音楽評論家の大伴良則さんの訃報が伝わる。雑誌原稿やライナーノーツをいろいろお書きになっていたが、音楽の趣味も微妙に離れるし、学生時代はその名を格別意識したことはなかった。だが、編集者になり、彼と関わるようになると、ぼくにとって大伴さんはお気に入りの筆者になった。通り一遍の題材であっても、彼はちゃんとポイントある文章で出してくれた。しかも、締め切りを破ることがなかった。彼の文章には、含み笑いのストーリーテリングの妙があった。少なくても、ぼくが受け取った原稿は。こういう人がプロと言うんだろうなとも、ぼくは思った。長くはない期間の編集者をやめて以降、彼はあまりライヴに行く方ではなかったので、会うこともなくなった。大伴さんはラジオの構成もいろいろおやりになっていて、そこで重なる同業者もいたが、ぼくはラジオの構成はしなかったので、そちらで繋がることもなかった。静的ニコニコといった感じの人ながら、喋ると小さめな声でおっとり饒舌であるという印象をぼくは持っている。それは、彼の豊かな興味や知識ゆえではなかったか。腹部大動脈破裂で死去、享年73。
それから、フー・ファイターズ(2002年9月12日)のドラマーのテイラー・ホウキンズがその南米ツアー中に、滞在していたコロンビアのボゴタで亡くなってしまった。楽旅中に死去というのは、なんかもう一つの悲しみを覚えさせる。テキサス州フォートワース生まれで、1976年にカリフォルニア州ラグナ・ビーチに引っ越し、同地で育つ。アラニス・モリセット(1999年4月24日、2002年3月22日)をはじめいろんなバンドで叩いていた彼は1997年以降にフー・ファイターズに加入し、以後ずっと在籍してきた。一方で、歌にも覚えある彼は他のプロジェクトにも手を染め、テイラー・ホウキンズ&ザ・コートテイル&ライダーズとして2006年にファースト作を出した際は、同年の富士スピート・ウェイで開かれたフェスティヴァルに彼はそれで参加した。そのバンドのギタリストはジャズ・ドラマーのネイト・ウッド(2013年8月22日、2015年9月30日、2016年10月29日、2019年6月5日 )だった。ラグナ・ビーチ高校で同級生だったウッドもショックを受けているだろう。ウッドは1作目でバンドを離れたが、2010年と2019年にもテイラー・ホウキンズ&ザ・コートテイル&ライダーズとしてアルバムをリリース。その2作目にはクイーンのメンバーたちやエリオット・イーストン(2014年10月23日)らがゲスト入りするなど、彼は同業者からもとても好かれる存在だった。また、2017年自己名義EPには「トウキョウ・ノー・ノー」という曲を収めたこともあった。←その歌詞は、なんかよくわからん。
死因は不明。ながら、薬物摂取をほのめかす記事もある。彼は2001年にロンドンで、ヘロインで死にかけたことがあった。2005年に結婚し3人の子を授かるなど、家庭は円満だったようだ。彼はNHCという参加者のキャップを並べた名前でジェーンズ・アディクションのデイヴ・ナヴァロ(元チリ・ペッパーズですね)とクリス・チェイニーとともにレコーディングしており、そのEPはこれからリリースされることになっている。
▶︎過去の、フー・ファイターズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
▶過去の、アラニス・モリセット
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live1.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
▶︎過去の、ネイト・ウッド
http://43142.diarynote.jp/201308251333326263/
http://43142.diarynote.jp/201510021221454336/
http://43142.diarynote.jp/201610311234024646/
https://43142.diarynote.jp/201906061147569700/
▶︎過去の、エリオット・イーストン
https://43142.diarynote.jp/201410251056112035/
<今日の、思い出し>
あ、大伴良則さんとはロンドンで一緒になったことがあった。かつて我々の仕事はレコード会社からの依頼を受けての海外取材が少なくなく、それで複数のライターが一緒に派遣されることもあったが、1987年初頭にぼくがフリーになってからの最初の出張仕事となるそれは、大伴さんとだった。まだロンドンにメインのオフィスがあったゾンバ・プロダクション=ジャイヴでジョナサン・バトラーの取材だった。フリーになったぼくと一緒の仕事をすることを、彼はとても喜んでくれた。そのためかどうかは知らぬが、そういう場合一人づつ別にやるのが常だが、大伴さんの提案で二人で長い時間インタヴューをした。あのとき、同じゾンバ・プロダクション所属のルビー・ターナーのコンサートをロイヤル・アルバート・ホール(この欄に複数触れたことがあるが、そのとき一緒に出たのがザ・コミュナーズとテレンス・トレント・ダービーだった)であり、それも見ることができた。そういう+アルファが海外取材の美味しいところですね。大伴さんは別の用事があったのか、それは一人で見に行ったナ。帰りとかも別で、ガトウィック〜乗り換えスキポール〜アンカレッジという流れの便だった。そのアンカレッジでは大伴さんと似たような位置で仕事をなさっている大森庸雄さんが偶然同じ便に乗っていて、そんなに面識はなかったが少しお話をした。洋楽系ライターが海外取材の機会に恵まれていた時代、それらの経験は血となり肉となっている。
それから、フー・ファイターズ(2002年9月12日)のドラマーのテイラー・ホウキンズがその南米ツアー中に、滞在していたコロンビアのボゴタで亡くなってしまった。楽旅中に死去というのは、なんかもう一つの悲しみを覚えさせる。テキサス州フォートワース生まれで、1976年にカリフォルニア州ラグナ・ビーチに引っ越し、同地で育つ。アラニス・モリセット(1999年4月24日、2002年3月22日)をはじめいろんなバンドで叩いていた彼は1997年以降にフー・ファイターズに加入し、以後ずっと在籍してきた。一方で、歌にも覚えある彼は他のプロジェクトにも手を染め、テイラー・ホウキンズ&ザ・コートテイル&ライダーズとして2006年にファースト作を出した際は、同年の富士スピート・ウェイで開かれたフェスティヴァルに彼はそれで参加した。そのバンドのギタリストはジャズ・ドラマーのネイト・ウッド(2013年8月22日、2015年9月30日、2016年10月29日、2019年6月5日 )だった。ラグナ・ビーチ高校で同級生だったウッドもショックを受けているだろう。ウッドは1作目でバンドを離れたが、2010年と2019年にもテイラー・ホウキンズ&ザ・コートテイル&ライダーズとしてアルバムをリリース。その2作目にはクイーンのメンバーたちやエリオット・イーストン(2014年10月23日)らがゲスト入りするなど、彼は同業者からもとても好かれる存在だった。また、2017年自己名義EPには「トウキョウ・ノー・ノー」という曲を収めたこともあった。←その歌詞は、なんかよくわからん。
死因は不明。ながら、薬物摂取をほのめかす記事もある。彼は2001年にロンドンで、ヘロインで死にかけたことがあった。2005年に結婚し3人の子を授かるなど、家庭は円満だったようだ。彼はNHCという参加者のキャップを並べた名前でジェーンズ・アディクションのデイヴ・ナヴァロ(元チリ・ペッパーズですね)とクリス・チェイニーとともにレコーディングしており、そのEPはこれからリリースされることになっている。
▶︎過去の、フー・ファイターズ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-9.htm
▶過去の、アラニス・モリセット
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live1.htm
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-3.htm
▶︎過去の、ネイト・ウッド
http://43142.diarynote.jp/201308251333326263/
http://43142.diarynote.jp/201510021221454336/
http://43142.diarynote.jp/201610311234024646/
https://43142.diarynote.jp/201906061147569700/
▶︎過去の、エリオット・イーストン
https://43142.diarynote.jp/201410251056112035/
<今日の、思い出し>
あ、大伴良則さんとはロンドンで一緒になったことがあった。かつて我々の仕事はレコード会社からの依頼を受けての海外取材が少なくなく、それで複数のライターが一緒に派遣されることもあったが、1987年初頭にぼくがフリーになってからの最初の出張仕事となるそれは、大伴さんとだった。まだロンドンにメインのオフィスがあったゾンバ・プロダクション=ジャイヴでジョナサン・バトラーの取材だった。フリーになったぼくと一緒の仕事をすることを、彼はとても喜んでくれた。そのためかどうかは知らぬが、そういう場合一人づつ別にやるのが常だが、大伴さんの提案で二人で長い時間インタヴューをした。あのとき、同じゾンバ・プロダクション所属のルビー・ターナーのコンサートをロイヤル・アルバート・ホール(この欄に複数触れたことがあるが、そのとき一緒に出たのがザ・コミュナーズとテレンス・トレント・ダービーだった)であり、それも見ることができた。そういう+アルファが海外取材の美味しいところですね。大伴さんは別の用事があったのか、それは一人で見に行ったナ。帰りとかも別で、ガトウィック〜乗り換えスキポール〜アンカレッジという流れの便だった。そのアンカレッジでは大伴さんと似たような位置で仕事をなさっている大森庸雄さんが偶然同じ便に乗っていて、そんなに面識はなかったが少しお話をした。洋楽系ライターが海外取材の機会に恵まれていた時代、それらの経験は血となり肉となっている。
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