まず、訃報を二つ。ここんとこずっと書いてなかったのに(ブランドXのギタリストのジョン・グッドソールのように、多忙さにかまけてまいっかとなった人もいるけど)、ここにきて大物の訃報が相次いでいて、あわわわ。

 まず、ベーシストのロビー・シェイクスピア(1999年12月6日、2003年7月25日、2009年3月7日、2011年11月4日、2014年10月10日、2018年9月18日)。ジャマイカではリズムのことをリディムと言うんだよという説明とともに、スライ・ダンバーとの人間基準法違反のリズム・セクション音は1980年代前半に、一気にジャマイカを飛び出し、インターナショナルな存在となった。二人の送り出す攻撃的なビートはミリタント・ビートなんて呼ばれたりもした。フロリダでの腎臓手術後にお亡くなりになったようだ。享年、68。

 1973年、スライ&ロビーは出会って間もなくチャンネル・ワン・スタジオのハウスバンドであるザ・レボリューショナリーズのメンバーになり、様々なシンガーのサポートをするようになる。2人の相性の良さは当人たちもすぐに分かったのだろう、彼らはタクシーと名付けたレーベル/プロでクションも設立。その命名理由は、タクシーのように誰でも乗せる、からではなかったか。1970年代後期には、2人は当時のNo.1レゲエ・グループのブラック・ウフルーにも太く関与。その2作目はタクシーから出た。1980年にブラック・ウフルーはアイランド・レコードに移籍、同社がボブ・マーリーその後の推しとして彼らを位置付けたこともあり、スライ&ロビーのビートはより国外に出やすくなった。

 レゲエNo.1リズム・セクションは、出会って10年の間に世界的なリズム隊となった。それは、当時のビート・ポップにとってジャマイカ的因子が必須要素であり、レゲエ/ダブが米英のモダン・ミュージックを触媒として伸張させる時代になっているのを示してもいた。

 セルジュ・ゲンズブール、グレイス・ジョーンズ、イアン・デュリーなどのアルバムに参加したのが1979〜1980年。そして、グエン・ガスリーやジョー・コッカーに続き、1983年にはボブ・ディラン、カーリー・サイモン、ハービー・ハンコック、渡辺香津美、ノーナ・ヘンドリックス、ザ・ローリング・ストーンズのレコーディングなどに参加し、彼らへの注目は大爆発。もう二人に対す妄想が膨らみまくった時期に行われたブラック・ウフルーの来日公演(1984年のライヴ・アンダー・ザ・スカイ)の際の、マイケル・ローズの喉力とスライ&ロビーの強度の衝撃は今もぼくの身体のどこかに残っている。

 二人には、1990年代に一度取材したことがあった。P-ファンクのメンバーにインタヴューできたときのように嬉しかった。ロビーは強面で怖そうな感じを受けていたが、そんなことなく朴訥とした方だった。スライの方がより愛想が良かったのは確かだが。そのとき、どんな話をしたのか。PCがクラッシュしていて引き出せないのだが、それらかつての文章をなんとか復活させるというのは今後の宿題だな。二人の『Taxi Fare』(Haertbeat,1986年)のライナーノーツを書けたのはいい思い出だ。その日本盤は、当時あったレコード会社であるNECアヴェニューから出た。

 過激なダブ効果にもビクともしない芯と頑丈さを持ち、好奇心旺盛にエレクトロな音にも望んだし、それこそ山ほどの他流試合的録音セッションもこなしまくったスライ&ロビーではあったが、俺たちの本望はシンガーのバッキングにあるという思いも持っていたんじゃないだろうか。

 しかし、ずっとコンビを組み続けた1歳年長のスライの胸中や……。

▶過去の、スライ&ロビー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/december1999live.htm
http://43142.diarynote.jp/200903122225149470/
http://43142.diarynote.jp/?day=20111104
http://43142.diarynote.jp/201410201120545545/
https://43142.diarynote.jp/201809191422205248/

 そして、バド・パウエルの流れをつぐ名ジャズ・ピアの奏者であるバリー・ハリスの訃報も届いた。享年、91。天命をまっとうしたと言っていいのかな。彼はジャズ・ピアノ講師としても知られ、このコロナ禍でもリモートでレッスンを行っていたものの、残念ながらニュージャージー州の病院でCOVID-19感染による合併症で亡くなった。

 なんか妙な言い方だが、ジャズらしい、ジャズ・ピアノを弾く御仁。デトロイト生まれ。教会で弾いていた母親からピノの手ほどきを受け、1950年代に入ると同地のシーンで活動しだし、アート・ファーマーやドナルド・バードらのレコーディンに関わり、1958年にアーゴからデビュー作をリリースした。その後、くつろいだいぶし銀的な指さばきのもと、リヴァーサイド、プレスティッジ、ザナドゥ、コンコード・ジャズ、エンヤ他からアルバムをリリース。アルファやヴィーナスといった日本の会社からアルバムをリリースしたこともあった。例外もあるが、それら多くはピアノ・トリオで録音し、ピアノ・ソロも最低2作出している。

 夜、渋谷bunkamura・オーチャード・ホールへ。上原ひろみの(2004年11月25日、2005年7月31日、2006年9月3日、2009年9月4日、2010年12月3日、2011年9月3日、2011年9月9日、2011年12月11日、2012年7月25日、2012年12月9日、2014年9月6日、2014年9月7日、2016年9月4日、2016年9月15日、2016年11月16日、2017年5月7日、2017年9月28日、2019年11月17日、2021年9月22日)の弦カルテットとの2021年協調作『シルヴァー・ライトニング・スウィート』(テラーク)をフォロウする公演を見る。ピアノの彼女に加え、ヴァイオリンは西江辰郎とビルマン聡平、ヴィオラの中恵菜、チェロの向井航という面々がつく。現在、5人は全12公演ものツアーをしている。

 すべての曲作り(1曲は旧曲を持ってきた)と編曲を自らした同作、実のところぼくは彼女のアルバムのなかで一番好きなんじゃないだろうか。彼女の才が見目麗しく、明晰に出ていると思えるから。そして、その多面体的な魅力はより臨機応変に伸ばされ、十全に生の場で開かれていたと思う。

 収録曲をずずいとやるとともに、途中にピアノ・ソロと弦楽四重奏だけの演奏パートも入れ、アンコールではヴィオラ奏者とのデュオも披露し(会場により、デュオの相手は変わるそう)、さらに最後は皆上半身はTシャツになり、さばけたバルカン色調を増した上原曲「リベラ・デル・ドゥエロ」も演奏する。その際に弦の奏者たちは濁った民族音楽的なソロをかます。いやあ、見せどころを本当に上手に設けつつ。音楽性の高さと音楽愛を5人は出していた。

▶過去の、上原ひろみ
http://43142.diarynote.jp/200411292356580000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20050731
http://43142.diarynote.jp/200609070211000000/
http://43142.diarynote.jp/200909120647256771/
http://43142.diarynote.jp/?day=20101203
http://43142.diarynote.jp/201109121452527893/
http://43142.diarynote.jp/201109151818437240/
http://43142.diarynote.jp/201112191449196187/
http://43142.diarynote.jp/201207310933428147/
http://43142.diarynote.jp/201212140959573710/
http://43142.diarynote.jp/201409100929108025/
http://43142.diarynote.jp/201409100930206205/
http://43142.diarynote.jp/201609201052518160/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160915
http://43142.diarynote.jp/201611171021419374/
http://43142.diarynote.jp/201709291218574592/
https://43142.diarynote.jp/201911181004132426/
https://43142.diarynote.jp/202109230955039389/

<今日の、へえ〜>
 前日は、キング・クリムゾン公演がオーチャードホールであったのか。上原のツアーに締めはまたここで28日に。その後、年末(大晦日も)から新年1月(元旦から)にかけて、彼女はかなりの公演をブルーノート東京ですることになっている。ああ、働き者。オレの年末年始は……??

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