青山・月見る君思フ。やっと、LOOLOWNINGEN & THE FAR EAST IDIOTSを見ることができた! ヴォーカルとエレクトリック・ギターの赤倉滋、エレクトリック・ベースの上田睦(ぼくが2009年10月7日に見たときはすで抜けていたようだが、スクールフード・パニッシュメントに在籍していたこともあったよう)、ドラムの山本淳平からなるトリオ・バンドだが、ちゃんと媒体に彼らのことを書いたことがないぼくが言うのもなんだが、素晴らしいロック・バンドだ。良い。2度も全米ツアーを行っているものの、アンダーレイテッドな存在だとも思うことしきり。
まず、アダルトな襞を持つ楽曲を介しての、赤倉の強度のある伸びるヴォーカルがあり。だが、上田が6弦のフレットレスのエレクトリック・ベースを手にするように(右手、見事にいろんな使い方をしていたなあ)、そのバンド・サウンドは一筋縄ではいかない。まっすぐな歌心と心地よいひしゃげた感覚を持つバンド音の拮抗(ゆえに、インスト部からも耳を離せない)はギザギザした感覚を伴いつつ、多大なダイナミクス/ストーリー性を抱えていろいろなところに受け手を連れていく。リズム隊のバックグラウンド・コーラスもときに効き、赤倉と上田はときにダダいパフォーマンスも見せる。ヘンテコだけど、まあ自由。とにかく、見渡している世界が広く、それを自分たちが考える現代ロックに見事にフォーカスさせているバンドという認識を強めた。また、ちゃんと見なきゃ。
続いては、札幌から来たという、やはりトリオ・バンドの喃語(なんご)。肉声とギターの武田 紀亮、エレクトリック・ベースの照井 ドラムの岩崎 隆太郎という面々。ルロウズの短いながらも圧倒的なパフォーマンスの後だとどうかなと思った。実際、アタマの方は先の演奏と比べるとコンビネーションがもう少し常識的とも感じたが、肉声の力と冒険心や知見を抱えたバンド・サウンドの重なりを持つということにかけて(ともに、部分的にプログ・ロック的構成感を持つことも重なるか)、ルロウズとも共通点があり、聞き所を持つ。こちらは、フロント・マンがほぼポエトリー・リーディングと言えるもので勝負、歌詞カードをのせているのだろう譜面スタンドを置いているのはいただけないが(いいじゃん。自分の言葉なんだから間違っても……)、MCのときとっても声が通るのに驚いた。ギター・アンプが不調であれこれやっている間、リズム・セクションが軽くフリー・フォームで演奏していたが、それに接しちゃんと演奏できるなと思った。
▶︎過去の、スクールフード・パニッシュメント
https://43142.diarynote.jp/200910140951409875/
▶過去の、山本淳平
http://43142.diarynote.jp/201504181000432127/
http://43142.diarynote.jp/201509231111454665/
http://43142.diarynote.jp/201510141817129055/
http://43142.diarynote.jp/201603151140427186/
http://43142.diarynote.jp/201702211431013289/
http://43142.diarynote.jp/201708240028435013/
https://43142.diarynote.jp/201806081020157759/
https://43142.diarynote.jp/201811191728519787/
▶過去の、LOOLOWNINGEN & THE FAR EAST IDIOTS ︎のアルバムについて。
https://43142.diarynote.jp/201610120805451037/
▶︎過去の、LOOLOWNINGEN & THE FAR EAST IDIOTS の全米ツアーについて。
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/
その後、今月いっぱいで閉まる青山・プラッサオンゼに移動。この晩の出演者はギタリストの梶原順(2017年7月28日)と三味線奏者のゲレン大嶋からなるcoco←musika。ちょうどセカンド・セットの開始から見ることができたが、中盤までゲストのヴォーカル/ガット・ギターのマルセロ木村と箱モノのフレットレスのエレクトリック・べースを手にするコモブチキイチロウ((2011年1月21日、2012年4月10日、2012年11月10日、2012年11月25日、2013年7月10日、2013年7月27日 、2018年10月6日、2019年10月6日 )のデュオが続く。サンパウロ出身のマルセロ木村のパフォーマンスには初めて接するが、しなやかにしてまっとう。声も通るし、ギターも上手い。ジョビンやトニーニョ・オルタ(2010年10月7日、2016年10月27日)の曲やオリジナルを悠々と開いていくのだが、それに寄り添うコモブチの演奏も実にぴったりで心地いい。日本の童謡「桃太郎」もやったが、それはミナスにワープした風情を持っていた。
途中からガット・ギターを弾く梶原順が加わり、過不足なく重なる。ゲレン大嶋が入ったのは最後の曲とアンコールの2曲。ファーストはけっこう演奏したようだが、彼の三味線の音って、妙に抜けていて、トロピカルだと思わすものがあった。
▶︎過去の、梶原順
https://43142.diarynote.jp/201708081429085086/
▶︎過去の、コモブチキイチロウ
http://43142.diarynote.jp/201101231224498510/
http://43142.diarynote.jp/?day=20120410
http://43142.diarynote.jp/?day=20121110
http://43142.diarynote.jp/?day=20121125
http://43142.diarynote.jp/?day=20130710
http://43142.diarynote.jp/201307291053021427/
https://43142.diarynote.jp/201810090958036278/
https://43142.diarynote.jp/201910070759405954/
<今日の、ふうむ>
毎日新聞夕刊の2面に、<発達障害と偏食は関係あり、その感覚過敏やこだわりが偏食に結びついている(→ゆえに、それに無理解で、一方的に偏食を責めるのは……)>というような特集がなされていた。実はぼくは高校を出るまで、食べ物の好き嫌いが常軌を逸して激しかった。肉と魚と野菜(果物は平気)は、基本的にダメ。とくに中学生までは偏食がすごくて、給食で完食できるのは月一回あるかないかではなかったか。牛乳は大好きでゴクゴク飲んでいたというのはともかく、発達障害だと思ったことも指摘されたこともない〜けっこうやりたい放題だったものなあ。そんなぼくが、学校でスクールフード・パニッシュメントに一度もあわなかったのは大ラッキーだと思う〜が、その記事を読んで多少は発達障害的偏食に自分がかする部分もあるのかとも思った。とにかく、ぼくは見た目と匂いに敏感というか不寛容で、それが自分にとって苦手と感じると、一切受け付けることができなかった。肉はだめでも、ハムやソーセージといった加工品はOK(ようは、見た目の生々しさが駄目だったのだと思う)で、煮物系の匂いはそれこそダメ駄目だった。そんなぼくがなんでも食べるようになったのは高校を出て、親元を離れてから。お酒を飲むようになると、その場で友達がうれしそうに食べているのを見てちょいうらやましさを覚えるし、飲酒で気も大きくなり(苦笑)なんでも口にすることができるようになった。あんときは、今食べないと次はいつちゃんと食事の場を持てるか分からなかったというのもある? というわけで、成人近くになって食べることの悦びも得るようになったぼくではあるが、そんなウブな過去を持つがゆえ、今はこだわりを持っていても、食通ぶってはいけないとは感じる。とともに、食えるようになるときはそうなるんだから、第三者が無理やり食べることをしいるのはやめたほうがいいと、自分の経験上せつに思う。ほんとにヤなものを口に入れるのは苦痛極まりなく、それを強制されると人間ひん曲がっちゃうよーー。親もいいかげんだったのか、偏食には緩かったはずで、それには感謝している。ぐうぜん、今日は国分寺に住んでいる母親とあって、ちょい親孝行。って、40才すぎまでは親が大嫌いでほぼ会わなかったけどね。優しくなったのは、父親が亡くなってからかな。
まず、アダルトな襞を持つ楽曲を介しての、赤倉の強度のある伸びるヴォーカルがあり。だが、上田が6弦のフレットレスのエレクトリック・ベースを手にするように(右手、見事にいろんな使い方をしていたなあ)、そのバンド・サウンドは一筋縄ではいかない。まっすぐな歌心と心地よいひしゃげた感覚を持つバンド音の拮抗(ゆえに、インスト部からも耳を離せない)はギザギザした感覚を伴いつつ、多大なダイナミクス/ストーリー性を抱えていろいろなところに受け手を連れていく。リズム隊のバックグラウンド・コーラスもときに効き、赤倉と上田はときにダダいパフォーマンスも見せる。ヘンテコだけど、まあ自由。とにかく、見渡している世界が広く、それを自分たちが考える現代ロックに見事にフォーカスさせているバンドという認識を強めた。また、ちゃんと見なきゃ。
続いては、札幌から来たという、やはりトリオ・バンドの喃語(なんご)。肉声とギターの武田 紀亮、エレクトリック・ベースの照井 ドラムの岩崎 隆太郎という面々。ルロウズの短いながらも圧倒的なパフォーマンスの後だとどうかなと思った。実際、アタマの方は先の演奏と比べるとコンビネーションがもう少し常識的とも感じたが、肉声の力と冒険心や知見を抱えたバンド・サウンドの重なりを持つということにかけて(ともに、部分的にプログ・ロック的構成感を持つことも重なるか)、ルロウズとも共通点があり、聞き所を持つ。こちらは、フロント・マンがほぼポエトリー・リーディングと言えるもので勝負、歌詞カードをのせているのだろう譜面スタンドを置いているのはいただけないが(いいじゃん。自分の言葉なんだから間違っても……)、MCのときとっても声が通るのに驚いた。ギター・アンプが不調であれこれやっている間、リズム・セクションが軽くフリー・フォームで演奏していたが、それに接しちゃんと演奏できるなと思った。
▶︎過去の、スクールフード・パニッシュメント
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▶過去の、山本淳平
http://43142.diarynote.jp/201504181000432127/
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▶過去の、LOOLOWNINGEN & THE FAR EAST IDIOTS ︎のアルバムについて。
https://43142.diarynote.jp/201610120805451037/
▶︎過去の、LOOLOWNINGEN & THE FAR EAST IDIOTS の全米ツアーについて。
https://43142.diarynote.jp/201904200941516964/
その後、今月いっぱいで閉まる青山・プラッサオンゼに移動。この晩の出演者はギタリストの梶原順(2017年7月28日)と三味線奏者のゲレン大嶋からなるcoco←musika。ちょうどセカンド・セットの開始から見ることができたが、中盤までゲストのヴォーカル/ガット・ギターのマルセロ木村と箱モノのフレットレスのエレクトリック・べースを手にするコモブチキイチロウ((2011年1月21日、2012年4月10日、2012年11月10日、2012年11月25日、2013年7月10日、2013年7月27日 、2018年10月6日、2019年10月6日 )のデュオが続く。サンパウロ出身のマルセロ木村のパフォーマンスには初めて接するが、しなやかにしてまっとう。声も通るし、ギターも上手い。ジョビンやトニーニョ・オルタ(2010年10月7日、2016年10月27日)の曲やオリジナルを悠々と開いていくのだが、それに寄り添うコモブチの演奏も実にぴったりで心地いい。日本の童謡「桃太郎」もやったが、それはミナスにワープした風情を持っていた。
途中からガット・ギターを弾く梶原順が加わり、過不足なく重なる。ゲレン大嶋が入ったのは最後の曲とアンコールの2曲。ファーストはけっこう演奏したようだが、彼の三味線の音って、妙に抜けていて、トロピカルだと思わすものがあった。
▶︎過去の、梶原順
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▶︎過去の、コモブチキイチロウ
http://43142.diarynote.jp/201101231224498510/
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<今日の、ふうむ>
毎日新聞夕刊の2面に、<発達障害と偏食は関係あり、その感覚過敏やこだわりが偏食に結びついている(→ゆえに、それに無理解で、一方的に偏食を責めるのは……)>というような特集がなされていた。実はぼくは高校を出るまで、食べ物の好き嫌いが常軌を逸して激しかった。肉と魚と野菜(果物は平気)は、基本的にダメ。とくに中学生までは偏食がすごくて、給食で完食できるのは月一回あるかないかではなかったか。牛乳は大好きでゴクゴク飲んでいたというのはともかく、発達障害だと思ったことも指摘されたこともない〜けっこうやりたい放題だったものなあ。そんなぼくが、学校でスクールフード・パニッシュメントに一度もあわなかったのは大ラッキーだと思う〜が、その記事を読んで多少は発達障害的偏食に自分がかする部分もあるのかとも思った。とにかく、ぼくは見た目と匂いに敏感というか不寛容で、それが自分にとって苦手と感じると、一切受け付けることができなかった。肉はだめでも、ハムやソーセージといった加工品はOK(ようは、見た目の生々しさが駄目だったのだと思う)で、煮物系の匂いはそれこそダメ駄目だった。そんなぼくがなんでも食べるようになったのは高校を出て、親元を離れてから。お酒を飲むようになると、その場で友達がうれしそうに食べているのを見てちょいうらやましさを覚えるし、飲酒で気も大きくなり(苦笑)なんでも口にすることができるようになった。あんときは、今食べないと次はいつちゃんと食事の場を持てるか分からなかったというのもある? というわけで、成人近くになって食べることの悦びも得るようになったぼくではあるが、そんなウブな過去を持つがゆえ、今はこだわりを持っていても、食通ぶってはいけないとは感じる。とともに、食えるようになるときはそうなるんだから、第三者が無理やり食べることをしいるのはやめたほうがいいと、自分の経験上せつに思う。ほんとにヤなものを口に入れるのは苦痛極まりなく、それを強制されると人間ひん曲がっちゃうよーー。親もいいかげんだったのか、偏食には緩かったはずで、それには感謝している。ぐうぜん、今日は国分寺に住んでいる母親とあって、ちょい親孝行。って、40才すぎまでは親が大嫌いでほぼ会わなかったけどね。優しくなったのは、父親が亡くなってからかな。
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