱暴に言ってしまうなら、都市型のバンド編成のブルース。南部からの黒人労働者を集めた北部都市のシカゴは戦後モダン・ブルースの中心地となった。だから、映画「ブルース・ブラザース」は同地を舞台とするわけですね)の総本山、チェス・レコードの誕生から終焉に向けてのストーリー(40年代後期から60年代後期にかけて)を追ったもの。チェス・レコードの創始者であるポーランド移民のレナード・チェス(オスカー受賞俳優、エイドリアン・ブロディ)と同社の中心アーティストでありブルース界大御所のマディ・ウォータース(映画「バスキア」で主役だったジェフリー・ライト)という白い肌と黒い肌の二人のやりとりを中心に、リトル・ウォルター、ウィリー・ディクソン、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリー、エタ・ジェイムスといったチェスを根城としたブラック・アクトが実名のもと登場し、録音シーンやライヴ・シーンなどもいろいろ再現される。脚本を書き監督をしているダーネル・マーティンはけっこうTVドラマなんかも作っている64年生まれの黒人女性だそう。
 
 マディ・ウォーターズ役のジェフリー・ライトは話が進むにつれて、どんどん本人に顔が似てくる。わあ。リトル・ウォルター役のコロンバス・ショートやハウリン・ウルフ役の英国人俳優イーモン・ウォーカーもかなりいい感じ。また、チャック・ベリー役はラッパーのモス・デフ(2001年7月27日)、ロック好きでもある彼は水を得た魚のように嬉しそうにベリー役をやっている。そして、エタ・ジェイムス役はビヨンセ・ノウルズ(2006年9月4日、他)、薬中毒の汚れ役をきっちり演じているが、ジェイムスに合わせて少し腰回りを太くした? 彼女が出てくるのは、映画が三分の二を過ぎたあたりからだが、彼女の名前は制作総指揮としてもクレジットされている! ほう。また、驚かされるのは、役を演じる人たちが原典に合わせて音楽を吹き込み直していること。それらの音楽監督をやっているのは、米国音楽セレブのスティーヴ・ジョーダン(2006年12月22日、他)。彼は数年前にに少し話題になったマーティン・スコセッシ監督総指揮のブルース映画群のそれにも大きく関与していましたね。本映画はソニーの配給、チェスのカタログの権利は現在ユニヴァーサル・ミュージックが所有している。多くの人がそれらオリジナルに触れんことを。

 マディが電気ギターを手にするようになった理由は、南部のプランテーションからシカゴに出てきたら街の音がうるさくてそれまでの生ギターでは音がかき消されてしまうから。それ、コンゴのコノノNo.1(2006年8月26、27日)が電気リケンベを使うようになったのと同じ理由だァというのはともかく、そういうこともちゃんと描かれるシカゴの街頭のシーンをはじめニヤリと出来るところは随所に。ブルースという歪んだ唸り歌が出てきた背景もある程度、皮膚感覚で伝えるところもあるか。実は構成や脚本はアレレと感じさせる部分もある。マーティンさん、少し駄目監督ね。ただの映画ファンだと不満を感じる部分も出てきそうだが、やっぱり、ぼくは高揚し、そわそわし、ウルっとしかけちゃう。もちろん、米国音楽に興味を持つ人にはとても勧めます。

 ドキュメンタリーではない、米国黒人音楽を扱う純映画としては、近年だとアトランティックが舞台の「レイ」(2004年11月16日)、モータウンがネタの「ドリームガールズ」(2007年1月18日)に続くものと言えるのか。ああ、次はスタックス・レコードかな(おおいに、願望)。音楽産業にまつわる数奇なストーリーや人間模様に、ぼくはもっと触れたいっ。

 ときに話は飛ぶが、60年代のチェスのハウス・エンジニアにデイヴ・パープルという人がいた。まだUKロック・バンドのディープ・パープル(2006年5月21日)が大好きだった学生時代にその名前を複数のチェス発のレコードに見つけたときはなんか嬉しかったけなー。そのパープル氏、チェスが身売りした後(70年代初頭ぐらいかな)メンフィスに引っ越し、なんとスタックスのエンジニアに収まってしまう。そのスタックスの叩きあげハウス・エンジニアであるテリー・マニング(彼は70年にスタックス傍系のエンタープライズからソロ作を出したことも。それは、アル・ベル主導で新生スタックスに移行する際にタマ数を確保しなければならなかったためだった。それで、アイザック・ヘイズも大ブレイク作『ホット・バタード・ソウル』をリリースできた)はスタックス崩壊後、ZZトップ他を扱うどすこいロック系の敏腕プロデューサーとなったが、いつの間にかバハマのコンパス・ポイントに拠点を移してしまった。実はブッカー・T&ザ・MGズ(2008年11月24日)の68年トロピカル曲「ソウル・リンボー」でその曲趣を醸し出すマリンバを叩いていたのは彼なんだよね。マニングさん、最近だとジェシー・ハリス(2009年4月4日、他)の新作をプロデュースしています。

 なお、“キャデラック・レコード”とタイトル付けされた理由はレナード・チェスは金持ちになってキャデラックに乗りたいがためにレコード会社を立ち上げ、アーティストにも売れると次々にキャデラックを買い与えたことに由来する(そのぶん、ギャラ支払いはいい加減だったようだが)。貧乏から逃れようとした人たちによる移民の国であるアメリカにおいて、そして車産業が国の柱となった同国において、立派な車がもっとも分かりやすく手っ取り早い成功の証、見栄の手段だったのはよく分かる。そういえば、LAのスタジオ・ミュージシャンで売れっ子になる秘訣は目に見えて腕が立つことやちまちま愛想よく振る舞えることなどともに、高級車に乗ることだと同地のミュージシャンから聞いたことがある。急にいい車に乗るとアイツ最近売れっ子なんだと思われ、仕事のオファーが相次ぐようになるのだという。あ、もう一つ車ネタを思い出した。90 年前後に大ブレイクをしたラッパーのMCハマー(後に、破産しちゃったっけ?)はいい人でちゃんと入ってきたお金を音楽仲間やスタッフに分け与えたという。その分配金は相当な額だったが、皆がまずしたのは車を買い替えること。関係者が一堂に揃うツアーのリハのときなんかはその駐車場はピカピカの車だらけで、それは高級車ディーラーが突然表れたみたいだったんだそう。ハハハ。

 試写を見たあと、丸の内・コットンクラブに行って、70 年代中期から80年代頭にかけてヒットを出した、チェスとはもちろんなんの関連を持たないアトランタのファンク・グループであるブリック(2007年9月22日)を見る。セカンド・ショウ。ステージに出てきた面々には日本在住のフィリップ・ウー(2007年6月6日)も。なんでも、一ヶ月前ほどにオファーがあったようだが、メイズにいた彼のほうが格上だったりして。さすがの彼も譜面を見つつ、控え目な演奏……。

 そうした事情とは関係がないだろうが、こんなにロックっぽかったっけ。前回も荒めの演奏とは感じたが、もうがちんこで、力いっぱいな演奏をずっと続けたもの。あ、ギタリストは左利きのストラトキャスターを逆さにして(もちろん、ジミ・ヘンドリックス愛好の発露ですね)嬉しそうに弾いていたな。前回は普通に右利きギターを弾いていたはずだが。そして、出音がバカでかいのもそういう印象を高める。レゲエ勢をのぞいては、ここで聞いたなかで一番大きな音だったかも。とかなんとか、退きの局面やまったり抑制の態度はぜんぜん見せない。還暦近くにはなるだろうフロントに立つジミー・ブラウン(歌と管楽器4種を担当)はなんか見ていていい味だしてんなと思わずにはいられないが、愛嬌たっぷりに、やっぱし非大人でイケイケ。笑いました。

 終演後、ヴェニュー向かいの東京国際フォーラム敷地のだだっ広い中庭を有楽町方面に向かって通るとメルセデス・ベンツのEクラスの新型モデル(左ハンドル)が宣伝のためだろう、何台も置かれている。なんかフォルムや顔つきが現行のキャデラックと似てないか。気のせいか? ふむ、エタ・ジェイムズを信奉したジャニス・ジョプリンは<神様、私にメルセデスを買って>という歌詞を持つその名も「メルセデス・ベンツ」という曲を歌ったことがあったな。ポルシェという固有名詞も出てくるその歌は70年発表。そのころイケてる白人層はアメ車ではなくドイツ車に憧れを持っていたということだろうか。そういえば、ブルーノート・レコードのスタイリッシュな往年のジャケット・カヴァーには一部イカしたクルマが用いられることもあったが、メルセデス(58年ドナルド・バード作。同社の車ジャケの第一弾かな)やジャガー(60年ジミー・スミス作)やボルシェ(63年ドナルド・バード作)など高級外国車が用いられていたっけ。それはブルーノートのジャケットをデザインしていたリード・マイルスの意向が強く出たからかもしれぬ(ちなみに、社主/プロデユーサーのアルフレッド・ライオンと元カメラマンの番頭役のフランシス・ウルフはドイツからの移民)が、その事実はジャズが当時ハイセンスな先端を行く音楽だったことも示唆するだろうか。60年前後のスター・ジャズ・マンはどんな車に乗っていたのかな。運動神経があまり良くないマイルス・デイヴィスは70年代前半にフェラーリかなんかのスティック・シフトのスポーツ・カーを運転し事故って骨折したことがあった。スマートなようでデイヴィスはどんくさい。禿じじいとなった80年代以降は日本のなんとかというお笑いの人と彼はそっくりだったそうだ。そういう笑いをとれるのも大スターの条件でしょうか。

 なんか、とりとめもないことをつらつら書いているナ。ならば、もう少し。マイルス・デイヴィスは本当に人気が高い。それをひょんなことで痛感させられたことがありました。90年代後半に英国に行ったとき、マンチェスターをベースとする男女ユニットのラム(音楽性はもろに当時旬だったブリストル系。メジャーのフォンタナと契約していて、そこそこ注目の存在だった)を同地で取材し、その後にツアーのリハーサルを見せてもらったことがあったのだ。それには何人かのサポート奏者も加わっていて、ミュート演奏が印象的だったトランぺッターは若い太っちょの黒人だった。帰り際、出口の横にいたトランペット君に、何の気なしに(語呂もいいので)「グッバイ、マンチェスター・マイルス」と声をかけた。そしたら彼、目をキラキラ輝かせて握手をもとめ、「光栄です。そう言う、あなたは?」と猛烈な勢いで言葉を返してきた。そのあまりな感激の様に、ぼくはデイヴィスの撒いた種の圧倒的な広がりや影響力を実感。って、このネタ、過去書いていないよな? マンチェスターという都市名を見るとぼくはサッカー・チームやロック・バンドの名前ではなく、あの日の純な青年を思い出す←なんては、嘘ですが。でも、ぼくが文化の受け継ぎや人と人の繋がりの素敵を実感できるのは間違いなく、音楽を通してのようだ。あ、「キャデラック・レコード」にはチェスのブルース群を聞き込み、マディ・ウォータースの曲名からグループ名を付けた若き日のザ・ローリング・ストーンズがチェス・スタジオ詣でをする場面もちらり出て来る。そのセカンド作『12×5』(64年)と次作『ナウ!』(65年)の2作品に2度に渡るチェス・スタジオ録音曲が収められている。前者に入っているインスト曲「南ミシガン通り2120」は同スタジオの住所を冠したものだ。

 映画「キャデラック・レコード〜音楽でアメリカを変えた人々の物語」を見て、ぼくの心の隙間にある何かが疼いてしまい、それがとりとめもないことをいろいろ書かせている……。

 正義は勝つ(?)と控えめにガッツポーズ……。日比谷野外音楽堂。

 1週間前の天気予報では<晴れ>となっていたはずだが、数日前には雨天の予報が出されるようになり、当日は昼頃には雨が降りだす。うわー。少年のころ、ウッドストックの映画を見て雨天のあと泥だらけになる観客が映し出されて素敵だなと思ったことがあったはずであり、事実そういう場合は人より汚れるのが偉いというおバカなメンタリティの持ち主のはずなのだが、なんかいつのまにかワタシは汚れるどころか濡れるのもイヤと考えるようになってしまっている。うーぬ、見事な堕落ぶりに唖然となるなー。ほんの少し風邪っぽく、この時期(豚インフルエンザ。後から見るとなんのことだか分からなくなるので、書いておこう)、本格的に風邪を引くとシャレにならないとも思ったためもあるか。しかし、会場についたころには少し青空がのぞくようになり、雨の心配はなくなり、ぼくは冒頭の心持ちを得たのだった。

 今年は大西ユカリとウシャコダという日本勢と、クリス・トーマス・キングとロバート・クレイ・バンドの米国勢、全4組が出演。藤井康一(2005年11月9日)率いるウシャコダ(結成30年とか)からちゃんと見たが、ソウルとブルースの旨味をまっすぐに日本人的表現に転化した行き方には大きく頷かされずにはいられず。二管を付けての演奏もいいし、藤井もカッコ良くも味があるし、ほんといいバンドじゃないかっ。黒人音楽愛好者に顕著なユーモア感覚にもニッコリ。最後のほうで、ギタリストとベーシストはお互いの楽器を投げ合い楽器の交換をしようとするが、見事に両者とも受け取れず落とす。うひゃ。なんか見ていてとっても温かい気持ちにもなれたし、ソウル・ファンに悪い人はいない、なんて単細胞な思いもしっかり得た。

 新世代のブルースマンてな感じで80年代半ば過ぎに出たニューオーリンズ在中のブルースマン、クリス・トーマス・キング(64年生まれ)のパフォーマンスはドラムとのデュオにて。生ギターを弾きながら歌い、ときに電気ピアノを弾くとことも。ぼくには端正すぎるところがあったかな。ミレニアム以降はコーエン兄弟の『オー・ブラザー!』のサントラ参加やヴィム・ヴェンダースの『ソウル・オブ・マン』(2004年7月6日)に出演するなどして新たな聞き手を獲得しているようで、そうしたほうの顧客に合うパフォーマンスと言えなくもないのか。

 トーマスのショウが始まるころには陽もさしたりして、ちょい爽やかな気分も味わう。客層はけっこう高め(白人も散見される)だが、総じて円満。かつてのブルース・フェスは酔っぱらって騒ぐたちの悪いお客が散見されたもんなー。なぞと遠い目をしていたら、かつて現代ブルースの星として熱い注視を受けたクレイとそのバンド(キーボード、ベース、ドラム)が登場。張りのはる歌声と艶と緊張感のあるソロはやはり一級品。いろんなブルースやアーシーなR&Bのパターンを伝えんとするかのように、シンプルではあるが多様性ある楽曲を朗々と開いて行く。お、黒人音楽アンヴァサダー。彼は南部(53年)生まれの黒人ながら全然ブルース経験を持たずに普通にロックを愛好していたところ、高校生のときにブルースの存在を知り、その後ブルース道に邁進したという人(それは、白人ブルースマンや日本のブルースの担い手と同様の筋道ですね)で、それゆえの明晰さが吉でもありますね。

 この晩、夜9時過ぎには大雨になり、一時は雷雨も。24回を数えるそうだが、ジャパン・ブルース&ソウル・カーニヴァルに幸あれ! 


ベン・シドラン

2009年5月23日 音楽
 洒脱な“ジャズ・ビヨンド”表現の担い手(2006年4月9日、2007年1月15日、2008年3月17日)の今回のショウは<ザ・ナルディス・リズム&ジャズ・レヴュー>という名目がついてのもの。ナルディスというのは現在シドランが所有するレーベル名であり、リズム&ジャズというのはリズム&ブルースのもじり、なのだろう。事実、今回のパフォーマンスにおいてシドランはピアノは触らずにハモンド・オルガンだけを弾き、ドラマー(息子のリオ・シドラン)とパーカッション奏者(モーゼズ・パトロウ)を併置していることに伺えるように、程よくグルーヴィ&アーシーな行き方を標榜したと言えるか。ギター奏者は90年代にサンフランシスコでチャーリー・ハンター(2009年1月16に血、他)らとT.J.カークを組み、現在はスタントン・ムーア(2007年12月11日、他)らとも付き合いを持つウィル・バーナード。さすが達者、いろんな弾き方できるなー。ベースレス編成で、ベース音はすべてシドランが左手で担う。彼がそんなことするのを初めて聞いたが、まっとう。
 
 パフォーマンスは演奏部に力を入れつつ、けっこうシドランの語りと歌の中間を行くようなヴォーカルを聞かせる形で進む。本人曰く、そんな歌い方は「モーズ・アリソンやボブ・ディラン愛好から来たんだろうね」。臨機応変、たぶん綴られる内容はウィットが利いたものなのだろう。セロニアス・モンクの「ブルー・モンク」の応用リフで始まり、最後にはボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」になって終わるなんてものも彼はやった。後半はリオ・シドランとジョイ&ザ・ボーイという洒脱ポップ・ユニットを組んでいる女性歌手のジョイ・ドラグランドが出て来て、フィーチャーされる。リオとジョイはウィスコンシン州マディソン(それは、シドランがずっと居住している街)にあるウィスコンシン州立大学時代からの知り合いとか。

 そのマディソンは学生街であるがゆえライヴ環境は悪くないそうで、だからこそかつてはオーティス・レディングもギグのために訪れたりもした。67年12月10日にツアー中のレディングは亡くなっているが、それはマディソン空港手前の極寒のモノナ湖にチャーター小型飛行機が墜落してしまったからだった。その悲劇が起きたとき、若きシドランは好奇心向くまま英国に住んでいた(蛇足だが、一時UKにいたことはキャピトル発の71年デビュー作『フィール・ユア・グルーヴ』に反映された。そこには、チャーリー・ワッツ、ピーター・フランプトン、グリン・ジョーンズら英国勢も関与している)そうだが、湖岸には碑があるという。その時マディソンで予定されたレディングのショウの前座でブッキングされていたのはチープ・トリックの前身バンドで、シドランの奥さんになる女性もその公演に行こうとしていたという。


 おもいっきり声を出せること、おもいっきり歌えること、きっちりオイラの節/佇まいを持っていることって素敵だな。アイリッシュ勢が二つ一緒の出し物、有楽町・東京国際フォーラムのホールC。会場内の空気がいっぱい震えた。

 まず、ホット・ハウス・フラワーズで天下を取ったこともあるオ・メンリィ(1999年9月23日、2000年10月3日、2001年7月28日)が出てきて、ソロで30分。アカペラで始まった彼のパフォーマンスはピアノの弾き語りだけでなく、カリンバを弾きながら歌ったりも(けっこうアフリか音楽を聞くこともあるんだろうな、とそれは思わせる)。気ままに自然児のごとく、身体のなかからわき上がってきたメロディや言葉を宙に浮かせる。やはり、ワン・アンド・オンリー。超然。

 そして、今年2度目の来日となるザ・スウェル・シーズンが登場、ぶっとさとしっとりさをうまく併せ持つ歌心横溢表現を堂々展開。それは先の来日公演(2009年1月15日)と同様の所感を与えるものだが、その澄んだまっつぐ風情は絶対的なものがあるナ。最後は両者一緒にボブ・ディランの「フォーエヴァー・ヤング」を嬉々と、力強く披露。オ・メンリーの新作はザ・スウェル・シーズンのお二人の助力がなければ出来なかった一作。家に帰ったら、絶対聞き直してみようと思ったはずだが、もちろんお酒の誘惑に負けまくるぼくにそんな時間はなくなるのだった。


 破天荒オルガン奏者のKankawa/a.k.a.Blue Smith(2002年1月5日、2002年3月26日)が六本木・STB139でやっているオルガン奏者勢揃いにてジャズ・オルガンの巨匠ジミー・スミスの財産を愛でようとする出し物。今回はギタリストが沢山そろったので、もう一つウェス・モンゴメリーというお題目も加えちゃったらしい。そういういい加減さ、いや鷹揚さはバンド・マン的と言えるかな。オルガン奏者4人、ギター奏者6人、電気ベース奏者とドラム奏者が各2人づつ、そして曲によっては3人のホーン・セクションが加わる。総勢、17人なり。

 前田憲男、田代ユリ、酒井潮というヴェテランのオルガン奏者の方々の演奏には今回初めて触れる。みんな、余裕とともに年季入っているよなー。ステージに置いてあるハモンド・オルガンは2台、曲ごとに奏者が変わって行く。Kankawaはステージ横にいて曲間にドスの利いた声で楽しいMC/解説をぶちかます。そうしたなか、一番沸いたのは山岸潤史(2008年9月11日、他)が出てきて演奏しているとき。やっぱ、訴求力が違うよなー。彼と並ぶととっても体型が対比的な是方博邦のエッジィなソロにもニコっ。後半、山岸とともに来日中のグルーヴ・マスターのジェイムズ・ギャドソンがステージに上がり、ドラムを叩く。そりゃ、客は湧きます。

 おっさんたちのプレイグラウンド……。音楽には愛がなくっちゃ、笑顔がなくっちゃ。音楽的にはそんな難しいことや練ったことをやっているわけではないが、歓びと弾む気持ちがあるパフォーマンス群にはコレデイイノダと思わせるものあり。最後はステージに全員出てきて幕。

 丸の内・コットンクラブ(ファースト・ショウ)で、NYに住む66年ドイツ生まれのジャズ・ピアニスト(フランス育ちで、フランスで活動していたことも。英語MC にボンソワとかメルシーとかフランス語も少し入れていました)を見る。90年代中期から基本ブルーノート・レコードを拠点としていて、90年代を中心に来日も10回ぐらい重ねるのかな。ぼくは今回初めて彼の生演奏に触れるが、思っていた以上の俊英の様におおきくうなづく。今回、彼の鍵盤さばきが手に取るように見える位置で見ることができたので、余計にそう感じたナ。

 とにかく、演奏が闊達にして確か。奔放に歌う感じもしかと持つ。ぼくは彼にけっこう耽美的な味にポイントありと見ていたりもしたが、現物はもっとシャープでフラッシィなところも。いろんな奏法を繰り出すとともに(有名ジャズ曲の引用も入れたりもする)、彼のジャズ観を表すかのように明晰な綻びや歪みも適所で入れたりもして、その総体は現代ジャズ・ピアニストとしての秀でた身の処し方をしていると思わされる。拍手! 97年に彼はカサンドラ・ウィルソン(2008年8月11日)との双頭作をブルーノートから出しているが(『ランデヴー』)、それもあってしかるべき顔合わせだったのダとも今回のショウを見て思わせられたな。

 生で見たテラソンはアフリカ系かカリブ系の血が少し混ざっている感じ。で、けっこううなり声をあげて演奏したりもするのだが、それもキース・ジャレット(2007年5月8日、他)のように嫌な感じではなく、なんとくグルーヴィ。ベース奏者とドラマーは米国黒人で見た目から判断するとまだ25歳以下か。けっこうアトラクティヴなルックスも持つ(でも、行儀は良さそう)彼らもジャズ流儀と現代的立ちを併せ持つもので、秀逸。ベン・ウィリアムズとジャマイア・ウィリアムズ(兄弟ではないと思う)、まだ無名の奏者たちだが、こんご名前が見られるようになるんじゃないのか。

 ここは、ジェイソン・モラン(2007年1月16日、17日)、アーロン・パークス(2008年11月22日)、ロバート・グラスパー(2007年10月3日、2009年4月13日)といったブルーノート・レコードと契約する好現代ジャズ・ピアニストのショウをいろいろブッキングしているが、もしかすると(一番期待していなかっただけに)、ぼくはテラソン実演にトップ級の感銘を受けたかも。思わせぶりなところがなく、ジャズ初心者にももっとも分かりやすいのが彼ともしっかり感じました。あ、そういえば、なぜかライ・クーダーはテラソンのことを気に入っていて、近年の2枚のアルバムで彼を起用している。

 そして異動(根津美術館近くのビルに、“サマーソニック・オーディション会場”という張り紙がされているのを見つける)、南青山・ブルーノート東京でマデリン・ペルー(2006年8月24日、他)のセカンド・ショウを見る。ノラ・ジョーンズ以降もっとも成功したジャジーな女性シンガーの一人で(デビューは彼女よりもずっと早いが)で、アーティスト肌でとっても気分屋なんてかつては喧伝された人だ。ライヴに接するかぎりはそんなふうには見えないんだけどね。

 過去の来日ショウと異なるのは今回の同行バンドの編成。過去は生ギターを渋く弾きながら歌う本人をピアノ/キーボードとリズム隊によるトリオがサポートしていたが、今回はそういう編成に再結成スティーリー・ダンにずっと参画しているセッション・ギタリストのジョー・ヘリントンが新たに入っている。ちなみに、リズム隊は近年ずっと一緒にやっている基本ジャズ側にいる奏者たちであり、今回新たに関与するピアノ/キーボード奏者はパット・メセニーやマイケル・ブレッカーらに重用されるなどして90年代後半にやたら注目を浴びたジム・ビアード。彼には一度インタヴューしたことがあるけど(ジョージ・ウォリントンに個人師事していたことがあるそう。ジャズに燃える若き彼は真面ジャズ・ピアニストのウォリントンからこんなものも聞いてみればとウェザー・リポートを紹介されてそんときはざけんじゃえねえとブチ切れた、なんてことも言っていたはず)、秀才さと変人さを合わせ持つ捉えどころのない人物だった。そんなビアードは今年久しぶりにリーダー作を出したものの、ここ7年間ほどは名前を出す事がなかったが、そんなところも彼らしいかも。実はビアードとヘリントンはずっと昔から仲良しさんで、6月にはスティーリー・ダンの長期欧米ツアーに同行することになっている。会場で葡萄畑の青木和義さん(Banda Planetar10という、越境アコースティカル・ユニットを現在やっているそう)と15年強ぶりぐらいに邂逅したが、ぜんぜん違う音楽趣味を持っていそうな彼はビアードのことを前から気に入っていたようで、熱く語っていらっしゃった。

 そんな二人の多様な演奏もあり、サウンドの色調はけっこう変わったかな。その手触りのいい達者なバンド・サウンドはよりロック〜シンガー・ソングライターのりなものになっていたはずで、それは彼女の非ジャジー性を浮き上がらせていたはず。披露していた11曲はすべて過去のオリジナル4作品で発表している曲群。その内訳は96年デビュー作から1曲、04年ブレイク作から4曲、06年作から3曲、09年作から3曲、というもの。ベッシー・スミス他で知られるブルージィ曲「ドント・クライ・ベイビー」はやったものの、スタンダード曲は一切やらなかったはず。でも、そうではあってもやはり多くの曲からは時間を多大に遡るような感覚がこぼれ落ちていたのはまぎれもない事実。それは聞き手のなかに入ってきてじわーんと広がるものでもあり、それはペルーの偉大な個性だと思わずにはいられず。本来、それはレトロという言葉も似合うもののはずだが、今回のショウに関してはその言葉は似合わないような気も。きっと、それは<自分なりの今>が自然体で出せればOKという気持ちがゆったりと横たわっていたからではないだろうか。



山浦智生

2009年5月16日 音楽
 今はBack Soul Invaders(2009年3月29日)を率いる人物のソロ・パフォーマンス。渋谷・Li-Po。シンプルな音色のキーボードを弾きながら歌う彼に加え、モミー君といういい味出しているお友達の打楽器奏者(肉声でも活躍。けっこうバッキング・コーラスや掛け合いをやったりも。3月29日にも参加)も全面的にかかわる。2部制、レパートリーは尽きぬという感じで、合わせて2時間以上やった。かつてメジャー契約していたディキシー・タンタス(1999年4月23日、6月23日、9月30日)時代の珠玉の曲群は封印しているようで、その曲のストックはすごいな。いや、その質についても。最初にザ・ビートルズ体験があり、そして米国黒人音楽に対する趣味のいい思いがあり、高潔な率直さがあり……そういう項目がぼくの趣味と相当に重なるんだろうなーと、そのパフォーマンスに触れながら思う。あと、川崎市生まれ育ちの彼には基本、関西性がないのもぼくにとっては分かりやすいものであるかな。

 簡素な設定だと、曲の組み立ての見事さや歌声の良さがストレートに伝わる。とともに、鍵盤の押さえ方と歌の韻の踏み方が本当に気持ちいいことも。さすが、地方のツアーはバンドではなく弾き語り単独でやることが多いだけあって、実にしっかりしている。ぼくに言わせれば、最良の、グルーヴィでメロディアスな、ピアノ・ロック! というわけで、やはり刮目すべきタレントと深くうなづきつつ、高揚しました。


 新作は07年以降出ていないもの、ちょうど1年ぶりの来日(2008年5月7日、他)であり、サイドの4人もまったく前回と同じ。で、基本はンデゲオチェロの詠唱的ファルセット・ヴォーカルをのせた流動性を持つポップ曲(16ではなく、8ビートの曲も多い)を展開していく……。と、書くとそれも前回と同様になってしまうが、多少異なる所感を受ける部分もあったかな。前回のショウを記したさい、その生理的な変テコさを示すものとして“電波”という言葉を用いたわけだが、今回はもう少しこなれた部分もあったためか電波度数が減じていると感じる部分もあり、そうするとぼくは『ビター』(マーヴェリック、99年)との繋がりを覚えたりも。クレイグ・ストリート制作のあのアルバムは、強いビートやグルーヴやゴスペル感覚などブラック・ミュージックを形作る決定的語彙を外したところで墨絵のごとくアフリカン・アメリカンの美意識や創造性を投影しようとした内容を持つものだった。

 どこかに違和感を感じる部分はあるものの、ンデゲオチェロは毅然としていろんなものを見渡せる私のポップ・ミュージックを求めんとしている……というのはやはり感じることができるパフォーマンス。今回は中央に立ちヴォーカルを取っていても演奏部になるとベースを弾く場合もけっこうあり(もちろん、その際はツイン・ベースとなる)。やはり、それはうれしい。なお、ショウの1曲目は彼女だけがベースを弾くカルテットによるインスト曲で、彼女の電気ベース演奏の妙味が実感できた。サポート陣は達者だが、ソロをとったのはキーボード奏者のジェイソン・リンドナーばかりだったのは謎。彼のシンセ演奏、ぼくはいまいち好きではない。彼はクラウディア・アクーニャ(2009年3月8日)のときも同行していたみたいだが、そのときはけっこうピアノを弾いていました。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。次のアルバムはどんな内容になるのだろう?

 ここ数日、相当に汗ばむ。ふう。南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。

 お、トレードマークの白い衣装が赤色に変わっている(笑い)。オイラ道をきっぱり行くキューバ生まれのかっとびピアニスト(2001年8月24日、2002年7月22日、2004年8月2日、2005年9月24日、2006年10月28日、2008年3月16日)のカルテット公演。例によって切れあるピアノ演奏のほかにもサンプラーやエレピや肉声も適時用いるソーサに加え、モラ・シラ(ヴォーカル、鳴りもの)、チルド・トーマス(電気ベース、鳴りもの、ヴォーカル)、フリオ・バレット(ドラム)という面々。実は過去2回の同所のショウもアフリーカノス・カルテット名義だったようで、ドラマーがそれぞれ変わっているが他は同じ顔ぶれだ。アフリカや中近東なんかも見渡している、娯楽的でときにスピリチュアルでもあるインタープレイを持つ都市型ワールド・ビート表現と、それは乱暴に書き留めることができるかな。そして、それを求める過程で、かつて有していたヒップホップ濃度やラテン濃度やフリー・ジャズ濃度は減じてきているのは間違いない。

 なんにせよ、昨日と同様の無条件に人を引きつける<音楽をする歓び>と、それと繋がった<心あるホスピタリティ>がこれでもかと充満していたのは間違いない。だから、ライヴ行きはやめられないのだ。



 二人が笑顔で並んでいると、なんか妹と姉みたい。おお。天真爛漫に音楽に献身しているところ(オトコの影も見えにくい)が似ているのではないか。もう、楽器を扱う様、声を出す様、彼女たちはほんとうに胸キュンさせるな〜。とともに、二人とも本当に性格が良さそう。ニコっ。

 が、考えてみたら、このオランダ娘とイースト・ベイ(ベイ・エリア)娘はけっこう重なるところを持っていると言える。ハンス・ダルファー(テナー・サックス)とピート・エスコヴェド(打楽器。アステカやサンタナに在籍、コンコード他にリーダー作も多数)、二人の父はともに(特に後者は)名をなすミュージシャンであり、その愛を受けてきっちりと流儀と技量を会得することで大きな注目を集めるようになったところとか。両者ともプリンスの覚えもめでたいところも、そうですね。あ、彼女たちはプリンス(2002年11月19日)のツアーで一緒になったことがあるかな。

 お二人は、39歳と49歳。若いなあ(だから、先に“娘”と書いてしまった)。すぐ側で見るとどうか知らぬが、本当にイケてる。アンチ・エイジングに苦慮する世の女性の意見を聞いてみたいと思ったが、ショウを見ると、やっぱり心から打ち込める物があるのは強いという綺麗事を痛感させられるんじゃないか。ははは。ダルファーには90年代前半に複数回取材したことがある(そのとき、綺麗だけど、肌がカサカサ気味という印象を持った)が、ぜんぜん変わらないなー。いや、いい女度数を増している。

 ショウは、現在のダルファー・バンドの線で進む。基本はメイシオ・パーカー(2009年1月21日、他)譲りのダルファーのアルト演奏(けっこう、アルバムでもそうなように音色は濁り気味)を柱に置く、ファンキー路線。ダルファー・バンドはかつてはオランダ人だけで組まれていたが、ここのところはカーク・ジョンソン(ドラム)とチャンス・ハワード(キーボード、ヴォーカル)というかつてプリンス表現にも関わったことがある米国黒人二人も入っている。ときに、レオナというあちらではリーダー作を出しているような黒人女性が出てきて歌ったり(一度だけ、チャカ・カーンばりの高音を張り上げる。彼女の持ち歌も1曲歌う)、ハワードがリード・ヴォーカルを取ったりもし、ダルファーが歌う時間は減っているが、もちろん歌う風情もよろしい。そういうなか、2曲ぐらいミディアム調の歌のない歌謡曲といったインストも披露。そういうの、まったくもって苦手で、CDだったらすぐに飛ばすだろうワタシです。

 後半、シーラ・E(2002年8月12日、2006年8月10日)が登場して、ティンバレスやドラムを叩き、間の手の歌を入れ、みんなとフリをする。演奏が終わりブレイクした際、ペリエの小瓶を開けて飲んだと思ったら瓶を指で鳴らしたり、口に唇をつけアフリカの部族表現を模した肉声表現(ビル・サマーズが『ヘッド・ハンターズ』の「ウォーターメロン・マン」の出だしで披露しているみたいなやつ)をやったりも。もー、何をやっても引きつけますね。アンコール最後にやった「グラマラス・ライフ」ではもちろんリード・ヴォーカルを取る(かつてのトレイドマークだった赤いスティックは使わなくなったんだな)。うーん、プロ、プロ、プロフェッショナル!

 南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。1時間40分ぐらいやったんじゃないか。なんかいい物見せてもらったな、という気持ちをたっぷり得る。純粋な音楽的な価値(って、ヤな言い方だが)を超えた部分で、人の気持ちを引きつけるものが山のようにあったような。……音楽に向かわせるもの、音楽がエンターテインメントとして成り立つ重要部分をあっけらかんと提示していたようなショウ。そういうものに触れることができたり、確認できたりするのも、ライヴ・パフォーマンスの美点なのだと痛感させられました。


 大連休も終わってしまったか。って、勤め人じゃないぼくは、基本、あんまし関係ない世のならわしではありますが。今年は知人にそそのかされ少し遠出をしたけど、例年だとどこに行くにも混むので、都内でまったりしているもんなー。そして、(今年は違ったが)爽やかっぽい日が続くゴールデン・ウィーク周辺が過ぎると、もうすぐ湿度がじめっとしてきて、雨天が増えるのかあああ……と毎年すこし気分が萎えてくる。あー年々、天候/気候に敏感になってきているような。また、齢を重ねるとともによりニュース全般が気になるようになったのはどうしたことか(ほんと、新聞やニュースは良くを見ます)。と言いつつ、今年のゴーデンウィークの途中からは新聞も読まず、TVもネットも見ないという環境に身を置いたので、いっさいニュースの類いに触れなかった。

 そんなわけだから、だいぶおくれて、忌野清志郎さんの死も知った。ぼくにとっての彼は、2005年7月25日の神が降りていたフジ・ロックのステージにつきる。ちなみに、ぼくが好きなRCの曲は「エリーゼのために」とかかな。ヒンシュクを買う? とっても、残念。病気にかかってしまったという報道に触れたとき、彼が敬愛するオーティス・レディングと同じ符合(晩年、喉頭がんだったと言われる)も感じたりもしたが、飛行機事故で亡くなってしまったレディング御大より倍以上も生きることができたのだ……と思うようにしよう。彼にはMGズ(2008年11月24日)の面々とメンフィス録音した際とラフィー・タフィーをやっていたころに2度ほど取材したことがあるが、あのステージの様と異なり、本当にシャイでおしとやか(でも、そこに諧謔や不思議な含みが混ざりもした)な人だった。あれだけR&B/オーティス・レディングを愛好する彼が自分の喉力に合わせて、ああいう歌唱法を飛躍して編み出したのは本当に素晴らしい才覚あってこそのもの。海外では先にブライアン・フェリー(ロキシー・ミュージック)が同様のことをしているが、彼も耽溺の果てに、息子にオーティスという名前を付けたんだよね。

 ゴールデン・ウィーク期間中、げんざい年間3000キロしか運転しないぼくが800キロ近く運転した。クネクネ山道もいっぱい走り、新緑を鬼のように浴び、蛇にもものすごーく久しぶりに遭遇し飛び上がり、古い日本様式にふれ……。その前半は仕事がこぼれ軽く悲鳴を上げかけたが、なんかもりだくさんなゴールデン・ウィークという感じ。で、例の高速道路代1000円ぽっきりというのも経験したが、なるほどちょい嬉しいものの(でも、只にしろや)うーむ。ぼくは今の車にしたときにETCを付けたからいいけど、ETC搭載車しか割引対象にならないなんてふざけた事がまかり通っていて、よく暴動が起きないものだ。いや、マジに。で、ぼくは早朝/深夜に高速を使うようにしたがそれでも少し渋滞にあい一度はパーキング・エリアが一杯で駐車できなかったりもしたから、バカみたいに交通量は増えたんだろう(カーナビ頼りで高速を降りて空いている一般道を走ったりも。もし、それを繰り返すと、通常料金よりも高くなるよな)。ということは、ガソリン消費量と排気ガス排出量は相当に増えているはずで、確実に地球の寿命は縮まったはず……。今日のTVニュースで期間中の通行量の増加は例年の20%増と報じられていたが嘘だァ。

 連休開け初のライヴはオルタナティヴという言葉がまさしく当てはまるジャズ・ギタリストの、ビル・フリゼール(2000年7月21日、2006年5月14日)のライヴ。丸の内・コットンクラブ、セカンド・ショウ。トニー・シェアー(2005年12月31日)とケニー・ウォルセンというスティーヴン・バーンスタイン(2004年9月13日)率いるセックスモブのリズム・セクションを率いてのもので、それは彼のレギューラーと言えるだろう単位となる(00年の来日もそれでのもの)。その3人で自在に重なりながら、切れ目なしに紋様を描いていくようなパフォーマンス。2曲目にはサム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」をやる。フルゼールは曲によっては大胆にカポを持ちいていた。

 ボサノヴァ初期から活躍するギター巧者(ずっと米国居住のようでMCの英語が達者)を中央に置きつつ、腕の立つブラジル人が重なる出し物。ブルーノート東京、セカンド・ショウ。ブラジル系有名曲を軽い態度で笑顔で開きましょうといったスタンスを持ち、だからこそ、身体のなかにあるいろんなものがあっさりと表れ出るという感じ。サポートはピアニスト、電気ベーシスト、ドラマー、打楽器奏者。また、シンガーとしてかつてはフォトジェニックな存在でもあった、ジョアン・ドナート(2008年8月22日)やイヴァン・リンス(2009年3月17日、他)とも仲良しのレイラ・ピニェイロが入るものの、けっこうネヴィスは歌も歌い、本編で彼女がフィーチャーされたのは2曲だけ。もう少し歌ってほしかった。ネヴィスの歌は正業でないのが一聴瞭然なつたないものだが、バック・コーラスのときはそれなりに達者に聞こえる。ドラムを叩いていた有名人アイアート・モレイラ(2000年7月10日)は途中に前に出てきて、気ままにパンデイロを叩きながら声を上げる。北のほうの土着っぽい方向でもやったらしいが、やっぱしマスターね。


スパークス

2009年4月24日 音楽
 昨日と同じく、渋谷・Oイースト。やはり、2部制で1部は昨日とまったく同様。そして、この日の2部は彼らがイタリア出身のミュンヘン・ディスコおじさんのジョルジオ・モロダーと組んで評判を呼んだ『No.1・イン・ヘヴン』を通してやる。こちらは、音楽性上、プリセット音を併用しての実演。やっぱり、いろんな意味でイケてる二人……。うぬ、他のアルバムのも聞きたい。ラッセル兄弟はとっても達者(彼らはLAぽくないが、そういう部分は非常にLA的と言うことができるかも)ゆえ、二人だけでやるパフォーマンスというのもアリじゃないか。コットンクラブみたいな所で、そーいうのをお酒片手に座って見れたら最高だよな。

スパークス

2009年4月23日 音楽
 美は乱調にあり”、“ポップは枠を定めない変テコな冒険なり”という真理を人を喰ったスタンスとともに、ずっと追求し続けている孤高の在LA兄弟ユニット。いやあ、素晴らしいなあ。もう感服。

 渋谷・Oイースト。7時半スタート(通常の洋楽系公演より30分遅い)だったが、たっぷりやった。休憩を挟む2部制で、終わったのは10時を回っていたのでは。おお、じいさん体力あるなあ、と誰もが思ったのではないかな。でも、彼らは去年春に新作『エキゾティック・クリーチャーズ・オブ・ザ・ディープ』をリリースした際に、71年以降リリースしてきたすべてのアルバムを一晩につき1枚、アルバムの曲順どおりに披露するという酔狂きわまりない21夜にわたる帯のショウをロンドンで敢行している(それを実現させるために、彼らは地元LAで4ヶ月練習したそう)ので、やろうと思えばいくらでもできるよな。サポートはギター、ベース、ドラムの3人だが、彼らもそのときのメンバーらしいし。

 1部はその新作からの曲を、順番通りやる。中央にヴォーカルのラッセル(弟)、客席に向かって右側に電気キーボードのロンが基本位置する。間を空けてその後ろにはサポート陣が立つのだが、彼らの前には大きな額縁が置かれていて、正面から見るとバック・ミュージシャンたちは額のなかの絵のような感じになる。また、後方中央には一番デカい額縁があって、そこには映像が映される(ロンはそこに映された鍵盤を弾く真似をしたりも)。音はプリセット音併用、ロンはキーボードを弾かずに、後ろでポージングをしたり、へんな踊りをみせたりも。いいな〜、その味。また、一部ではコスプレ外国人女性5人が出てきて、ステージに華を添えるときも(わざわざ、連れてきたのか??)。他愛ないが、そうした設定からもスパークスらしさは溢れる。で、音のほうは存分に素晴らしい。もう剛性感たっぷりで、プロ。良く動くラッセルの声も良く出ていて、訴求力もたっぷりあるし、ほんと言う事なし。エンディングは中央ヴィジョンに過去のレコードのジャケット・カヴァーが順に映し出され燃えて行き、最後に新作カヴァーが映し出される、というもの。レコードによって客のわき方が違っていたりして、それも興味深い。

 セカンド・セットでは彼らの大ブレイク作『キモノ・マイ・ハウス』(74年)をアルバムごと披露。こちらはプリセット音なしで、生身の5人だけで全部まかなう。額縁とかのステージ美術は撤去され、映像も用いず。そして、アンコールは75年作『プロパガンダ』から3曲と近年の『リル・ベイトーヴェン』から1曲。全行程終了後も、彼らはしっかり客の熱烈反応(今年、一番になるかも?)にあったかい態度で応える。何からなにまで、素晴らしい。いやあ、ポップ・ミュージックってすさまじくいいなっ! 


夕方4時、髪をカットするために表参道に。新緑を沢山つけた大きな木々が両側に並ぶメインストリートがあっというぐらい綺麗。こんな風景、海外都市で触れたなら大感激するんじゃないかと思えたりもし、もっと東京でも好奇心旺盛にモノを見なきゃナなんてふと思う。この日、日中はものすごく温かい。間違いなく、今年一番。ただし、夜はかなり涼しい。寒暖差、すげえ。

 丸の内・東京国際フォーラムのホールAで、ブラス陣と打楽器群が渾然一体となったショウ、“ドラムラインライブ”を見る。一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったアトランタ在住音楽プロデューサーのダラス・オースティンの実体験を元にしたと言われる、アメリカン・フットボールの試合におけるハーフタイム・ショーでパフォーマンスする華やかかつエンターテインメント性に長けたな黒人大学のマーチング・バンド在籍員の青春模様を描いた02 年米国映画『ドラムライン』の演奏部醍醐味にプラスαし室内ステージ化したもの。映画の好評を受けて制作され、アメリカ各地をいろいろ回っているらしい。

 出演者はすべて黒人若人で、30人強。動きたっぷりのマーチング・バンドのパフォーマンスを柱に(あれだけ動きながら演奏するのはやはりすごいな。衣装はコロコロ変わる)、趣向を凝らしたブラス隊だけやドラム隊だけの出し物もいろいろ持ち込まれるととともに、ティナ・ターナー、ザ・スプリームス、ザ・テンプテーションズ、アリサ・フランクリン、ジェイムズ・ブラウンなどのそっくりさん(とは、言いがたいか)が出てくるソウル・ショウ・コーナーなども。音楽要素もスウィング・ジャズからR&Bやゴスペル、はてはヒップホップやテクノの断片まで、いろいろと。マーチング・バンドはEW&Fやスティーヴィ・ワンダー曲なども演奏する。百花繚乱、そこからは積み上げられてきた様々な米国ブラック・カルチャーをお楽しみ感覚たっぷりに差し出したいという意図が浮かび上がるか。

 パーカッションだけの演奏のときはプリセット音も用いられるが、基本は生音勝負。それこそは、マーチング・バンドの美点ですね。もちろん、ときには客席部に出てパフォーマンスする場合もアリ。そして、そういう際はニューオーリンズのブラス・バンドのあり方を思い出させたりもし(今回、スーザフォンは3人)、いろんな繋がりを感じさせられたりもするのは嬉しい。2部構成で、2部が始まるときは明るいなか打楽器陣が客席部に出ての移動ありのパフォーマンスを延々やってから始まったのだが、そのときお客さんはどうしたんだというぐらい大騒ぎ。彼らに群がり握手を求める。おお。実は、なんか軽めに感じるところもある。でも、そういう様に触れて、できるだけ地方を回って子供たちの目に触れる機会が出来たならとも痛感。もう、ブラスや打楽器やいろんな黒人音楽要素に肌で目覚める人、続出ではないか。ぜったい、子供たちに吉の選択肢がぐわーと広がること間違いない。

 それからショウを見ながらふと思ったのは、アメリカ人にとって管楽器ってけっこう身近なものなんだろうなということ。日本だと、吹奏楽部に入る人ぐらいしか管楽器に触れないが、もっとあちらの学校では普通の学校生活の横にあったりもするものなのだと思う。だから、チンピラ高校生で組まれたフィッシュボーンも当初から三管編成をとったりもしたのだ。なんてことも感じたのは、フィッシュボーンの新作(昨年フランスでの、やはり三管を擁するライヴ盤。同ソースのちゃんと編集されたDVD付き)をけっこう聞いているからかな。蛇足だが、先に触れたダラス・オースティンは全盛期、マドンナやTLCを手がけるかたわら、フィッシュボーンをプロデュースしたことがあった。BMG傘下にあった自己レーベルのラウディに彼らを引き入れたんだけど、ホントはオレもメンバーになりて〜とか言っていたんだよな。

 そして、国際フォーラムの向かいのトキア・ビルに行き、コットンクラブでNY在住のイタリア人ジャズ歌手(2008年9月16日)のショウを見る。定時にバックのピアノ・トリオが出てきたと思ったら、ガンバリーニもすぐに出てきておもむろに歌いだす。普通は伴奏陣で1曲やって場を暖めてから主役は登場とかいうケースが多い中、この素っ気のなさは珍しい。

 でも、歌い始めたら、もう彼女の独壇場。1曲目からスキャットもがんがん、今トップ級にジャズ・ヴォーカルであろうことを確かな能力とともにまっとうしている人だとぼくは思う。とともに、感心したのはその容姿。光沢のある青色のピタっとしたパンツ・スーツを着こなした彼女はきっちりシェイプアップしてて、しかもけっこう綺麗(昔のソフィア・ローレンを思い出させるかも)。ほう。ボタンを締めたジャケットの下はシャツを着ておらず、藍色の下着と胸の谷間が強調される。おお、さりげなく身体はってる。が、いやらしい感じ、下品な感じは皆無。それは彼女がジャズ歌手の挟持あふれる質の高いパフォーマンスを毅然として開いていたからなはず。彼女の歌を色気に欠けるという人もいるけど、それはそういう面もあるのではないか。ぼくは音楽にはそんなに異性の色気を求めないので気になりません。

 サポートのうち、「こんな人に演奏してもらえるなんて光栄」てな感じで紹介されていたドラマーのジェイク・ハンナ(1931年生まれ)はウェスト・コースト・ジャズ界の名伯楽(リーダー作もコンコード・ジャズに数枚残す)。で、彼の簡素なドラム・セットにはびっくり。スネアとシンバル2枚、ハイハット、小さめの口径のバスドラだけ。基本は右手でシンバルをチーチキ叩いてリズムをキープするだけで、他はアクセントを入れるときに使うのみ。でも、それでなんの問題もない。ただし、ブラシとスティックは曲の中でもけっこう持ち替えしたりもしていました。あーそういやあ、ドラムライン見ているときに、小学校高学年のときに学校の鼓笛隊に入っていて小太鼓をやっていたの思い出しもした。そのため、ぼくの左手のグリップはまっとうです。


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