ヒューマントラストシネマ渋谷で、セロニアス・モンク(1917〜1982年)の1968年米国記録映像作品を2本続けて見る。普段からモンク、モンクと言っているのに、実はそんなに彼の動く姿を知っているわけではない。こんなおりではあったが、これは見に行くべきじゃとなったなり。そんなに長い期間は上映しないだろうし。

 ともにマイケルとクリスチャンのブラックウッド兄弟が監督しており、二人は半年間にわたりワン・アンド・オンリーのジャズ・ピアニストを追った。西ドイツ人でありながらニューヨークに住んでいた兄弟は西ドイツのTV局の求めを受けて撮影に入り、その結果はニューヨーク撮影編である『MONK モンク』(原題『Monk』)と、欧州撮影編である『モンク・イン・ヨーロッパ』(原題『Monk in Europe』)の二つに分けてまとめられたのだった。

 ともにモノクロームの作品で、1時間の尺。両作品は1968年に西ドイツの公共TV放送で放映された後、ひっそりと眠っていた。モンクのドキュメンタリーというと、クリント・イーストウッドがエグゼクティヴ・プロデューサーを務めたシャーロット・ツワーリン監督の1988年米国映画『セロニアス・モンク/ストレート・ノー・チェイサー』が知られるが、それはブラックウッド兄弟による映像の存在を知ったことでイーストウッドがお金を出して作られたという認識をぼくは持つ。←その映画、ぼくは未見ですが。

 『MONK モンク』のほうは、ヴィレッジ・ヴァンガードでのステージや他愛ない会話がなされる楽屋の模様、そしてコロムビア・レコードのスタジオにおける録音リハーサルの模様が主たるソース。それらが、ぶっきらぼうな感じで繋がれるが、それはモンクのテイストと離れてはいないか。おおっと思うのは、物理的にかなりモンクに近づいた映像が多いこと。当時の大きな機材のもとかなり対象に寄って録られたはずであり(ライヴに来ているお客の邪魔にもなったろう)、兄弟はモンクの懐に入っていたことが分かる。

 そのモンクの演奏シーンからは、彼がまったくもって我流にして気持ちがいいぐらい独創的な指さばきを持つこと、右足はしょっちゅうストンプしていたことなどが伝わる。とともに、今更ながらなんともイケているソングライターであることも。ああ、なにゆえに彼はあれほどまでにブラック・ジャズの得難い襞を照らす秀でた曲作りの才を与えられたのだろう? 演奏は他の奏者にまかせて、ピアノから離れて少し踊るような仕草をするシーンもある。ライヴやスタジオでサイド・マンを務めているのはテナー・サックスのチャーリー・ラウズ、ダブル・ベースのラリー・ゲイルズ、ドラムのベン・ライリーの3人。彼らはモンクのコロムビア・レーベル期の『Monk』 (1964年)から『Monk’s Blues』 (1968年)にかけての7作に共通する奏者たちだ。

 スタジオのシーンには、コロムビアの社員A&Rにしてヒストリカルなジャズ・プロデューサーであるテオ・マセロも出てくる。揉み手状態でモンクたちに愛想よく接するその様は、マセロが下手に出て相手を木に登らせレコーディングを進めていたことを伝えよう。

 また、NY編でほうと思わせるのはジャズ黄金期最大の黒人ジャズ・アーティストの支援者であったパノニカ・デ・コーニグズウォーター(1913〜1988年)の姿や会話も楽屋のシーンで出てくること。英国富豪のロスチャイルド伯爵家の娘である彼女は熱烈なジャズ愛好家で富を抱えて渡米した1950年代中期以降、数々のアフリカ系ジャズ・マンを様々な形で援助したことで知られる。愛称はニカ、ソニー・クラークの「ニカ」やホレス・シルヴァーの「ニカズ・ドリーム」、ジジ・グライスの「ニカズ・テンポ」など彼女の名前を冠したジャズ曲はいろいろ。モンクの「バルー・ボリバー・バルーズ・アー」(ボリバーは、パノニカが一時住んでいたセントラル・パーク・ウェストにあったホテルの名前だ)や「パノニカ」もそう。それらは『Pannonica - A Tribute To Pannonica』としてフランスのレーベルのクリスタルからまとめられたことがあった。彼女の死後、1961年から1966年にかけて300人の担い手に3つの夢が叶うとしたらという問いとアーティストを自ら撮ったポラロイド写真で構成された書籍が少し離れた姪を介して形にされた。まず2006年にフランス語版「Lesmusiciens de jazz etleurstroisvœux」がフランスで出版され、遅れて英語版「Three Wishes:An Intimate Look at JazzGreats」も出た。日本語版は「ジャズ・ミュージシャン3つの願い ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ」としてP-ヴァイン・ブックスから2008年に出版されている。

 一方、ヨーロッパ各国での実演やリハの模様やオフを抑えた映像で構成される映画『モンク・イン・ヨーロッパ』は先のカルテットに加え、トランペットのレイ・コープランド、アルト・サックスのフィル・ウッズ(2011年3月26日)、テナー・サックスのジョニー・グリフィン、トロンボーンのジミー・クリーヴランドも加わった5管でことに当たっていることがうれしい。僕はまずモンクス・ミュージックというと、複数の管楽器奏者を使う1950年代リヴァーサイド時代の表現を頭に浮かべる者であるから。ソロも好きだが、モンクの米国黒人音楽の精華と言える歪みやほつれは管楽器が入った方が映えるとぼくは感じる。映画には、そこにトランペッターのクラーク・テリーがゲストで加わる場面も入っている。

 欧州編には彼のホテルの部屋にカメラが入った映像も出てきて、相当にモンクはカメラが内側に入ることを許しているのは間違いない。トレードマークの妙な帽子をかぶりヤギのようなヒゲを蓄えるモンク(いつも、ちゃんとスーツを着ている)は、このころ50歳前後。まったくもって、元気だ。気難しいゾと思わせるところもなし。オフの仕草はお茶目でもある。この3年後には彼がレコーディングやライヴから離れてしまう〜強度の躁鬱病であったとも伝えられる〜なんて信じられない。スライ・ストーン(2008年8月31日、2008年9月2日、2010年1月20日)がそうであるように、普通の人の何百倍もの創造を提出したアーティストの活躍期間には限りがあるのだろうか。音楽から離れた晩年の数年間、モンク家はニュージャージーのパノニカ邸に身を寄せていたという。

▶︎過去の、セロニアス・モンクが出てくる映画
https://43142.diarynote.jp/202107041453546495/
▶︎過去の、フィル・ウッズ
https://43142.diarynote.jp/201103271555032719/
▶過去の、スライ・ストーン
http://43142.diarynote.jp/200809011923060000/
http://43142.diarynote.jp/200809071428140000/
http://43142.diarynote.jp/201001211346277187/
http://43142.diarynote.jp/201505201630381899/ 映画

<今日の、公園>
 1本目は10時からで、2本目は11時ちょいから。朝のラッシュと重なるのがイヤで、風もなく寒さを感じなかったので、歩いて映画館に向かう。どちらの上映も、入場者の数は10人ほどだった。やはりこういう時期(今日の東京の感染者数は過去最多、12000人越え)である影響もあるか。帰り、向かいの宮下公園の建物(マニアックな品揃えではないが、ヴァイナルのレコード店もあった)や公園機能を与えられた屋上をゆったり散策。人がまばらなので、OKと判断した。食事は百貨店のレストラン・フロアに行く。そちらのほうが安心して食べることができそうな気がしたからだ。がらがら。昼ビール、うしし。気を使いつつ、こういう行動が制限されないことを切に願う。飲食店もそうだが、音楽ライヴやそれにつながるヴェニューなどにまたしわ寄せが出てきていて、本当にキブンが重い。
 映画の話に戻るが、『モンク・イン・ヨーロッパ』を見るとそこそこ予算も潤沢だったツアーではないかと思えた。撮影するギャラも上乗せされたか、それゆえ管楽器奏者を連れて行くことができたのかもしれない(もしくは、欧州側のリクエスト?)。モンクをはじめ、身内を同行させていたミュージシャンもいたような。飛行機内のモンクも終盤出くるが、それは座席背もたれの厚さからビジネス・クラスの席であるように見えた。ホテル自室における映像には、彼がベッドに寝っころがって白人のホテル・マンにルーム・サーヴィスの品をいろいろ問いながら頼むシーンがあった。ふむ。当時その少し前まで「The Negro Motorist Green Book」が発行されていた米国から逃げ出すアフリカ系ジャズ・ミュージシャンがいるのも当然至極だと、それを見て思った。
▶︎過去の、映画『グリーンブック』
https://43142.diarynote.jp/201901301508232449/

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