R.I.P.ジョン・バーンズ
2022年3月21日 音楽 20世紀の最後の四半世紀のR&B/アーバン・シーンを支えた重要キーボード奏者である、ジョン・バーンズがお亡くなりになった。ビッグ・ネームたちへのアルバムに山ほど関与し、みずからのサイト(https://johnbarnesmusic.com)を持っているにも関わらず、生年月日は不明だ。彼が関与したプロダクツのプレイリストも載っているそこには彼が亡くなったことは出ておらず、バーンズが貢献した最たる人物であるマイケル・ジャクソンの1998年から運営されている“Michael Jackson World Network ”というサイトで、この20日に二人の写真3葉とともに彼の逝去は報じられた。
生まれも育ちもロサンゼルスのワッツ地区で、4人兄弟の長男だ。6歳で手にしたクラリネットを端緒に、ベース、トロンボーン、ドラムなどを弾くようになったが、ちゃんとピアノを向かい合ったのは高校を出てからだった。彼はカリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校で音楽理論と作曲を学んでいるという。
そんな彼のキャリアのスタートは、ロサンゼルスに引っ越してきたモータウン。バーンズはスタッフとして関わるようになり、ザ・ミラクルズやザ・4トップスのアルバムに鍵盤奏者やプロクマーとして名前が入るようになった。そして、マーヴィン・ゲイ表現の1976年作『I Want You』や同リオン・ウェアの『ミュージカル・メッセージ』にもキーボードで関与。そのころから彼の名は広がり、レーベルを超えてジョニー・ブリストル、タヴァレス、ワー・ワー・ワトソン、ザ・マンハッタン・トランスファー、リオ・セイヤー、ミニー・リパートン、エロイーズ・ロウズ、グロリア・ゲイナー、フィフス・ディメンション、ベニー・ゴルソン、ビル・サマーズ、シャラマー、シェリル・リン、グラディス・ナイト、ジェフリー・オズボーン、ジョニー・ギル、フリオ・イグレシアスらのアルバムに鍵盤、プログラム、編曲などで関与するようになる。
そして、バーンズの技量に惚れ込んだ最たる大物が、マイケル・ジャクソンだった。両者はザ・ジャクソンズの『ヴィクトリー』(エピック、1984年)録音で出会ったのち、ジャクソンのブレインとしていろいろとMJ表現に関わっていき、1985年の『ウィー・アー・ザ・ワールド』ではサウンド・プロダクション作りの屋台骨を担い、それはジャクソンの『BAD』(エピック、1987年)も同様だった。以降、彼の諸アルバムやツアー用の音楽作りをするとともに、ジャーメイン・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、ケニー・ロギンス、ライオネル・リッチー、ハープ・アルパート、ロバータ・フラック、エディ・マーフィー、セリーヌ・ディオン、ロバータ・フラック、ガトー・バルビエリ、エディ・マーフィー、ラルフ・トレスヴァント、ダイアナ・ロス、シー・シー・ペニストン、レナード・コーエン、アレキサンダー・オニール、レジーナ・ベル、ジェラルド・アルストン他のレコーディングに、1990年代半ばにかけて参加している。
大雑把な抜粋だが、そうそうたるリスト。ポップ・ミュージックの中にプロクラミング音や鍵盤ベース音が無理なく入るようになった時代を映し出す西海岸のクリエイターと言えるだろうか。彼は家族を大切にし、ツアーに出ることは避けたとも伝えられるが、昨年から体調を崩していたようだ、
<今日の、うわー>
ちょい映像の探し物をしたら、こんなのに偶然出会った。日野皓正と菊地雅章のデュオによるしっとり静謐な「アイ・フォール・イン・ラヴ」。1994年、NY市庁舎での12分のライヴ映像だ。
https://www.youtube.com/watch?v=JNjaXZkKcw0
生まれも育ちもロサンゼルスのワッツ地区で、4人兄弟の長男だ。6歳で手にしたクラリネットを端緒に、ベース、トロンボーン、ドラムなどを弾くようになったが、ちゃんとピアノを向かい合ったのは高校を出てからだった。彼はカリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校で音楽理論と作曲を学んでいるという。
そんな彼のキャリアのスタートは、ロサンゼルスに引っ越してきたモータウン。バーンズはスタッフとして関わるようになり、ザ・ミラクルズやザ・4トップスのアルバムに鍵盤奏者やプロクマーとして名前が入るようになった。そして、マーヴィン・ゲイ表現の1976年作『I Want You』や同リオン・ウェアの『ミュージカル・メッセージ』にもキーボードで関与。そのころから彼の名は広がり、レーベルを超えてジョニー・ブリストル、タヴァレス、ワー・ワー・ワトソン、ザ・マンハッタン・トランスファー、リオ・セイヤー、ミニー・リパートン、エロイーズ・ロウズ、グロリア・ゲイナー、フィフス・ディメンション、ベニー・ゴルソン、ビル・サマーズ、シャラマー、シェリル・リン、グラディス・ナイト、ジェフリー・オズボーン、ジョニー・ギル、フリオ・イグレシアスらのアルバムに鍵盤、プログラム、編曲などで関与するようになる。
そして、バーンズの技量に惚れ込んだ最たる大物が、マイケル・ジャクソンだった。両者はザ・ジャクソンズの『ヴィクトリー』(エピック、1984年)録音で出会ったのち、ジャクソンのブレインとしていろいろとMJ表現に関わっていき、1985年の『ウィー・アー・ザ・ワールド』ではサウンド・プロダクション作りの屋台骨を担い、それはジャクソンの『BAD』(エピック、1987年)も同様だった。以降、彼の諸アルバムやツアー用の音楽作りをするとともに、ジャーメイン・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、ケニー・ロギンス、ライオネル・リッチー、ハープ・アルパート、ロバータ・フラック、エディ・マーフィー、セリーヌ・ディオン、ロバータ・フラック、ガトー・バルビエリ、エディ・マーフィー、ラルフ・トレスヴァント、ダイアナ・ロス、シー・シー・ペニストン、レナード・コーエン、アレキサンダー・オニール、レジーナ・ベル、ジェラルド・アルストン他のレコーディングに、1990年代半ばにかけて参加している。
大雑把な抜粋だが、そうそうたるリスト。ポップ・ミュージックの中にプロクラミング音や鍵盤ベース音が無理なく入るようになった時代を映し出す西海岸のクリエイターと言えるだろうか。彼は家族を大切にし、ツアーに出ることは避けたとも伝えられるが、昨年から体調を崩していたようだ、
<今日の、うわー>
ちょい映像の探し物をしたら、こんなのに偶然出会った。日野皓正と菊地雅章のデュオによるしっとり静謐な「アイ・フォール・イン・ラヴ」。1994年、NY市庁舎での12分のライヴ映像だ。
https://www.youtube.com/watch?v=JNjaXZkKcw0
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