R.I.P.シル・ジョンソン( 1936年7月1日〜2022年2月6日?)
2022年2月7日 音楽 ちょい前に兄のジミー・ジョンソンの訃報(2022年2月1日)を聞き、長生き家系なのかと書いたら、なんと弟のシル・ジョンソン(2014年7月29日)もお亡くなりになってしまった。享年85、死因は明らかにされていない。二人の名義の『Two Johnsons Are Better Than On』(Evidence,2002年)はいろんなタイプのブルース曲が収められた好盤だった。とくに、JBビートのオープナーが格好いい。
ミシシッピー州ホリー・スプリングの生まれ。1950年ごろに家族でシカゴに引っ越し、以後はシカゴを拠点としている。当初はブルースのギタリスト/ハーモニカ奏者として活動し、ソロとしては1959 年にはキング傘下のフェデラルに初吹き込みした。
1960年代中期にはシカゴのトゥワイライト/トゥワイナイトにレコーディングしだし、初アルバム『Dresses Too Short 』(Twinight,1968年)を聞くと、南部色も持つソウル・シンガーという姿を出している。1969年にはキング牧師暗殺を受けて書いたマイナー・キーのブルージィ曲「 Is It Because I’m Black?」(Twinight)がR&Bチャート11位まで登った。そして、1970年代に入ると彼はメンフィスのハイ・レコードと契約。しょっぱい、でもどこか都会的なソウル・マン像をアピールするアルバムを4作リリースする。この時期が彼にとって、一番華やかな時期になるだろうか。
ハイから離れた1980年代に彼は自己レーベルのシャマや仏イザベルなどからアルバムをリリースするものの、1980年代後半には引退状態となる。フィッシュ&チップスのチェーン店を経営したり不動産投資をするなど、実業家の道に入ったからのよう。そんな彼が前線に戻ったのは、1990年代に入るとヒップホッパーたちによる彼のプロダクツのサンプリング需要が相次ぎ、やっぱオレの出番だナと思ったから。シカゴの重鎮レーベルであるデルマーク発の復帰盤『Back In the Game』はハイのミュージシャンたちとの録音で、彼の三女でまだ10代だったシリーナ・ジョンソン(2003年1月28日)も入った。
米国の訃報を伝えるネット記事を見ると、ほとんどの見出しが、彼がヒップホッパーたちへのサンプリング提供王であることを掲げている。まずは彼の音楽性を出してよと思わなくもないが、パブリック・エネミー(2005年8月14日、2009年7月25日)、カニエ・ウェスト(2007年3月31日)、ジェイ・Z(2010年8月7日)、ウータン・クランらにサンプリングされた1967年曲「Different Strokes」をはじめ、ブルースとつながっていることが幸いしただろう彼の引っ掛かりのあるトラックは多々引用された。それを受けて、彼は著作権を主張し、生涯困らない富を得た。1990年代後期になると、彼の音楽性はブルース回帰色を強めたが、それはソウルっぽいことをしないとセールスに結びつかないというかつての彼の判断を示唆する?
2015年にはロブ・ハッチ監督にドキュメンタリー『Syl Johnson: Any Way the Wind Blows』が作られたが、それも彼のサンプリング需要がなかったら制作されなかったのではないだろうか。→その映画のトレイラーは https://vimeo.com/ondemand/syljohnsonmovie
▶︎過去の、シル・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/201408051721103640/
▶︎過去の、ジミー・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/202202021321255619/
▶過去の、シリーナ・ジョンソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-1.htm
▶︎過去の、チャック・D/パブリック・エネミー
http://43142.diarynote.jp/?day=20050814
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
▶︎過去の、カニエ・ウェスト
https://43142.diarynote.jp/200704011614290000/
▶過去の、ジェイ・Z
http://43142.diarynote.jp/201008261617154352/
<今日の、ムスメ>
1976年生まれのシリーナ・ジョンソンはデビュー作『Love Hangover』 (Twinight,1998年)を出していこう、ジャイヴ、シャナキー、E-1からアルバムを順調にリリースしてきている。大学で学び直すということもしており、強く明晰な女性というパブリック・イメージを獲得しており、タレント/文化人的な活動も彼女はしている。2度結婚していて、二番目の旦那は大学バスケット・ボールで知られた人のよう。子供も二人授かっている。シルの奥さん、つまりお母さんはシカゴ地区の警察で黒人女性で初めて重職についた人のようだが、アルコール中毒に苦しんだこともあった。
ミシシッピー州ホリー・スプリングの生まれ。1950年ごろに家族でシカゴに引っ越し、以後はシカゴを拠点としている。当初はブルースのギタリスト/ハーモニカ奏者として活動し、ソロとしては1959 年にはキング傘下のフェデラルに初吹き込みした。
1960年代中期にはシカゴのトゥワイライト/トゥワイナイトにレコーディングしだし、初アルバム『Dresses Too Short 』(Twinight,1968年)を聞くと、南部色も持つソウル・シンガーという姿を出している。1969年にはキング牧師暗殺を受けて書いたマイナー・キーのブルージィ曲「 Is It Because I’m Black?」(Twinight)がR&Bチャート11位まで登った。そして、1970年代に入ると彼はメンフィスのハイ・レコードと契約。しょっぱい、でもどこか都会的なソウル・マン像をアピールするアルバムを4作リリースする。この時期が彼にとって、一番華やかな時期になるだろうか。
ハイから離れた1980年代に彼は自己レーベルのシャマや仏イザベルなどからアルバムをリリースするものの、1980年代後半には引退状態となる。フィッシュ&チップスのチェーン店を経営したり不動産投資をするなど、実業家の道に入ったからのよう。そんな彼が前線に戻ったのは、1990年代に入るとヒップホッパーたちによる彼のプロダクツのサンプリング需要が相次ぎ、やっぱオレの出番だナと思ったから。シカゴの重鎮レーベルであるデルマーク発の復帰盤『Back In the Game』はハイのミュージシャンたちとの録音で、彼の三女でまだ10代だったシリーナ・ジョンソン(2003年1月28日)も入った。
米国の訃報を伝えるネット記事を見ると、ほとんどの見出しが、彼がヒップホッパーたちへのサンプリング提供王であることを掲げている。まずは彼の音楽性を出してよと思わなくもないが、パブリック・エネミー(2005年8月14日、2009年7月25日)、カニエ・ウェスト(2007年3月31日)、ジェイ・Z(2010年8月7日)、ウータン・クランらにサンプリングされた1967年曲「Different Strokes」をはじめ、ブルースとつながっていることが幸いしただろう彼の引っ掛かりのあるトラックは多々引用された。それを受けて、彼は著作権を主張し、生涯困らない富を得た。1990年代後期になると、彼の音楽性はブルース回帰色を強めたが、それはソウルっぽいことをしないとセールスに結びつかないというかつての彼の判断を示唆する?
2015年にはロブ・ハッチ監督にドキュメンタリー『Syl Johnson: Any Way the Wind Blows』が作られたが、それも彼のサンプリング需要がなかったら制作されなかったのではないだろうか。→その映画のトレイラーは https://vimeo.com/ondemand/syljohnsonmovie
▶︎過去の、シル・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/201408051721103640/
▶︎過去の、ジミー・ジョンソン
https://43142.diarynote.jp/202202021321255619/
▶過去の、シリーナ・ジョンソン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-1.htm
▶︎過去の、チャック・D/パブリック・エネミー
http://43142.diarynote.jp/?day=20050814
http://43142.diarynote.jp/?day=20090725
▶︎過去の、カニエ・ウェスト
https://43142.diarynote.jp/200704011614290000/
▶過去の、ジェイ・Z
http://43142.diarynote.jp/201008261617154352/
<今日の、ムスメ>
1976年生まれのシリーナ・ジョンソンはデビュー作『Love Hangover』 (Twinight,1998年)を出していこう、ジャイヴ、シャナキー、E-1からアルバムを順調にリリースしてきている。大学で学び直すということもしており、強く明晰な女性というパブリック・イメージを獲得しており、タレント/文化人的な活動も彼女はしている。2度結婚していて、二番目の旦那は大学バスケット・ボールで知られた人のよう。子供も二人授かっている。シルの奥さん、つまりお母さんはシカゴ地区の警察で黒人女性で初めて重職についた人のようだが、アルコール中毒に苦しんだこともあった。
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