チリ出身で在NYのシンガー・ソングライター/ジャズ・ギタリストであるカメラ・ミザ(2017年9月3日)のリーダー・グループ公演を、南青山・ブルーノート東京で見る。ファースト・ショウ。

 イスラエル出身ピアニストのシャイ・マエストロ(2012年3月12日、2016年1月4日、2016年6月11日、2016年6月11日、2017年9月3日、2017年9月6日、2018年11月12日)と日本に複数回来ているメサだが、今回の同行奏者の2人はやはり在NYのイスラエル人。それはキーボードとピアノのエデン・ラディン(2018年6月19日)と、ダブル・ベースのノーム・ウィーゼンバーグ(2018年11月12日)という辣腕奏者たち。さらに、ドラマーはやはりNYで活躍する小川慶太(2014年8月3日、2016年1月19日、2017年4月18日、2017年12月11日、2018年4月4日、2018年10月10日)で、そんな3人はメサの新作『アンバー』録音サポート者と同一。その新作が弦楽四重奏団付きであったように、そのカルテットに日本調達の4人の弦楽器奏者がつく。ヴァイオリンの松本裕香(2018年8月26日)と鈴木絵由子、ヴォオラの惠藤あゆ(ヴィオラ)、チェロの橋本歩(2019年6月29日)が、その面々。

 素敵な実演だった。オリジナルに混じったミルトン・ナシメント(2003年9月23日)曲カヴァーをはじめ、多くは新作に入っていた曲で、スペイン語中心で歌われる。そして、自ら弾くギター・ソロも今様で確か。ギター弾き語りで歌われた曲は、メキシコ人のトマス・メンデスの1954年有名曲「ククルクク・パロマ」。あのカエターノ・ヴェローゾ(2005年5月23日)も昔取り上げていた。

 弦アレンジはウィーゼンバーグがしているそうだが、その曲趣を底上げする才気ある編曲を日本人女性たちもよくこなしていた。合わせるのは大変だったろうに、ファースト・ショウとセカンド・ショウはけっこう違う曲をやったらしい(彼女の2016年作『Traces』で取り上げていた、ヴィクトル・ハラの「ルチアン」もやったと聞いた)。ジャズを知らなくては現れえない浮遊感や広がりと随所に息づく透明感ある南米滋養に、ほんとうに頷く。でもって、みんなで心を持っていいものを作り上げたいという気持ちが、確かな実を結んでいたと思う。書き留めたいことは、山ほど。日経新聞電子版でこの晩のことを書くので、これぐらいにしておく。

▶︎過去の、シャイ・マエストロ
http://43142.diarynote.jp/201203131840477844/
http://43142.diarynote.jp/201601050914043127/
http://43142.diarynote.jp/201606121230202174/
https://43142.diarynote.jp/201702021523283237/
http://43142.diarynote.jp/201709101639096076/
https://43142.diarynote.jp/201709110842026988/
https://43142.diarynote.jp/201811141355524842/
▶︎過去の、カメラ・ミザ
https://43142.diarynote.jp/201709101639096076/
▶︎過去の、エデン・ラディン
https://43142.diarynote.jp/201806201223491195/
▶︎過去の、ノーム・ウィーゼンバーグ
https://43142.diarynote.jp/201811141355524842/
▶過去の、小川慶太
http://43142.diarynote.jp/201408061110256933/
http://43142.diarynote.jp/?day=20160119
http://43142.diarynote.jp/201704200801169451/
http://43142.diarynote.jp/201712121324481276/
http://43142.diarynote.jp/201804051207119119/
https://43142.diarynote.jp/201810170924585002/
https://43142.diarynote.jp/?day=20181117
https://43142.diarynote.jp/201812081039071230/
▶︎過去の、松本裕香
https://43142.diarynote.jp/201808290950074198/
▶︎過去の橋本歩
https://43142.diarynote.jp/201906301115529387/
▶︎過去の、カエターノ・ヴェローゾ
http://43142.diarynote.jp/200506021846130000/
▶過去の、ミルトン・ナシメント
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2003-9.htm

 その後は、六本木・ビルボードライブ東京に。特殊才能アリのフランス人キーボード奏者である(2015年5月30日、2016年8月29日)のセカンド・ショウを見る。例により、当人とドラマー2人によるパフォーマンスなり。

 まずは、映像ありきの人。自ら撮ったり、ネットなどで拾った映像を自在に編集し、その映像に元々ある肉声や鳥の鳴き声や情景音などを下敷きに、彼はそこにメロディやキーボード/ビート音を加えて、絵巻的サウンドを作ってしまってきている。つまり、彼の音楽の基には映像があり、アルバムはその映像のサウンドトラックという感じものとなる。ゆえに、彼のライヴ・パフォーマンスにおいては、いつも映像(プリセットの音楽付き)が流され、それに合わせるように生の演奏音がつけられる。

 さすが、前回から3年近くたつため、4つのパートに分けられた映像はすべて新しい。その映像は人間にまつわるゲームを題材とするもので、横のほうに座っていたので今いちそれをちゃんと把握することはできなかったが、日本で言うならずいずいずっころばし〜のようなフランスの子供の遊びの様からTVゲームの画面まで、“絵”のマテリアルは様々。けっこう長々と使われていたエレヴェイターのシーンの女性はクリスタル・ケイ(2011年8月6日 )だった?

 そんな映像に沿う音楽はヴォーカル・パートが多くなり、フルート音も結構使われているのはポイント。そのシンガーやフルート奏者も画像に現れ、それは過去はなかったこと。そして、痛感させられるのは、まあワン・パータンという感想も生まれなくはないのだが、本当にシャソールの作るメロディとキーボード音は温もりや潤いがあり、天衣無縫さや満たされた情緒を抱えているという事実。ほんと、それは唯一無二の個性。一部、米国のR&Bの作り手が彼の才に着目しているというのもさもありなん。彼のそうした手腕って、飛躍して言えばたとえばデイヴィッド・T・ウォーカーやバーニー・ウォレルの個性ある楽器音のようなものだから……。ただし、そういう彼の演奏をジャズっぽいという人もいるが、ぼくはその説には与しない。よく映像に臨機応変に合わせるとは思うが、基本は決まったフレイズをまんま弾いているので、インプロ度は低い。とはいえ、その指さばきやメロディがあまりに有機的かつメロウであるから、そういう言い方が出てくるのも分からなくもない。

 ドラムを叩くのは、マテュー・エデュアール 。彼、過去の来日時の人と同じなのかな? もう、強力にしてシャープ。わりと画像に合わせて歌うように叩くときは本当に腕が立つと思わされる。だが、ステディな8ビートをキープする際だと、その上手さが災いし、つまんなく感じられてしまうという不幸な人ですね。なんにせよ、彼も完成度の高いショウには欠かせぬ人であるのは間違いない。アンコールは2曲、最初は昔の印度材料のやつで、2曲目は映像なしでデュオった。90分ぐらい、2人は演奏した。

▶︎過去の、シャソール
http://43142.diarynote.jp/201505310957591440/
https://43142.diarynote.jp/201609200921301045/
▶︎過去の、クリスタル・ケイ
https://43142.diarynote.jp/201108101632022013/

<2015年の、ナイス・ガイ>
 以下の質疑応答は、1976年にパリに生まれたシャソールの2015年初来日時に取ったインタヴューだ。その抜粋は、ラティーナ誌に掲載された。

——ご両親がマルチニークの生まれで、あなたはパリ生まれなんですよね。
「そう。音楽学校に通って、ピアノを学んだり音楽分析をするようになった。オーケストラにも所属したよ。ピアノという楽器はオケのなかで1名しか存在しないから、その地位を得るまでが大変だった」
——子供の頃から音楽が一番の存在で、大きくなったらミュージシャンになると思っていたわけですか。
「もちろん、小さなときからそう思っていた。音楽家になることはハードルが高いというのは、自分でも自覚していた。父がサックスとクラリネットをやっていたので、父はやはり音楽の道に進んでほしいという希望を持っていたんだ。父は(出身地の)アンティル諸島の音楽やジャズやラテンを演奏していたけど、パリに移住したとき、オーケアストラに所属しようと努力した。そして、オーケアストラに入ってからはクラリネットを吹いていた」
——では、子供の頃から、マルチニークの音楽も流れていたわけですか?
「そりゃ、もちろん。島の民族音楽、ビギン、ジャズ、カリプソ、クラシックのレコードを沢山あって、小さなころから父と演奏し、それがクラシックを真面目にやるきっっかとなった」
——アメリカのバークリー音楽大学にも通ったことがあるんですよね?
「パリの大学では哲学を専攻して、と同時にオーケストラにも所属していて、また同時にジャズの音楽学校にも通っていた。一方、個人的にはミュージック・ヴィデオを作る事もしていて、26歳になったときにバークリー音大の奨学金を得た。作曲の勉強をちゃんとしたい、アメリカに行きたいという気持ちがあったからね。1年間、そこで学んだよ」
——その後は、映像に音楽を付ける仕事についたのですか?
「いや、その前からパリではプロとしてそういう仕事をしていたよ。帰国後にフェニックスの世界ツアーに同行して、そのツアーの終わりがLA公演だったので、そのままそこに1年間滞在したんだ。そのとき、アーティスト・イン・レジデンスに所属していた。ロサンゼルスはとても好きな街で、そこでの生活はいろんなことが試すことが出来て、僕のキャリアにおいて大切な時期だと感じている。それが2005年なんだけど、ちょうどその時にYouTubeという画期的なものが表れて、何万というヴィデオを自由に見る事が出来て、自分の好きなように弄ったり、編集したりできて、それに夢中になった。そして、そんな時に、ヴィデオで使われている音を使えるんじゃないかというアイデアに行き着いた」
——では、LAでの自由な日々がなかったら、今のようなことはやっていない?
「LAに行く前から広告の仕事をしていたんだ。その手の職業はとても報酬がいいので、そのころから半年仕事をして、半年は自分の創作活動に励むという生活をしていたので、LAに行ってなくても今のようになっていたのではないかと思う。まあ、一番のきっかけは、YouTubeの登場だね」
——YouTubeの登場を引き金とする、クリエイティヴな音楽の冒険。……そんな行き方を確立したのはいつごろですか?
「LA滞在を終えて、パリに帰ったんだけど、そのときに両親が飛行機事故で亡くなってしまったんだ。パリにいて、なんか落ち着かない日々で、その時にすごく自分の創作に没頭して、仕事をし、2006年に”ロシアの子供”というタイトルのヴィデオを作ってのが分岐点となるかな。そこらあたりが、今の自分の音楽性に繋がった。そして、2008年ごろに、自分自身で映像も作りたいと思うようになったんだ。いろんな映画の予告版から“もののけ姫”の映像まで、なんでも僕は使い、音楽をつけるよ」
——僕はインドで撮った映像を基にした『Indiamore』(Tricatel、2013年)を知って、こんな才人がいるのかと仰天しました。ときに、なぜインドだったのでしょう?
「マルチーニークとインドってかけ離れた国のように思うだろ? でも、意外と繋がりがあって、僕の母もインド系の血が入っていたということもある。それに、マルチニークは、西インドとも呼ばれるでしょ? まずインドにひかれたのは、ん〜という、そこにある低音にひかれた。そこにいろんな音が加わり、最終的に音楽が低音に収束する。低音と高音の間に余っている空間があって、そこに西洋音楽を入れる余地があって、僕はそこにひかれた。」
——西洋と東洋の出会い、みたいなところはかなり意識したのでしょうか?
「それもなくはなかったけど、そういうのは1960年代ぐらいから他の有名な人がやってたからね。まず、僕が思ったのは、周りのフランス人の友達がインド音楽を理解してくれない。寝てしまったり、聞こうともしないという状況をどうやって、彼らに聞かせることができるかというのが目的だった」
——新作の『Big Sun』(Tricatel、2015年)。そのジャケット・カヴァーにあるマスクは映像の材料地となったマルチニークのものですか?
「これはカーニヴァルで使われるマスクなんだ。僕自身も最初見た時に奇抜で、驚いた。いろんなものを子供たちがつけて、車をとめたりして、何かをもらったりする。そういうハロウィン的なカーニヴァルがあるんだ。今回このマスクを選んだのは、フランスの大臣のなかに黒人女性がいるんだけど、フランス国内における黒人差別の動向を取り上げてすごく白人たちからバッシングを受けていたこと。僕は当然それを黒人の立場で見ていて、今の白人の黒人に対する態度というのは14世紀となんら変わらない。ならば、そんなことを笑い飛ばしてやれという気持ちで、黒人が猿のお面を被って笑っているというメッセージをこめた。それと、僕が映画「猿の惑星」の大ファンだということもある」
——音楽的に求めたところは?
「音楽的には、何度も聞きたくなるものにしたかった。たとえば、ノスタルジー的な要素だったり美的な要素であったり、自分の熱意であったり、そういうのを糸と針で繋いで行く。そういう作業しながら、一つの音楽にまとめていったんだ」

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