キャバレー・ヴォルテール@スーパー・デラックス
2016年7月12日 音楽 ダダと聞くと、おバカで、反規範/道徳的な所作を、ぼくは思い浮かべる。そんなダダイズム発祥の地となった、スイスのチューリッヒのなんでもあり酒場の“キャヴァレー・ヴォルテール”が開店したのが、1916年2月であるという。つまり、今年はダダイズムが世に出て100周年となるのだそう。それを機に六本木・スーパー・デラックスで7月11日〜18日の間に、キャヴァレー・ヴォルテールにトリビュートする場が持たれ、様々な出し物がなされる。初日である今日はスイス大使館によるオープニング・パーティが持たれた。
巻上公一(2004年11月6日、2013年8月11日、2015年9月28日)が出てきて、ソロの肉声パフォーマンスをする。なんか、今回のそれはけっこう坂田明(2006年8月8日、2008年9月25日、2009年7月19日、010年4月15日、2011年4月1日、2012年10月3日、2013年1月12日、2014年9月7日、2016年1月28日)の所作(特に、源氏物語)に被るなと思った。なんか、飄々とココロの狼藉を出している様は清々しいな。
その後には、スイスのサムソナイト・オーケストラが演奏。って、ジュリアン • イスラリエンのソロ・プロジェクトだが。自作の装置(バッグに一式組み込んだ機材と共に、足元にもエフェクターを並べていた)を素朴に扱い、生理的にトホホで、可愛らしくもある音を出す。彼はなんと昨年東京ジャズに出演したアフロ・ビート・バンドのインペリアル・タイガー・オーケストラ(2015年9月4日)のドラマーだったことがあった。音だけだとザ・レジデンツをちょい思い出させるところがあり、なるほどダダでありますね。
▶︎過去の、巻上公一
http://43142.diarynote.jp/200411071407550000/
http://43142.diarynote.jp/201308130851402454/
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▶過去の、坂田明
http://43142.diarynote.jp/200608091255180000/
http://43142.diarynote.jp/200809270215092074/
http://43142.diarynote.jp/?day=20090719
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▶︎過去の、インペリアル・タイガー・オーケストラ
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<今日の、発覚>
ある音楽雑誌のアンケート/コメント依頼を受けたのだが、改めて依頼書を読み返してみたら、<大変恐縮ですが、お礼は掲載誌のみとさせていただきます>と文末に書いてあって、ありゃあ。わ、ちゃんと読んでいなかった。もし、原稿料が出ないことを認知していたら、この仕事は受けなかったYOH。イエスと返事した手前、ちゃんと送りましたが…。
プロとして文章を書くことを生業としているんだから、原稿料の出ない仕事は基本受けない。そりゃ、受けた仕事の中には原稿料単価の低いものもある。だが、それは事前の提示を受け、納得して書く。ぼくが受けている原稿仕事のなか、ずっと関係を持っているシンコーミュージックはおそらく一番原稿料の単価が低い相手先と考えられるが、編集者それぞれにマインドがあるので笑顔で引き受けている。……あ、今思い出した。シンコー・ミュージック編集者経由で受けた、2年前(2014年6月)にロックジェット誌へ<ジョンとヨーコのラヴ&ピース>というお題目で書いたものの原稿料は未払いだ。ものすごいタイトな締め切りの中、6000字強の原稿をきっちり送ったのに。その担当編集者は梨の礫なので、間に入ったシンコー編集者にどうなのよと聞いたら、先方はお金がなくて今は払えないそうですが、余裕ができたら払うそうですとの返事が返ってきたのだが、まだ入金はない。一応、そのとき書いた原稿を貼り付けておこう。
2010年に、ショーン・レノンにインタヴューしたことがある。ヨーコ・オノのライヴ・パフォーマンスには複数回接したことがある(今年のフジ・ロックにも、ヨーコはショーンとプラスティック・オノ・バンド名義でやってきますね。チボ・マットの本田ユカの旦那さんでもある、フリー・インプロヴィゼーション界の辣腕ギタリストにしてウィルコのメンバーでもあるルネス・クラインも同行)が、ジョン・レノンを生で見た事は皆無。目の前にいるいかにもおぼっちゃん然としたショーンを見て、彼がジョンとヨーコの息子さんかと、ぼくは内心ちょい震えた。おっとり&飄々としているとはいえ、やはりジョンの残り香というか、彼の血を引いているんだなと思わせるところを、いろいろと感じることができ……。
たとえば、佇まいのちょっとした感じとか、喋る声とか。緊張はしなかったが、ぼくはかなりうきうきしながら彼に質問していったのを覚えている。ショーンに話しかけてくる人の大半は父親のファンとして接してくるそうだが、「父のことについては毎回ちがった答えを言う。声をかけてくる人の感じによって、返事を変えるんだ。僕はいろんな反応をして、楽しんでいるよ」、とのこと。そこらへんの、悠々のあまのじゃくなところも父親譲り? 彼は父親のことを“ダッド”と呼んでいた。
ジョンが亡くなったとき、ショーンは5歳。父との関わりで、一番印象に残っているのは以下のようなことだという。
「記憶とは不思議なもので、断片的にいろいろ覚えている。音とか、匂いとか……父さんが着ていた浴衣の匂いとか、タバコ臭とか。そういうものが、フラッシュバックするように僕のなかにはあります。声のトーンだとか、そのときに感じた気持ちとかが、断片的にしっかり残っている」
だが、多くの人が想像するほど、セレブな環境には育っていないとも、彼は明言する。
「もし父がずっと生きていたら、おそらくそういう環境になったかもしれない。でも、母との二人の環境においては、彼女は一匹狼的なので、ザ・ビートルズの人たちが来て、ジャムをするといった環境ではなかったよ。だから、僕は音楽を独学したと思っている。まあ、アンディ・ウォーホルとかデイヴィッド・ボウイなんかはよく知っていたけど」
ショーンと接していると、彼はやはり半分は日本人なんだと思わせるところも多々感じることができた。それは当人も認めるところで、「僕は半分、日本人。そのことは、強く意識している。自分の心もそうだし、お腹(食べ物の好み)もそう。自分が子供のときは玄米とお味噌汁みたいな感じで、ご飯の記憶は日本食ばかり。だから、日本に来るのは、特別な国に来たという気持ちを持つ。子供のころ、ホテルオークラにしばく住んでいた事もあるし、軽井沢にも滞在したこともあったし。そのときのことは、いい思い出として残っている」
取材の途中から、彼はペンをはわせはじめ、ときに僕の顔をじっと覗き込みだす。??? インタヴューを受けつつ、なんと彼はぼくの似顔絵を描きはじめた。仕上がった絵は、父親のものより少し緻密な感じもあるだろうか。絵の傍らにしてくれたサインにAD2010と律儀に年号も記してくれた彼は、「ちょうどいい ほん」(講談社)という絵本を出してもいる。
「父さんとはよく一緒に絵を描いた。それで、ゲームみたいなことをしたよね。父さんが滅茶苦茶に描いた絵を、ぼくがそのあと引き受けて完成させたり。かと思えば、ぼくが最初に描いた絵を父が仕上げたり。そういうゲームを、朝から晩までやっていた」
一方、ヨーコとはいまだいい関係を持っていることについて、彼はこうコメントした。
「僕は、やはりラッキーだと思う。二人とも音楽やアートをやっている。そういうところで繋がることが出来るから。音楽やアートというコネクションがなかったら、やっぱり仲良くなれないと思うよ」
そんなショーンも、来年には、ジョンが逝去した年齢になる。
ジョンとヨーコの強い結びつきを語る材料はいくつもあるだろうし、着目するポイントも人それぞれにあるだろう。ぼくの場合、それはまず二人のリーダー・アルバムのジャケット・カヴァーとなる。
二人の全裸の写真が用いられた『未完成作品第一番 トゥー・ヴァージンズ』(1968年)。ベッドと床に寛いで横たわる2ショット写真を持つ『未完成作品第一番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』(1969年)。白の衣服に身をつつんだ二人の写真を掲げた『ウェディング・アルバム』(1969年)。といった、結婚前後の3部作。
共通する絵柄をそれぞれのリーダー・アルバムに用いた、『ジョンの魂』(1970年)と『ヨーコの心 ヨーコ・オノ・プラスティック・オノ・バンド』(1970年)。そして、『イマジン』(1971年)と『フライ』(1971年)。
さらには、向き合って唇を合わせたり、頬を寄せたりする二人の写真をジャケ絵に用いた両者の連名による『ダブル・ファンタジー』(1980年)と、ジョン死後のリリースとなる『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)。この両盤の絵柄(篠山紀信の撮影による)は『ダブル・ファンタジー』をリリースするさい、ジョン・レノン一人だけの絵柄のジャケットにしたいとの申し出がレコード会社側なされて、ジョンが激怒。意地でも、二人仲睦まじい写真を用いようとなったという。
そうした一連のアルバム・ジャケットの有り様を見ても、ジョンとヨーコの結びつきの強さ、二人でいることの覚悟のようなものが、分りはしまいか。個人的には、1970年と1971年に出された対となる2作品の存在を最初に知ったときには驚いた。アレレ、コンナコトシテイイノ? ロックにまつわる行動は何をやってもいいんだと痛感させられるとともに、前例に捕われない発想のしなやかさの見事な発露が、そこにはあると思った。
もちろん、夫婦が仲良く並んだ写真をジャケットに持つアルバムを出した人たちは世に何組もいる。有名なところでは、リオン・ラッセルとマリー・ラッセル(1976年作『Wedding Album』、1977年作『Make Love to the Music』)やグレッグ・オールマンとシェール夫妻(1977年作『Two the Hard Way』)あたりは良く知られるだろう。それらはともに見事な“色ぼけ”アルバムと多くの人に記憶されていると思うが、それに比し、ジョンとヨーコの諸作品はそれほど色ボケと感じさせないのは何故か。受ける側の先入観が働いているのかもしれないが、只の恋愛を超えた、広いスケールや、強い二人の意志や、同士的な二人の高め合いの様が見えるからではないのか。やはりジョンとヨーコの間には、崇高さや高潔さが超然とある。やはり、二人はスーパーなカップルであったのだと思う。
前衛芸術家の道を凛として進まんとするヨーコの1966年秋のロンドンでの個展に、ジョンが足を運んだのが、ともに既婚者であった二人のなれそめであったと言われる。アートは常識や先入観などを一切削いだものであり、自在の発想や行動こそが最たる美徳といった意志を掲げたヨーコの出典物にジョンは降参。ポップ・ミュージックという枠組のなかで数多かつ最大級の冒険を繰り返して来たザ・ビートルズを支えたジョンにとっても、ヨーコの持つ態度はあまりにフレッシュであり、オルタナティヴであり、センセーショナルなものに感じられたのは想像に難くない。そして、その後、二人は行動をともにし、日々切磋琢磨し、彼らが考える自由を社会に向かっておしだすようになる。
そんな二人の回路がザ・ビートルズ表現に持ち込まれた最たるものが、ザ・ビートルズ最長の曲でもある「レヴォールション9」だろう。ポールとリンゴは参加していないそのミュージック・コンクレートふう楽曲はまさに異色にして、よくぞアルバムに収録したと思わずにはいられない前衛曲だ。様々な曲調や方向性を収めた『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』(1968年)こそが彼らのベスト作とする人も少なくない(ぼくは、まさにそう感じています)と思うが、そういう者にとって、この曲は同作の極北の位置にある、掛け替えのない楽曲として存在しているのではないか。
すでにロック界のスーパー・スターでやりたい放題をつくせたとはいえリバプールの労働者階級の出身であったジョンは、東洋のいいとこの子女であるヨーコの前衛アートに対する造詣や天衣無縫な振る舞いに感化されまくったはず。そして、それがジョンの持ち前の創造性や我が道を行かんとする人間力の高さに火をつけた。ジョンがヨーコと出会って以降、ジョンはより世に背を向ける(いや、世を引っ張る、と書いたほうが適切か)ような、自覚的でもある行動をいろいろと見せるようになるし、それはより開かれた音楽家像を仁王立ちさせもした。もともと間違いなくリベラルであり、芯の通った人間ではあったが、ジョンはヨーコとの恋愛を通して、男女を超えるような普遍的な人間愛を求めるようにもなったし、前衛的にして過激なヨーコにつられて、より理想的なスタンスを貫くようになった。
ちんちん出した写真をジャケットに掲げたり、ベッドインなるパフォーマンスをプレス陣を前にして行う。そして、そこに出す音楽はポップ・ミュージックの枠組を大きく超えてもいる。ヨーコと出会っていなかったら、ジョンはそういうことはしていなかったのではないか。そして、だからこそ、ロック・スター然とした太平楽な活動を求めたいファンはその狼藉行動の元凶にヨーコを見て、おおいにバッシングしたのだと思う。ぼくは、そのころの二人にはリアル・タイムで接していない。だが、その様は今振り返っても、保守社会に対する理想主義に燃えた闘士そのもの。そして、それが単に破壊や否定ではなく、ポジティヴな慈愛と平和のメッセージにつながっていたのが、ジョンとヨーコたる所以でもあった。
ところで、ヨーコに関して、一つ。彼女のヴォーカルとういうと金切り声による器楽的歌唱法が思い出されるが、それをフリー・ジャズの先駆者であるオーネット・コールマンは高く評価していたと言われる。オーネットはまさにジャズ界においてトップ級の革新を行った人物であり、フリー・ジャズにおけるジョン・レノンと言っても語弊はない巨匠だ。彼は『ヨーコの心 ヨーコ・オノ・プラスティック・オノ・バンド』のレコーディングにデイヴィッド・アイゼンゾン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルといった舎弟たちと参加もした。そういえば、オーネットは金切り声前衛系の女性ヴォーカリストをライヴで鷹揚に起用していたりもする(今のところ直近となる2006年3月の日本公演でも、彼はわざわざヨーコと通じるようなアヴァン系日本人女性シンガーをステージにあげていた)わけで、その信憑性は高いと思われる。
それから、最新のヨーコにまつわる情報も一つ書いておきたい。ジギー・マーリー(ボブ・マーリーとリタ・マーリーの息子ですね。1968年生まれ。ジギーという呼び名は、デイヴィッド・ボウイ好きから来たと言われる。彼の代表作の一つが1972年作『ジギー・スターダスト』)の2014年新作『Fly Rasta』(Tuff Gong/V2)にはあまりに見事なヨーコ大讃歌曲「You’re My Yoko」という曲が収められている。その軽快なレゲエ調曲には、ほんとびっくり。!マークを50個ぐらい、連ねたくなっちゃう。それに触れていると、ここにきて、ヨーコ再評価の気運が持ち上がるかもと思えてきたりもする。
蛇足だが、先に触れたインタヴュー時にショーンは、彼女がフロントに立つプラスティック・オノ・バンドをマイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』(1972年)や『ライヴ・イヴル』(1971年)の方向に持っていけたらと、語っていた。
ところで、ぼくがジョンっていいよなあと感じてしまうのは、どうしようもなく立派な姿を見せるとともに、その一方では、ある種ダメ男でもあったからだ。それが、ぼくを安心させる。ホっとさせる。
私見だが、ジョンは甘えん坊だったと思う。ヨーコはボックス・セット『ジョン・レノン・アンソロジー』(キャピトル、1998年)添付のブックレットの前書きで、出会ったころジョンはまだ20代で彼女は8つ年上だったが、王様のように堂々としていて、ジョンを年下と感じたことはなかった、と記している。逆もまた真なりだろうが、ジョンがヨーコに依存していた部分が少なからずあったと、ぼくは感じてしまう。ヨーコは菩薩やミューズのような存在であり、ときに母親のような役割を担うときもあったのではないか。『マインド・ゲームズ』(1973 年)のジャケット・カヴァーはそのことを示唆していまいか。家政婦のメイ・パンに手を出しヨーコから三行半をつきつけられ、LAに逃げて故ニルソンたちと馬鹿まるだし乱交三昧したのはヨーコへの強い依存の裏返しではなかったか。そしてヨーコの許しが出て(間を取り持ったエルトン・ジョン、グレイト・ジョブ!)NYに戻ったあと、彼は心の平成を得たようにも、ぼくには思える。そして、ショーンが生まれたこともあり、ジョンはハウス・ハズバンド三昧の日々に入る。その後、音楽活動に復帰し、ショーンと離れてスタジオ作業をする際、彼はコンソールの前にショーンの写真を張ったという。
そんな“愛の人”たるジョンのすごいところは、どうしてもスノッブとも言える側面も出てしまう、吹っ切れたアート活動をヨーコと一緒に標榜しつつ、その一方で大衆との接点を持ち続けていたこと。ザ・ビートルズの一員としての名声や影響力を効果的に用いたという指摘も可能だろう。彼は、前衛的な理想主義を、もっと大衆に身近な問題や興味とつなげ、大きな動きにしようとした。それこそは、ジョンの天賦の何かと言うしかないだろう。
また、彼が生まれついてのロッカーであったと思わせるのは、「レヴォールション9」のようなカっとび曲を送り出したり、先に書いた1960年代後期3部作のような現代音楽/実験音楽のほうに片足をツッこんだアルバムを発表しつつ、一方では広がった社会観や愛の感覚をもとに「アクロス・ザ・ユニヴァース」やソロ後の「イマジン」のような本当に普遍的なメッセージ曲を発表していること。それは、まさに彼の天性のポップ・ミュージックの作り手としての才であり、言葉は悪いかもしれないがヨーコという触媒を得た“キング”の面目躍如な楽曲であるというしかない。
ザ・ビートルズ時代の曲「ジョンとヨーコのバラード」以降、特にソロ活動に向かうようになると、ジョンとヨーコの間のもろもろを題材とする曲はいろいろと出されている。たとえば、『イマジン』の最後に収められた「オー・ヨーコ」。<真夜中、君の名を呼ぶ。オー・ヨーコ。僕の愛で、君を満たしてあげる>なんて素直な物言いが並ぶその曲なんて、最高のラヴ・ソングではないか。そう、こんな歌がかけなきゃ、革命もへったくれもないのである。
そして、それらの楽曲は天性の質感〜訴求力を持つヴォーカル(それは、魔法のようなグルーヴを抱えたものであるのはより認識されるべき)で歌われるのだから、もう降参するしかない。
ジョンとヨーコの、<ラヴ&ピース>。それは“アートや行動の無限の可能性”や“基本にある二人の人間関係の素敵”が結実したものであった。
もう一つ、その少し前に書いた原稿で、もう一つ未払いなやつを思い出した。ずさんなので別に支払い状況をマメにチェックしているわけではないし、すぐに書いた原稿のことも忘れてしまう傾向にあるのだが、これはゴールデン・ウィーク中に遊びの用事を削って書いた原稿なので、一応覚えている。ユニバーサル・ミュージックからの依頼の原稿で、一度担当A&Rに未払いじゃないのと指摘したら(その時、発売延期になったと聞いたか)、適当にはぐらかされて、そのままになってしまった。書いたのはコンコード発のレイ・チャールズのベスト盤のラーナーノーツで、以下が世間に出なかった原稿ナリ。
リジェンダリーという域に入りそうな、スター・ミュージシャンの条件って、なんだろう。たとえば……。
ライヴ・ショウでステージに登場したとたん、見る物は胸がいっぱいになってしまい、思わずスタンディング・オヴェーションしてしまう。
大ヒット曲を連発し、グラミー賞の常連でもある。
社会貢献を目的とした、自己財団を持っている。
自伝が出版されている。とともに、当人を題材とする映画も制作されている。
はたまた、クリスマス・アルバムを出している。そして、いろいろとベスト・アルバムが組まれている。
それから、切手の絵柄になっている。という、事項もそれに加えることができるだろうか。
実はこのレイ・チャールズのベスト盤『フォーエヴァー』はそのジャケット・カヴァーに顕われているように、アメリカ合衆国郵便公社が2013年9月にレイ・チャールズの切手を発行したことに合わせて組まれたベスト盤だ。
蛇足だが、同公社はここのところ、リディア・メンドーサ、ジョニー・キャッシュ、ジミ・ヘンドリックスといった鬼籍入りした大ミュージシャンを絵柄に採用した切手を発行している。
そのキャリアの長さ、プロダククツ群の深さや多彩さ、功績の大きさゆえ、レイ・チャールズのベスト盤はこれまで本当にたくさん組まれている。そうしたなか、この“一番新しい”ベスト・アルバムは、当然のことながら既発のものとは一線を画した選曲がなされている。
それが顕著に出ているのは、1950〜1960年代、つまりアトランティックやABC時代の楽曲は2曲しか収められていないこと。「メス・アラウンド」も「ホワッド・アイ・セイ」も「ジョージア・オン・マイ・マインド」も「愛さずにはいられない」も、ここには入っていない。ようは、彼が国民的な歌手としてより君臨するようになった1970年代以降のレイ・チャールズの姿を本作は主にまとめることで、彼が生涯にわたって持ち続けたしなやかな広がり、慈愛の情あふれるソウルネスといったものを、提示しようとしている。チャールズはキャリアを積むごとに自作曲を発表しなくなり、他者の楽曲を介することで逆にワン・アンド・オンリーたる個性が明解に出る、より万人向きとも言えるプロダクツを世に問うようになった。そして、ここに収められた曲群はスタンダード・ソングからポップ・チューンまで、全て非オリジナルだ。なお、この選曲は<ザ・レイ・チャールズ・ファンデーション>を運営する、原盤CDの解説も書いているヴァレリー・アーヴィンがしている。
■楽曲紹介
1 ア・ソング・フォー・ユー
1970年代に一世を風靡したシンガー/ピアニストのリオン・ラッセルの1970年発表曲。カーペンターズ、ダニー・ハサウェイ、ウィリー・ネルソン他、数多の担い手が取り上げるポップ・スタンダードだ。チャールズは1993年作『マイ・ワールド』(ワーナー・ブラザーズ)でこの曲を原曲のテイストを尊重する形でカヴァーし、シングル・カットもされた。R&Bチャート57位のセールスに留まったものの、本曲は1993年度の最優秀男性R&Bパフォーマンス賞を受賞している。
2 アイム・ゴナ・ムーヴ・トゥ・ザ・アウトスカーツ・オブ・タウン
1961年作『ジニアス+ソウル=ジャズ』(ABC)に収められたブルース基調の重厚ジャジー曲で、R&Bチャート25位(総合は84位)。カウント・ベイシーのオーケストラを借りて録音しており、プロデュースは後にCTIを設立するクリード・テイラーが担当。チャールズが影響を受けたルイ・ジョーダンも歌っていた曲で、後にザ・オールマン・ブラザーズやロッド・スチュアートらロック勢もこの剛毅な有名曲をカヴァーしている。
3 リング・オブ・ファイア
1970年作『ラヴ・カントリー・スタイル』(タンジェリン)に収録されていた曲で、ロック・アーティストからの信任も厚いカントリー界のビッグ・ネームであるジョニー・キャッシュの最大のヒット曲(1963年全米総合チャート1位)だ。チャールズはすちゃらかした原曲を大胆グルーヴィに処理している。1980年代に入ると、チャールズとキャッシュはお互いのレコーディングに参加し合った。
4 カム・レイン・オア・カム・シャイン
ジョニー・マーサーとハロルド・アーレンが作った1946年初出のスタンダード曲で、ビリー・ホリデイからジェイムズ・ブラウンまで取り上げる。通算6作目となる1959年作『ザ・ジニアス・オブ・レイ・チャールズ』(アトランティック)のクローザーだった曲だ。
5 ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー
ジョージとアイラ、ガーシュン兄弟が書いた彼らの代表曲の一つで、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の1937年映画「シャル・ウィー・ダンス?」のために書かれた。以後、このひねりの利いたラヴ・ソングは洒脱シンガーから多大な人気を博している。重厚なビッグ・バンド・サウンドがおごられたこのテイクは、今回初めて陽の目を見た。
6 ティル・ゼア・ワズ・ユー
自らのレーベル“タンジェリン”(1966〜72年)を“クロスオーヴァー”(1974〜75年)と改名しての最初のアルバム『カム・ライヴ・ウィズ・ミー』に収録されていた曲で、メレディス・ウィルソンが1957年ミュージカル「ザ・ミュージック・マン」(5年後に、映画化もされた)のために書いた。ソニー・ロリンズやザ・ビートルスらのカヴァーは特に有名か。ムーディな編曲とエレクトリック・ピアノの組み合わせは、チャールズ表現ならではのもの。
7 イズント・イット・ワンダフル
チャールズの死後にリリースされた『レア・ジニアス』(コンコード)に収録。1970年代から1990年代にかけての未発表/デモ曲を厳選し、そこに新たな音も一部加えるという指針を同作は取っていた。これは未発表であったのが謎に思える、寛ぎとグルーヴィさを併せ持つ好テイスト曲だ。
8 ナン・オブ・アス・アー・フリー
1990年上半期型の同時代サウンドのもと、唯一無二のチャールズの持ち味を解き放つ『マイ・ワールド』から。バリー・マンやブレンダ・ラッセルら好シンガー・ソングライターによる、ヒューマンなメッセージが込められた曲だ。この後、レイナード・スキナードやザ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマらがこの生理的にアーシーな曲を取り上げている。
9 イマジン
ロック界でトップ級に有名な曲であり、秀でたメッセージ・ソングでもあるジョン・レノンの1971年曲。2002年にライノ経由で組まれた、1960~1997年に録音した愛国心高揚楽曲を集めた編集作『レイ・チャールズ・シングス・フォー・アメリカ』(ライノ/wea)から。同作は、2001年9.11後の米国気運のもとに組まれたと言われている。
10 イフ・アイ・クッド
大御所米国人プロデューサーの一人であるリチャード・ペリー(カーリー・サイモン、リンゴ・スター、ロッド・スチュアート他を手がける)がプロデュースした『マイ・ワールド』収録の曲。モータウン畑のソングライターであるロナルド・ミラーらが共作していて、バーブラ・ストライサンド、セリーヌ・ディオン、ナンシー・ウィルソンらMOR系歌手にも取り上げられる曲だ。
11 ソー・ヘルプ・メー・ゴッド
『マイ・ワールド』からの4つ目となる曲で、チャカ・カーンほか様々な人気シンガーに曲を提供している辣腕ソングライターであるジャソ・J・フリードマンらが書いた、ゴスペル調曲だ。
12 アメリカ・ザ・ビューティフル
レイ・チャールズというと、この曲を思い出す人もいるか。アメリカ合衆国の第二の国歌たる、古くからの公有歌だ。1972 年にタンジェリンから出された『ア・メッセージ・フロム・ザ・ピープル』に収められている。
最後になったが、簡単に彼のキャリアを記しておく。
レイ・チャールズ・ロビンソンは、1930年9月23日にジョージア州で生まれた。母子家庭のもとフロリダ州で育つが、7歳で完全に失明。母親が亡くなってしまった15歳からピアニスト/シンガーとして身を立てるようになり、17歳になると大志を持って西海岸に向かった。3歳年下のクインシー・ジョーンズと出会い、彼に刺激を与えたのもそのころだ。22歳でアトランティック・レコードと契約し、ゴスペルとブルースが重なったと説明できるR&Bを鋭意創出。1955年に「アイ・ガッド・ア・ウーマン」で初めてR&Bチャート1位を獲得し、彼はスターへの道を歩んで行く。
そして、1959年末には、よりいい条件(+表現の自由の保証)を提示したABCと契約し、R&B、ジャズ、ポピュラー、カントリーといった音楽の枠を超えた“レイ・チャールズ表現”を思うまま標榜。結果、まさにアメリカを代表する音楽家としての位置を得ることとなる。
リリースしたアルバムは、約60枚。チャールズ最後のオリジナル・レコーディング作となってしまったノラ・ジョーンズやヴァン・モリソンらとの豪華デュエット曲を収めた『ジニアス・ラヴァーズ・カンパニー』(コンコード)、そしてテイラー・ハックフォードが監督した傑作自伝映画『Ray/レイ』がリリースされたのは2004年の夏と秋。残念ながら、チャールズはその高評を知る前に、同年6月10日に肝臓癌で亡くなった。
米国黒人音楽の素敵、創造性、訴求力を誰よりも示した、文字どおりのジニアス。そんな彼は黒人差別とも戦う一方、手を握るときれいな女性がすくに分ったというユーモラスな逸話も残している。(2014年5月 佐藤英輔)
巻上公一(2004年11月6日、2013年8月11日、2015年9月28日)が出てきて、ソロの肉声パフォーマンスをする。なんか、今回のそれはけっこう坂田明(2006年8月8日、2008年9月25日、2009年7月19日、010年4月15日、2011年4月1日、2012年10月3日、2013年1月12日、2014年9月7日、2016年1月28日)の所作(特に、源氏物語)に被るなと思った。なんか、飄々とココロの狼藉を出している様は清々しいな。
その後には、スイスのサムソナイト・オーケストラが演奏。って、ジュリアン • イスラリエンのソロ・プロジェクトだが。自作の装置(バッグに一式組み込んだ機材と共に、足元にもエフェクターを並べていた)を素朴に扱い、生理的にトホホで、可愛らしくもある音を出す。彼はなんと昨年東京ジャズに出演したアフロ・ビート・バンドのインペリアル・タイガー・オーケストラ(2015年9月4日)のドラマーだったことがあった。音だけだとザ・レジデンツをちょい思い出させるところがあり、なるほどダダでありますね。
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▶︎過去の、インペリアル・タイガー・オーケストラ
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<今日の、発覚>
ある音楽雑誌のアンケート/コメント依頼を受けたのだが、改めて依頼書を読み返してみたら、<大変恐縮ですが、お礼は掲載誌のみとさせていただきます>と文末に書いてあって、ありゃあ。わ、ちゃんと読んでいなかった。もし、原稿料が出ないことを認知していたら、この仕事は受けなかったYOH。イエスと返事した手前、ちゃんと送りましたが…。
プロとして文章を書くことを生業としているんだから、原稿料の出ない仕事は基本受けない。そりゃ、受けた仕事の中には原稿料単価の低いものもある。だが、それは事前の提示を受け、納得して書く。ぼくが受けている原稿仕事のなか、ずっと関係を持っているシンコーミュージックはおそらく一番原稿料の単価が低い相手先と考えられるが、編集者それぞれにマインドがあるので笑顔で引き受けている。……あ、今思い出した。シンコー・ミュージック編集者経由で受けた、2年前(2014年6月)にロックジェット誌へ<ジョンとヨーコのラヴ&ピース>というお題目で書いたものの原稿料は未払いだ。ものすごいタイトな締め切りの中、6000字強の原稿をきっちり送ったのに。その担当編集者は梨の礫なので、間に入ったシンコー編集者にどうなのよと聞いたら、先方はお金がなくて今は払えないそうですが、余裕ができたら払うそうですとの返事が返ってきたのだが、まだ入金はない。一応、そのとき書いた原稿を貼り付けておこう。
2010年に、ショーン・レノンにインタヴューしたことがある。ヨーコ・オノのライヴ・パフォーマンスには複数回接したことがある(今年のフジ・ロックにも、ヨーコはショーンとプラスティック・オノ・バンド名義でやってきますね。チボ・マットの本田ユカの旦那さんでもある、フリー・インプロヴィゼーション界の辣腕ギタリストにしてウィルコのメンバーでもあるルネス・クラインも同行)が、ジョン・レノンを生で見た事は皆無。目の前にいるいかにもおぼっちゃん然としたショーンを見て、彼がジョンとヨーコの息子さんかと、ぼくは内心ちょい震えた。おっとり&飄々としているとはいえ、やはりジョンの残り香というか、彼の血を引いているんだなと思わせるところを、いろいろと感じることができ……。
たとえば、佇まいのちょっとした感じとか、喋る声とか。緊張はしなかったが、ぼくはかなりうきうきしながら彼に質問していったのを覚えている。ショーンに話しかけてくる人の大半は父親のファンとして接してくるそうだが、「父のことについては毎回ちがった答えを言う。声をかけてくる人の感じによって、返事を変えるんだ。僕はいろんな反応をして、楽しんでいるよ」、とのこと。そこらへんの、悠々のあまのじゃくなところも父親譲り? 彼は父親のことを“ダッド”と呼んでいた。
ジョンが亡くなったとき、ショーンは5歳。父との関わりで、一番印象に残っているのは以下のようなことだという。
「記憶とは不思議なもので、断片的にいろいろ覚えている。音とか、匂いとか……父さんが着ていた浴衣の匂いとか、タバコ臭とか。そういうものが、フラッシュバックするように僕のなかにはあります。声のトーンだとか、そのときに感じた気持ちとかが、断片的にしっかり残っている」
だが、多くの人が想像するほど、セレブな環境には育っていないとも、彼は明言する。
「もし父がずっと生きていたら、おそらくそういう環境になったかもしれない。でも、母との二人の環境においては、彼女は一匹狼的なので、ザ・ビートルズの人たちが来て、ジャムをするといった環境ではなかったよ。だから、僕は音楽を独学したと思っている。まあ、アンディ・ウォーホルとかデイヴィッド・ボウイなんかはよく知っていたけど」
ショーンと接していると、彼はやはり半分は日本人なんだと思わせるところも多々感じることができた。それは当人も認めるところで、「僕は半分、日本人。そのことは、強く意識している。自分の心もそうだし、お腹(食べ物の好み)もそう。自分が子供のときは玄米とお味噌汁みたいな感じで、ご飯の記憶は日本食ばかり。だから、日本に来るのは、特別な国に来たという気持ちを持つ。子供のころ、ホテルオークラにしばく住んでいた事もあるし、軽井沢にも滞在したこともあったし。そのときのことは、いい思い出として残っている」
取材の途中から、彼はペンをはわせはじめ、ときに僕の顔をじっと覗き込みだす。??? インタヴューを受けつつ、なんと彼はぼくの似顔絵を描きはじめた。仕上がった絵は、父親のものより少し緻密な感じもあるだろうか。絵の傍らにしてくれたサインにAD2010と律儀に年号も記してくれた彼は、「ちょうどいい ほん」(講談社)という絵本を出してもいる。
「父さんとはよく一緒に絵を描いた。それで、ゲームみたいなことをしたよね。父さんが滅茶苦茶に描いた絵を、ぼくがそのあと引き受けて完成させたり。かと思えば、ぼくが最初に描いた絵を父が仕上げたり。そういうゲームを、朝から晩までやっていた」
一方、ヨーコとはいまだいい関係を持っていることについて、彼はこうコメントした。
「僕は、やはりラッキーだと思う。二人とも音楽やアートをやっている。そういうところで繋がることが出来るから。音楽やアートというコネクションがなかったら、やっぱり仲良くなれないと思うよ」
そんなショーンも、来年には、ジョンが逝去した年齢になる。
ジョンとヨーコの強い結びつきを語る材料はいくつもあるだろうし、着目するポイントも人それぞれにあるだろう。ぼくの場合、それはまず二人のリーダー・アルバムのジャケット・カヴァーとなる。
二人の全裸の写真が用いられた『未完成作品第一番 トゥー・ヴァージンズ』(1968年)。ベッドと床に寛いで横たわる2ショット写真を持つ『未完成作品第一番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』(1969年)。白の衣服に身をつつんだ二人の写真を掲げた『ウェディング・アルバム』(1969年)。といった、結婚前後の3部作。
共通する絵柄をそれぞれのリーダー・アルバムに用いた、『ジョンの魂』(1970年)と『ヨーコの心 ヨーコ・オノ・プラスティック・オノ・バンド』(1970年)。そして、『イマジン』(1971年)と『フライ』(1971年)。
さらには、向き合って唇を合わせたり、頬を寄せたりする二人の写真をジャケ絵に用いた両者の連名による『ダブル・ファンタジー』(1980年)と、ジョン死後のリリースとなる『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)。この両盤の絵柄(篠山紀信の撮影による)は『ダブル・ファンタジー』をリリースするさい、ジョン・レノン一人だけの絵柄のジャケットにしたいとの申し出がレコード会社側なされて、ジョンが激怒。意地でも、二人仲睦まじい写真を用いようとなったという。
そうした一連のアルバム・ジャケットの有り様を見ても、ジョンとヨーコの結びつきの強さ、二人でいることの覚悟のようなものが、分りはしまいか。個人的には、1970年と1971年に出された対となる2作品の存在を最初に知ったときには驚いた。アレレ、コンナコトシテイイノ? ロックにまつわる行動は何をやってもいいんだと痛感させられるとともに、前例に捕われない発想のしなやかさの見事な発露が、そこにはあると思った。
もちろん、夫婦が仲良く並んだ写真をジャケットに持つアルバムを出した人たちは世に何組もいる。有名なところでは、リオン・ラッセルとマリー・ラッセル(1976年作『Wedding Album』、1977年作『Make Love to the Music』)やグレッグ・オールマンとシェール夫妻(1977年作『Two the Hard Way』)あたりは良く知られるだろう。それらはともに見事な“色ぼけ”アルバムと多くの人に記憶されていると思うが、それに比し、ジョンとヨーコの諸作品はそれほど色ボケと感じさせないのは何故か。受ける側の先入観が働いているのかもしれないが、只の恋愛を超えた、広いスケールや、強い二人の意志や、同士的な二人の高め合いの様が見えるからではないのか。やはりジョンとヨーコの間には、崇高さや高潔さが超然とある。やはり、二人はスーパーなカップルであったのだと思う。
前衛芸術家の道を凛として進まんとするヨーコの1966年秋のロンドンでの個展に、ジョンが足を運んだのが、ともに既婚者であった二人のなれそめであったと言われる。アートは常識や先入観などを一切削いだものであり、自在の発想や行動こそが最たる美徳といった意志を掲げたヨーコの出典物にジョンは降参。ポップ・ミュージックという枠組のなかで数多かつ最大級の冒険を繰り返して来たザ・ビートルズを支えたジョンにとっても、ヨーコの持つ態度はあまりにフレッシュであり、オルタナティヴであり、センセーショナルなものに感じられたのは想像に難くない。そして、その後、二人は行動をともにし、日々切磋琢磨し、彼らが考える自由を社会に向かっておしだすようになる。
そんな二人の回路がザ・ビートルズ表現に持ち込まれた最たるものが、ザ・ビートルズ最長の曲でもある「レヴォールション9」だろう。ポールとリンゴは参加していないそのミュージック・コンクレートふう楽曲はまさに異色にして、よくぞアルバムに収録したと思わずにはいられない前衛曲だ。様々な曲調や方向性を収めた『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』(1968年)こそが彼らのベスト作とする人も少なくない(ぼくは、まさにそう感じています)と思うが、そういう者にとって、この曲は同作の極北の位置にある、掛け替えのない楽曲として存在しているのではないか。
すでにロック界のスーパー・スターでやりたい放題をつくせたとはいえリバプールの労働者階級の出身であったジョンは、東洋のいいとこの子女であるヨーコの前衛アートに対する造詣や天衣無縫な振る舞いに感化されまくったはず。そして、それがジョンの持ち前の創造性や我が道を行かんとする人間力の高さに火をつけた。ジョンがヨーコと出会って以降、ジョンはより世に背を向ける(いや、世を引っ張る、と書いたほうが適切か)ような、自覚的でもある行動をいろいろと見せるようになるし、それはより開かれた音楽家像を仁王立ちさせもした。もともと間違いなくリベラルであり、芯の通った人間ではあったが、ジョンはヨーコとの恋愛を通して、男女を超えるような普遍的な人間愛を求めるようにもなったし、前衛的にして過激なヨーコにつられて、より理想的なスタンスを貫くようになった。
ちんちん出した写真をジャケットに掲げたり、ベッドインなるパフォーマンスをプレス陣を前にして行う。そして、そこに出す音楽はポップ・ミュージックの枠組を大きく超えてもいる。ヨーコと出会っていなかったら、ジョンはそういうことはしていなかったのではないか。そして、だからこそ、ロック・スター然とした太平楽な活動を求めたいファンはその狼藉行動の元凶にヨーコを見て、おおいにバッシングしたのだと思う。ぼくは、そのころの二人にはリアル・タイムで接していない。だが、その様は今振り返っても、保守社会に対する理想主義に燃えた闘士そのもの。そして、それが単に破壊や否定ではなく、ポジティヴな慈愛と平和のメッセージにつながっていたのが、ジョンとヨーコたる所以でもあった。
ところで、ヨーコに関して、一つ。彼女のヴォーカルとういうと金切り声による器楽的歌唱法が思い出されるが、それをフリー・ジャズの先駆者であるオーネット・コールマンは高く評価していたと言われる。オーネットはまさにジャズ界においてトップ級の革新を行った人物であり、フリー・ジャズにおけるジョン・レノンと言っても語弊はない巨匠だ。彼は『ヨーコの心 ヨーコ・オノ・プラスティック・オノ・バンド』のレコーディングにデイヴィッド・アイゼンゾン、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルといった舎弟たちと参加もした。そういえば、オーネットは金切り声前衛系の女性ヴォーカリストをライヴで鷹揚に起用していたりもする(今のところ直近となる2006年3月の日本公演でも、彼はわざわざヨーコと通じるようなアヴァン系日本人女性シンガーをステージにあげていた)わけで、その信憑性は高いと思われる。
それから、最新のヨーコにまつわる情報も一つ書いておきたい。ジギー・マーリー(ボブ・マーリーとリタ・マーリーの息子ですね。1968年生まれ。ジギーという呼び名は、デイヴィッド・ボウイ好きから来たと言われる。彼の代表作の一つが1972年作『ジギー・スターダスト』)の2014年新作『Fly Rasta』(Tuff Gong/V2)にはあまりに見事なヨーコ大讃歌曲「You’re My Yoko」という曲が収められている。その軽快なレゲエ調曲には、ほんとびっくり。!マークを50個ぐらい、連ねたくなっちゃう。それに触れていると、ここにきて、ヨーコ再評価の気運が持ち上がるかもと思えてきたりもする。
蛇足だが、先に触れたインタヴュー時にショーンは、彼女がフロントに立つプラスティック・オノ・バンドをマイルス・デイヴィスの『オン・ザ・コーナー』(1972年)や『ライヴ・イヴル』(1971年)の方向に持っていけたらと、語っていた。
ところで、ぼくがジョンっていいよなあと感じてしまうのは、どうしようもなく立派な姿を見せるとともに、その一方では、ある種ダメ男でもあったからだ。それが、ぼくを安心させる。ホっとさせる。
私見だが、ジョンは甘えん坊だったと思う。ヨーコはボックス・セット『ジョン・レノン・アンソロジー』(キャピトル、1998年)添付のブックレットの前書きで、出会ったころジョンはまだ20代で彼女は8つ年上だったが、王様のように堂々としていて、ジョンを年下と感じたことはなかった、と記している。逆もまた真なりだろうが、ジョンがヨーコに依存していた部分が少なからずあったと、ぼくは感じてしまう。ヨーコは菩薩やミューズのような存在であり、ときに母親のような役割を担うときもあったのではないか。『マインド・ゲームズ』(1973 年)のジャケット・カヴァーはそのことを示唆していまいか。家政婦のメイ・パンに手を出しヨーコから三行半をつきつけられ、LAに逃げて故ニルソンたちと馬鹿まるだし乱交三昧したのはヨーコへの強い依存の裏返しではなかったか。そしてヨーコの許しが出て(間を取り持ったエルトン・ジョン、グレイト・ジョブ!)NYに戻ったあと、彼は心の平成を得たようにも、ぼくには思える。そして、ショーンが生まれたこともあり、ジョンはハウス・ハズバンド三昧の日々に入る。その後、音楽活動に復帰し、ショーンと離れてスタジオ作業をする際、彼はコンソールの前にショーンの写真を張ったという。
そんな“愛の人”たるジョンのすごいところは、どうしてもスノッブとも言える側面も出てしまう、吹っ切れたアート活動をヨーコと一緒に標榜しつつ、その一方で大衆との接点を持ち続けていたこと。ザ・ビートルズの一員としての名声や影響力を効果的に用いたという指摘も可能だろう。彼は、前衛的な理想主義を、もっと大衆に身近な問題や興味とつなげ、大きな動きにしようとした。それこそは、ジョンの天賦の何かと言うしかないだろう。
また、彼が生まれついてのロッカーであったと思わせるのは、「レヴォールション9」のようなカっとび曲を送り出したり、先に書いた1960年代後期3部作のような現代音楽/実験音楽のほうに片足をツッこんだアルバムを発表しつつ、一方では広がった社会観や愛の感覚をもとに「アクロス・ザ・ユニヴァース」やソロ後の「イマジン」のような本当に普遍的なメッセージ曲を発表していること。それは、まさに彼の天性のポップ・ミュージックの作り手としての才であり、言葉は悪いかもしれないがヨーコという触媒を得た“キング”の面目躍如な楽曲であるというしかない。
ザ・ビートルズ時代の曲「ジョンとヨーコのバラード」以降、特にソロ活動に向かうようになると、ジョンとヨーコの間のもろもろを題材とする曲はいろいろと出されている。たとえば、『イマジン』の最後に収められた「オー・ヨーコ」。<真夜中、君の名を呼ぶ。オー・ヨーコ。僕の愛で、君を満たしてあげる>なんて素直な物言いが並ぶその曲なんて、最高のラヴ・ソングではないか。そう、こんな歌がかけなきゃ、革命もへったくれもないのである。
そして、それらの楽曲は天性の質感〜訴求力を持つヴォーカル(それは、魔法のようなグルーヴを抱えたものであるのはより認識されるべき)で歌われるのだから、もう降参するしかない。
ジョンとヨーコの、<ラヴ&ピース>。それは“アートや行動の無限の可能性”や“基本にある二人の人間関係の素敵”が結実したものであった。
もう一つ、その少し前に書いた原稿で、もう一つ未払いなやつを思い出した。ずさんなので別に支払い状況をマメにチェックしているわけではないし、すぐに書いた原稿のことも忘れてしまう傾向にあるのだが、これはゴールデン・ウィーク中に遊びの用事を削って書いた原稿なので、一応覚えている。ユニバーサル・ミュージックからの依頼の原稿で、一度担当A&Rに未払いじゃないのと指摘したら(その時、発売延期になったと聞いたか)、適当にはぐらかされて、そのままになってしまった。書いたのはコンコード発のレイ・チャールズのベスト盤のラーナーノーツで、以下が世間に出なかった原稿ナリ。
リジェンダリーという域に入りそうな、スター・ミュージシャンの条件って、なんだろう。たとえば……。
ライヴ・ショウでステージに登場したとたん、見る物は胸がいっぱいになってしまい、思わずスタンディング・オヴェーションしてしまう。
大ヒット曲を連発し、グラミー賞の常連でもある。
社会貢献を目的とした、自己財団を持っている。
自伝が出版されている。とともに、当人を題材とする映画も制作されている。
はたまた、クリスマス・アルバムを出している。そして、いろいろとベスト・アルバムが組まれている。
それから、切手の絵柄になっている。という、事項もそれに加えることができるだろうか。
実はこのレイ・チャールズのベスト盤『フォーエヴァー』はそのジャケット・カヴァーに顕われているように、アメリカ合衆国郵便公社が2013年9月にレイ・チャールズの切手を発行したことに合わせて組まれたベスト盤だ。
蛇足だが、同公社はここのところ、リディア・メンドーサ、ジョニー・キャッシュ、ジミ・ヘンドリックスといった鬼籍入りした大ミュージシャンを絵柄に採用した切手を発行している。
そのキャリアの長さ、プロダククツ群の深さや多彩さ、功績の大きさゆえ、レイ・チャールズのベスト盤はこれまで本当にたくさん組まれている。そうしたなか、この“一番新しい”ベスト・アルバムは、当然のことながら既発のものとは一線を画した選曲がなされている。
それが顕著に出ているのは、1950〜1960年代、つまりアトランティックやABC時代の楽曲は2曲しか収められていないこと。「メス・アラウンド」も「ホワッド・アイ・セイ」も「ジョージア・オン・マイ・マインド」も「愛さずにはいられない」も、ここには入っていない。ようは、彼が国民的な歌手としてより君臨するようになった1970年代以降のレイ・チャールズの姿を本作は主にまとめることで、彼が生涯にわたって持ち続けたしなやかな広がり、慈愛の情あふれるソウルネスといったものを、提示しようとしている。チャールズはキャリアを積むごとに自作曲を発表しなくなり、他者の楽曲を介することで逆にワン・アンド・オンリーたる個性が明解に出る、より万人向きとも言えるプロダクツを世に問うようになった。そして、ここに収められた曲群はスタンダード・ソングからポップ・チューンまで、全て非オリジナルだ。なお、この選曲は<ザ・レイ・チャールズ・ファンデーション>を運営する、原盤CDの解説も書いているヴァレリー・アーヴィンがしている。
■楽曲紹介
1 ア・ソング・フォー・ユー
1970年代に一世を風靡したシンガー/ピアニストのリオン・ラッセルの1970年発表曲。カーペンターズ、ダニー・ハサウェイ、ウィリー・ネルソン他、数多の担い手が取り上げるポップ・スタンダードだ。チャールズは1993年作『マイ・ワールド』(ワーナー・ブラザーズ)でこの曲を原曲のテイストを尊重する形でカヴァーし、シングル・カットもされた。R&Bチャート57位のセールスに留まったものの、本曲は1993年度の最優秀男性R&Bパフォーマンス賞を受賞している。
2 アイム・ゴナ・ムーヴ・トゥ・ザ・アウトスカーツ・オブ・タウン
1961年作『ジニアス+ソウル=ジャズ』(ABC)に収められたブルース基調の重厚ジャジー曲で、R&Bチャート25位(総合は84位)。カウント・ベイシーのオーケストラを借りて録音しており、プロデュースは後にCTIを設立するクリード・テイラーが担当。チャールズが影響を受けたルイ・ジョーダンも歌っていた曲で、後にザ・オールマン・ブラザーズやロッド・スチュアートらロック勢もこの剛毅な有名曲をカヴァーしている。
3 リング・オブ・ファイア
1970年作『ラヴ・カントリー・スタイル』(タンジェリン)に収録されていた曲で、ロック・アーティストからの信任も厚いカントリー界のビッグ・ネームであるジョニー・キャッシュの最大のヒット曲(1963年全米総合チャート1位)だ。チャールズはすちゃらかした原曲を大胆グルーヴィに処理している。1980年代に入ると、チャールズとキャッシュはお互いのレコーディングに参加し合った。
4 カム・レイン・オア・カム・シャイン
ジョニー・マーサーとハロルド・アーレンが作った1946年初出のスタンダード曲で、ビリー・ホリデイからジェイムズ・ブラウンまで取り上げる。通算6作目となる1959年作『ザ・ジニアス・オブ・レイ・チャールズ』(アトランティック)のクローザーだった曲だ。
5 ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー
ジョージとアイラ、ガーシュン兄弟が書いた彼らの代表曲の一つで、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の1937年映画「シャル・ウィー・ダンス?」のために書かれた。以後、このひねりの利いたラヴ・ソングは洒脱シンガーから多大な人気を博している。重厚なビッグ・バンド・サウンドがおごられたこのテイクは、今回初めて陽の目を見た。
6 ティル・ゼア・ワズ・ユー
自らのレーベル“タンジェリン”(1966〜72年)を“クロスオーヴァー”(1974〜75年)と改名しての最初のアルバム『カム・ライヴ・ウィズ・ミー』に収録されていた曲で、メレディス・ウィルソンが1957年ミュージカル「ザ・ミュージック・マン」(5年後に、映画化もされた)のために書いた。ソニー・ロリンズやザ・ビートルスらのカヴァーは特に有名か。ムーディな編曲とエレクトリック・ピアノの組み合わせは、チャールズ表現ならではのもの。
7 イズント・イット・ワンダフル
チャールズの死後にリリースされた『レア・ジニアス』(コンコード)に収録。1970年代から1990年代にかけての未発表/デモ曲を厳選し、そこに新たな音も一部加えるという指針を同作は取っていた。これは未発表であったのが謎に思える、寛ぎとグルーヴィさを併せ持つ好テイスト曲だ。
8 ナン・オブ・アス・アー・フリー
1990年上半期型の同時代サウンドのもと、唯一無二のチャールズの持ち味を解き放つ『マイ・ワールド』から。バリー・マンやブレンダ・ラッセルら好シンガー・ソングライターによる、ヒューマンなメッセージが込められた曲だ。この後、レイナード・スキナードやザ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマらがこの生理的にアーシーな曲を取り上げている。
9 イマジン
ロック界でトップ級に有名な曲であり、秀でたメッセージ・ソングでもあるジョン・レノンの1971年曲。2002年にライノ経由で組まれた、1960~1997年に録音した愛国心高揚楽曲を集めた編集作『レイ・チャールズ・シングス・フォー・アメリカ』(ライノ/wea)から。同作は、2001年9.11後の米国気運のもとに組まれたと言われている。
10 イフ・アイ・クッド
大御所米国人プロデューサーの一人であるリチャード・ペリー(カーリー・サイモン、リンゴ・スター、ロッド・スチュアート他を手がける)がプロデュースした『マイ・ワールド』収録の曲。モータウン畑のソングライターであるロナルド・ミラーらが共作していて、バーブラ・ストライサンド、セリーヌ・ディオン、ナンシー・ウィルソンらMOR系歌手にも取り上げられる曲だ。
11 ソー・ヘルプ・メー・ゴッド
『マイ・ワールド』からの4つ目となる曲で、チャカ・カーンほか様々な人気シンガーに曲を提供している辣腕ソングライターであるジャソ・J・フリードマンらが書いた、ゴスペル調曲だ。
12 アメリカ・ザ・ビューティフル
レイ・チャールズというと、この曲を思い出す人もいるか。アメリカ合衆国の第二の国歌たる、古くからの公有歌だ。1972 年にタンジェリンから出された『ア・メッセージ・フロム・ザ・ピープル』に収められている。
最後になったが、簡単に彼のキャリアを記しておく。
レイ・チャールズ・ロビンソンは、1930年9月23日にジョージア州で生まれた。母子家庭のもとフロリダ州で育つが、7歳で完全に失明。母親が亡くなってしまった15歳からピアニスト/シンガーとして身を立てるようになり、17歳になると大志を持って西海岸に向かった。3歳年下のクインシー・ジョーンズと出会い、彼に刺激を与えたのもそのころだ。22歳でアトランティック・レコードと契約し、ゴスペルとブルースが重なったと説明できるR&Bを鋭意創出。1955年に「アイ・ガッド・ア・ウーマン」で初めてR&Bチャート1位を獲得し、彼はスターへの道を歩んで行く。
そして、1959年末には、よりいい条件(+表現の自由の保証)を提示したABCと契約し、R&B、ジャズ、ポピュラー、カントリーといった音楽の枠を超えた“レイ・チャールズ表現”を思うまま標榜。結果、まさにアメリカを代表する音楽家としての位置を得ることとなる。
リリースしたアルバムは、約60枚。チャールズ最後のオリジナル・レコーディング作となってしまったノラ・ジョーンズやヴァン・モリソンらとの豪華デュエット曲を収めた『ジニアス・ラヴァーズ・カンパニー』(コンコード)、そしてテイラー・ハックフォードが監督した傑作自伝映画『Ray/レイ』がリリースされたのは2004年の夏と秋。残念ながら、チャールズはその高評を知る前に、同年6月10日に肝臓癌で亡くなった。
米国黒人音楽の素敵、創造性、訴求力を誰よりも示した、文字どおりのジニアス。そんな彼は黒人差別とも戦う一方、手を握るときれいな女性がすくに分ったというユーモラスな逸話も残している。(2014年5月 佐藤英輔)
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