B・ジェファーソンはザ・スピナーズの「マイティ・ラヴ」をはじめとするフィリー・ソウルの名曲を1970年代に作った都会的かつ洗練されたソングライター。当初はミュージシャンだったが、紆余曲折ありトム・ベルに認められ、作曲家稼業に入り、見事に同ソウルの興隆に寄与した。ありし日の華やかな米国の襞を書き留めた御仁……。後のサンプリング需要もあった。享年77歳、死因はがんであったという。

 また、プライマル・スクリーム(2000年2月11日、2002年11月16日、2005年7月31日、2009年1月28日、2011年8月12日、2013年11月6日)、ア・サーテイン・レイシオ、ニュー・オーダー、エレクトロニク、イアン・ブラウン(2005年8月13日)など、マンチェスター発のロックに、ソウルフルな歌で助力したUKブラックの女性シンガーであるデニス・ジョンソンが56歳でお亡くなりになった。とくに、1990から94年にかけて関与したプライマル・スクリームは、彼女をフィーチャーしたシングル「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」がヒットしたこともあり、その歌声は数多くの人に届いていたのではないだろうか。シングルは2枚出しており、この9月には初アルバムをリリースする予定であったという。

▶過去の、プライマル・スクリーム
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-2.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-11.htm
http://43142.diarynote.jp/?day=20050731
http://43142.diarynote.jp/200901290803429732/ これ以降、ガャドガン加入
http://43142.diarynote.jp/201108131129381378/
http://43142.diarynote.jp/201311071343585896/
▶︎過去の、イアン・ブラウン
https://43142.diarynote.jp/200508152007550000/

<今日の、トホっ>
 3月下旬以降、ライヴ予定がなくなった→要は、このブログをあまり書かなくなるなと思った際、ミュージシャンの死についてはちゃんと書き留めようと決めた。その死因が新型コロナ・ウィルスによるものであるなら、この時期の悲しい状況をちゃんと残すことができるとも考えたから。それゆえ、ライヴにばんばん行っていた時期と違い、少し距離を感じるミュージシャンであっても基本その死に触れるようにしてきた。
 だが、弘田三枝子さんについては、書きようがない。まじ、ちゃんと聞いたことが一度もないんだもの。ぼくがポップ・ミュージックを聞くことにハマったのはちょうど中学校に入ったとき。そのとき、ラジオを買ってもらい、姉が買ってもらったものの放置状態だったLL用のオープン・リールのテープ・レコーダーでラジオから流れる英語の曲(ときには、チャートに登るフランス語やイタリア語の曲もあった)を全部録音するようになったのだ。当時のNHKのFM放送は15時からの番組だったか、毎日新譜のアルバムを代々すべてかけていた。それは、ほんとありがたかった。
 楽器を扱うのは好きだったけど、小学校のころは特段音楽に興味がなかった。TVの音楽番組も見た記憶があまりない。なんか、自分の周りの、窮屈と感じるニホンニホンした環境もろもろに嫌悪感を覚えて、歌謡曲は大げさに言えばその象徴のように感じてしまっていたんだろうな。だから、グループ・サウンズもぼくは聞いたことがない。上の兄弟が聞いていて、その流れで音楽好きになったという話はよくあるが、年子の姉は勉強しかなく、その後も洋楽の“よ”にも触れずにまっとうなインターナショナルな大人になった。
 話は戻るが、それが中学校に入り、唐突に洋楽ロックにハマりこれっきゃないと確信してしまったのは、今振り返ると多少驚きではある。音楽自体が格好いいとシビれちゃったのは当然として、地方に住む一少年に非日本な、海外のイケてるもやもやをロックがたっぷり与えてくれたからこそ耽溺したんだろうな。ぼくは、親とか、自分のいるところとかがいやでしょうがなかった。洋楽こそが、ちっぽけな日本の地方に住む自分と広い外の世界を繋ぐぶっといチャンネルだったのだ。
 子供のころから親に東京に連れて行ってもらったりはしていたが、高校生になると1人で東京にたまに行き、外盤屋を回ったり、少しだがコンサートに行ったりもするようなる。すると、余裕ができもするのか少しは日本の同時代の音楽にも興味を持つようになるが、それは洋楽の耳で聞くことができるブツだけだった。最初に買った日本人のレコードは、サディスティック・ミカ・バンドのファースト(初回に封入されていたシングルもまだある)。シングルはファニー・カンパニーの「スウィート・ホーム・オーサカ」。さらには、矢野顕子のデビュー作『ジャパニーズ・ガール』は大好きだった。生ギターを持つ音楽は嫌いで、男だったらエレキ・ギターを手にバンドでがつんと行かんかいと思っていたぼくは、日本のフォークもその一切を切り捨てていた。ゆえに、ミカ・バンドのファースト作の曲の半分はフォークぽくていまいちと感じた(その中で一番好きだったのは、ファンキーな「怪傑シルバーチャイルド」)。
 自分が知らないところに素敵な音楽があったら悔しいと、本当に貪欲に音楽を追い求めてきたが、日本の担い手の幅はなかなか広がらなかった。昔のハイカラな、本来だったら聞きどころがありそうなものにもそんなに触れてないよなあ。まだ、民謡や演歌の方が垣根は低い。そこには、僕が少年期に抱えたドメスティック日本に対する嫌悪がいまだぼくのなかにくすぶっているのかもしれないが、やっぱ基本的に歌謡曲はいまだにダメ。歌謡曲バーなんか15分といれない。楽しめない。その件については、オレってほんとにイケズなヤツと思うしかない。なんか、同時代のものとして存在したドメスティックなものに対する拒否感は自分でも驚くべきものがあるよなあ。
 そんなぼくが変わる日は、もうこないのかなあ。もとい、このブログに訃報に関する原稿が並び続ける状況もずっと続くんだろうなーー。

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