英ウェールズのロック・トリオであるバッジーのリード・ヴォーカリスト/ベーシストであった、バーク・シェリーが亡くなった。クリームに触発されて結成したようなノリもなくはないセルフ・タイトル作(Kapp/MCA、1971年)でデビューし、かなり確かなソングライティング能力も有しており、1970年代にぼくはけっこう彼らを聞いていた。同じ編成ということもあり、グランドファンク・レイルロードの英国版みたいな印象も持っていたかな。曲作りは、バッジーの方が基本勝っていた。そんな彼らはドキュメンタリー映画にもなったウェールズにある宿泊型の英国著名スタジオであるロックフィールド(現在も稼働中で有名バンドがいろいろ使っている同スタジオは『Rockfield:The Studio on the Farm』という2020年英国映画にもなった。それ、2013年米国映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』が引き金となり作られたよう。1月下旬より日本公開もされる)の70年代の際たる顧客バンドでもあった。また、彼らは当初からアーティスト写真ではなくイラストレーションをジャケット・カヴァーに使用していたが、その2作目と3作目はロジャー・ディーンが担当していた。

 ピックでベースを弾きながら、高めの歌声で歌った人物。結成いらい、少し休止期などはあったものの、唯一バンドに関わり続けた“ミスター・バッジー”。ではあったが、2010年にツアーでポーランドを訪れた際に大動脈瘤で倒れ、その後バッジーは活動休止に追い込まれた。晩年にはスティックラー症候群も患い、シェリーはウェールズ・カーディフの大学病院で息を引き取った。

▶︎過去の、映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』
https://43142.diarynote.jp/201406270933515875/

 また、“1960年代型バッド・ガール”のアイコン的存在であるシンガーのロニー・スペクターもお亡くなりになった。アフリカ系とチェロキーの血を引く母親とアイルランド系アメリカ人の父親のもとマンハッタンのワシントン・ハイツでベロニカ・イヴェット・ベネットとして誕生。子供のころから姉や従姉妹と歌い始め、それはガールズ・グループのザ・ロネッツへと繋がる。

 1961年にコルピクッスと解約したもののヒットには結びつかなかったが、1963年にフィル・スペクターのフィルズと契約することで状況は一転し、ロネッツは人気グループとなる。特にロネッツの中央に立った彼女は印象的なルックス/雰囲気とともに多大な注目を獲得。その影響力は、1980年代のマドンナのよう、と指摘することも可能か。あのティナー・ターナーもロニーの外見には影響を受けたんじゃないか。彼女たちは英国でも絶大な支持を得た。また、ザ・ビートルズのアメリカ・ツアーの前座も務めたこともあったはずだ。全米2位に輝いた「ビー・マイ・ベイビー」をはじめ、その多くの作曲/制作はフィル・スペクターだった。

 ロネッツは1967年に解散し、フィルとロニーは翌年に正式に結婚。とはいえ、二人の関係はその前からあり、65年まではフィルは既婚者だった。1972年にロニーは命からがらフィルのビヴァリー・ヒルズ邸宅から逃げ出し、後に離婚する。フィルは最大級にロニーの復帰を邪魔し、ロネッツ時代の印税支払いを拒否したとも伝えられる。ロニーの1971年発売シングルは、フィル流れでザ・ビートルズのアップルからだった。また、一時はロネッツも彼女以外は新メンバーで再結成したものの、基本ソロとしてゆったり活動。1980年から2016年にかけて、彼女は4枚のリーダー作を出している。

 1982年にはマネージャーをしていた人物と結婚した彼女は音楽外のところで、とてもクールに振る舞ったという印象も得る。フィル・スペクターが亡くなった際のSNSの投稿文章もそうだったが、彼女はネイティヴ・アメリカンの教育支援をはじめ、社会活動にもあたったようだ。

▶︎過去の、フィル・スペクターの訃報
https://43142.diarynote.jp/202101181437145267/

<今日の、うずき>
 なんとなく、なぜかしらうずうず。ふむ。これは感染者増大(今日は、3000人代超え)していて、またいろいろ行動制限が打ち出されそうと思ってしまうからか。音楽に関する〜他のことも同様だが、これがぼくと一番密接に関わることだから。皆、自分と身近なことから考え、声を上げるといいのだ〜こと、これ以上日常に負荷がかかってしまうのは、、、。なんか、どこかでポジティヴになっていることと、それはつながると都合良く解釈しておこう。

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