R.I.P.カルヴィン・サイモン(1942年5月22日〜2022年1月6日)。同コーディ・チェイソン(1985年12月4日〜1月8日)。吾妻光良&The Swinging Boppers
2022年1月8日 音楽 P-ファンクのオリジナル・シンガーの一人であったカルヴィン・サイモンの訃報が届いている。甲状腺がんを患ったこともあったようだ。
ウェスト・ヴァージニア州ベックリーの生まれ、当然教会で歌っている。13歳のときに家族でニュージャージー州に引っ越したことが、大きな転機となるか。1950年代後期に同州プレインフィールドのジョージ・クリントン(2002年7月28日、2009年9月5日、2011年1月22日、2013年4月12日、2015年4月12日、2016年11月29日、2019年4月30日)が働いていた床屋に出入りして、一緒にドゥーワップをするようになった。5人組で、それがオリジナル・パーラメンツだった。1960年代中期にはパーラメンツ(後にパーラメントとなる)はデトロイトに拠点を移し、1966年には「(アイ・ワナ・)テスティファイ」(Revilot)というシングルがヒット。だが、1967年にカルヴィンは徴兵され、ヴェトナムに派遣された。除隊後、再びクリントンたちに合流。そのときはコーラス・グループではなくサイケデリックなバンドに変わろうとしていた時期で、そこでカルヴィンはヴェトナム派遣で陥ったPTSDのうさを晴らしたという記載も認められる。
ともあれ、パーラメント/ファンカデリックのアルバム群にカルヴィンはシンガーとして名前を連ねた。数々の黄金期の名作に関与したが、1970年代後期にギャラの問題でP-ファンクを脱退。そして、一緒に抜けたファジー・ハスキンスとグラディ・トーマスの3人で、1980年にファンカデリック名義の『Who’s a Funkadelic?』(Lax)をリリース。それは、3人とともにザ・ファミリー・ストーンのグレッグ・エリコがプロデューサーとして入っていた。その動きは、とうぜん法廷闘争を生んだ。しかし、その“当てつけP”はその後も続けられたようだ。
いつごろからか、彼は生まれ故郷のウェスト・ヴァージニア州ベックリーに戻り、ゴスペル・シンガーとして活動する。2000年代に入ると、自己レーベルであるSimon Sayz Recordingを設立し、コンテンポラリー(で、ときにファンキーな)な味付けのアルバムも出している。そうなってからの写真はとってもエスタブリッシュされた紳士という感じで、なかなかいい感じだ。それは、少し高めでたっぷりした喉にも合っている。そして、1970年代のイカれた風体の写真群を見ると、人生って楽しいなあと思わずにはいられない。
▶過去の、ジョージ・クリントン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm 触れていないが、フジ・ロック
http://43142.diarynote.jp/?day=20090905
http://43142.diarynote.jp/201102081256005311/
http://43142.diarynote.jp/201304150853287353/
http://43142.diarynote.jp/201504131109395934/
https://43142.diarynote.jp/201612011925201175/
https://43142.diarynote.jp/201905010724461038/
カナダ東海岸のケルト系3人組であるザ・イースト・ポインターズ(2018年12月7日、2018年12月8日)のコーディ・チェイソンの訃報が届いた。享年、37。死因は不明。昨年12月中旬までライヴをしており、開けて2月から英米のツアーが入っていた。
ザ・イースト・ポインターズは、フィドルとリード・ヴォーカルとストンプ音のティム・チェイソン、テナー・バンジョーのコーディ・チェイソン、そしてギターとキーボードと口琴のジェイク・シャロンからなる。以下は来日した際、2018年12月5日にしたインタヴューの抜粋である。コーディの奥さんはオーストラリア人で、新年は豪州で迎えることが多いとも、彼はその際に言っていた。ナイス・ガイ、でした。
——ティムとコーディは同じ地区の出身なんですよね?
ティム「プリンス・エドワード島さ。従兄弟同士だよ」
コーディ「ジェイクは、モントリオール。だから、彼はシティ・ボーイだね」
——みなさん、同年代ですか。
ティム「うん。コーディが昨日誕生日だったんだ」
——3人ともケルトの家系なのでしょうか?
コーディ「そうだね。プリンス・エドワード島はスコットランドから来た人が多く、レパートリー的にもスコットランドの曲が多いよね。あとは、フランスの影響を受けたケルトの音楽もやるし、アイルランドの音楽もやる」
ジェイク「俺もそう。3人とも、苗字はフランスぽいんだけどね(笑い)」
——子供の頃から、代々受け継いできたトラッドをやっていたわけですか?
ティム「だよね。世代を超えて伝えられてきた音楽を聞いて育った。その後、コンテンポラリーな音楽も聞くようになって、いま僕が披露している曲や歌は昔から好きだったものと新たに好きになったものの組み合わせと言えるな」
——当然、ロックも聞いて来ていますよね。
コーディ「俺はペイン・キラー(ジョン・ゾーン主導のハード・コア・バンド)が好きだった。妹たちはパンクを聞いていたりと、いろんなものに接してきたな」
ティム「俺は親父がトラッドが好きで、母親はザ・ビーチ・ボーイズやザ・ビートルズが好きだったので、お母さんといるときはそういうのを聞き、父親といるときにはトラッドに親しんだ。まあ、そういう世代なんだよね」
ジェイク「俺も似たようなもの。父はトラッドを聴いていたけど、俺はラジオからかかるポップ・ミュージックやヒップホップを楽しんでいた。」
——あなたたちの外見を見て、誰もトラッドをやる人たちとは思わないと思います。そして、それはあなたたちの音楽に表れていると思います。ストンプ音を強調したり、ヴォーカル曲はシンガー・ソングライター的なメロディがあったりと…。
ジェイク「いやいや、最初はトラッドのダンス・チューンとかやっていたんだよ(笑い)」
コーディ「バンドとして機能し始めたのは4年半ほど前からだね。そのころ、みんなでダンス・チューンを演奏するのが楽しくてしょうがなく、みんな他者の伴奏しかしていなくて、クリエイティヴな曲を作るということをしていなかった。そこに、ティム主導でシンガー・ソングライター的な要素を入れる一環で、ザ・イースト・ポインターズとして曲を作るということに目覚めた。それが、俺たちの出発点だ」
——みんな、トラッドとポップ・ミュージックの2本立てで楽しむというノリだったんですか。
ティム「トラッドは外ではなく、家でやるという感じかな。他の友達は普通にポップ・ミュージックを聞いていたよな。でも、俺たちの周辺には従兄弟が120人いたからね(笑い)」
コーディ「大勢の従兄弟が狭い街にみんな住んでいて、みんな同じ学校に行く。学校の友達=皆んな親戚、みたいな場所だった。そんな地縁の強い環境だったので、僕たちにとってトラッドをやるのは当たり前だったんだ。でも、一方では親戚じゃない友達もいるので、普通の音楽で盛り上がることもしていた」
ジェイク「俺が住んでいた環境はそれとは違うんだけど、彼らと出会い、全然違う所に住んでいるのに、同じような音楽享受の様をしているんだと思った。長く離れていた親戚に出会ったと思ったな」
——このバンド名の由来を教えてください。
コーディ「僕とティムが育った近くにあるコミュニティの名前だね。よくロブスターを釣っていたんだ。港があり、マグロで有名。日本の買い付け業者もたくさん来ている」
——そもそも、この3人でやろうという理由は?
ティム「ミュージック・キャンプがあって、毎年そこで教えていて、ジェイクともそこで知り合った。それで、何年か前に3人で延々とチューンを演奏したことがあって、しっくりきたんだ。これは楽しいっ、これはバンドとして行くべきだと思った」
——ファースト作『Secret Victory』(The East Poiters)のことは、今どう捉えていますか?
ジェイク「今となっては、過去のもの。俺たちは成長し、上を俺らは目指している」
——では、今作『ホワット・ウィ・リーヴ・ビハインド』(同/プランクトン)は?
コーディ「これは自信作! 満足している。今、ライヴでここの曲をやると毎度ワクワクするな。それは嘘のないものを作ったからだと思う。毎晩、楽しんでやれるというのが、その証拠だよね」
——『ホワット・ウィ・リーヴ・ビハインド』はビート感とメロディ性にあふれた新世代のトラッド音楽たらんとする意思が結晶した仕上がりを見せています。そのプロデュースを、ウィリー・ネルソンやボン・ジョヴィなどにも曲を提供しているコーディ・サンプソンがしていますが。
コーディ「そもそも、彼も友達だった。プロデューサーとしてもソングライターとしても、俺たちは彼のことが大好き。トラッドの背景も持ち、アメリカの大スターにも曲を提供していて、その二つの世界を股にかけているところが、俺たちにぴったりだった。彼はグラミー賞も受けているしね」
——彼はどこに住んでいるんですか?
ティム「ナッシュヴィル。彼には10代のときに、僕のレコーディグで彼のスタジオを使わせてもらったことがあった。彼はケイプ・ブレトンの出身で、彼もまたケルト系なんだ」
——コーディ・サンプソンはバンドにどんなものを持ち込みました?
ジェイク「とにかく、バランス感覚に優れている。前にも出てくるけど、引くところは引く。そして、押し付けることなく、俺たちのいいところを引き出してくれるんだ」
ティム「彼は本当に気持ちよく、やらせてくれるよね」
コーディ「落ち着いて作業ができる。サウンド・エムポリアムというナッシュヴィルの有名なスタジオで録ったんだけど、そこで録って悪いものになるはずがない。テイラー・スィフト、ケニー・ロジャース、アラバマ・シェイクスとかもそこでレコーディングしているよ」
ティム「ナッシュヴィルという街からも、インスパイアされていると思う。音楽スポット、そのものという感じの街だからね」
——コーディ・サンプソンとやる事で、もっと聞き手のパイをひろげようという意図はありましたか。
ティム「もちろん。最終的な目標として、カナダ東海岸のトラッドに多くの人が目を向けてほしいという思いがあるからね。今回のアルバムもスポティファイで聞いた人がアレレと感じ、こっちに興味をもってくれたらうれしい。もちろん次作も彼にプロデュースを頼みたいな(3作目の『Yours to Break』は実際そうなった)」
——日本は今回が初来日となりますが、いろんな国に行っているんですよね?
コーディ「たくさん、行っている。アフリカはさすがに行っていないけど。日本でケルト音楽がこんなに人気があるとは思いもよらず、とても光栄に思っている」
ティム「スペインのガリシアは興味深かった。本では知っていたんだけど、すごい感興を俺は受けた」
——外に出て得たものというのは、今作にも反映されています?
コーディ「間違いなくある。例えば“82ファイアーズ”はタスマニアのことを題材にしている。オーストラリアに行ったときに山火事が頻発していて、演奏する街は警戒状況にあったりし、それが引き金となっている」
ジェイソン「昨年は忙しかったよなー。10ヶ月、旅していたもの。だけど、今回日本で得ることができた感銘を味わってしまうとやめられないよね」
▶︎過去の、ザ・イースト・ポインターズ/コーディ・チェイソン
https://43142.diarynote.jp/201812081040285928/
https://43142.diarynote.jp/201812091225184437/
六本木・ビルボードライブ東京で、吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)率いる、ラージ・コンボを見る。18時からの、セカンド・ショウ。ファーストとは、正月を題材にした1曲以外、かぶらないように曲披露したようだ。https://43142.diarynote.jp/202108120849088289/ の欄外で触れているように吾妻は退職してげんざい晴れてご隠居の身。しかし、今日は土曜日。2月5日にはビルボードライヴ横浜でも彼のショウが予定されているが、それも土曜日。まだ、会社員をしているメンバーがいるのかな。
バンドは管楽器8人、ピアノ(少しピアニカも)、ダブル・ベース、ドラム。多くは初老の方々、そりゃ大学卒業時に仲間たちでシャレで組んだのがグループの発端であるので、みんな年寄りにはなるよな。そんな陣容で、デューク・エリントンの「昔は良かったね」を演奏したあとに、ギターを弾きながら吾妻が出てきて、まずはステージに上がらず、客席フロアの前を動いてソロをとる。はは。滑舌が悪く横の方から見ていたぼくにはぐだぐだ話すMCはあまり魅力的とは思えなかったんだが、黒人音楽にある大切な諧謔の表れではあるわけで……。って、それはオリジナルや日本語歌詞をつけたブルース・スタンダードの内容に十全に出ているか。ぼくは彼が名文家であるとも思っているが、それもブルース愛好が導いているよな。吾妻は要介護なボケ仕草も取ったりして、笑いを誘う。
2曲目は、2019年ソニー盤『Scheduled by the Budget』収録のラップも少し入る「ご機嫌目盛 」。合いの手の声はやはり、アルト・サックス奏者の渡辺康蔵(2014年1月25日)であったか。ドラムの岡地曙裕(2005年6月16日、他)は力の限りと言いたくなるほど、強い語調でスネアを叩いていた。でも、厚いホーン音の屋台骨としては適切。いい感じであった。
ブルースやジャズを等価に置いてかき回したようなジャンプ・ミュージックを、手を変え品をかえ、ユーモラスに送り出す。一頃よりジャジーになっている部分もあるか。でも、それだと手弾きによるトリッキーな吾妻のギター・ソロは映える。こういう場であると、より総合的なエンターテインメント性も出ているとも感じた。お尻から声が出ているような吾妻の歌は、よく言えばサッチモ的。<確かな音楽知見>と<マニアックな嗜好>と<シャレのめし>、そうした要件が交錯しあう彼らの表現は知的と書くと離れるかもしれないが、クールなものであることは間違いない。だから、ぼくは早く彼らが海外に出た姿、そして触れた人の反応を見たいのだ。この日の評は日経新聞2月2日夕刊に出る予定、だからここでは核心をボカす形で書いておく。
<今日の、追記>
米国映画界最大のアフリカ系俳優であるシドニー・ポワチエ(1927年2月20日〜2022年1月6日)もお亡くなりになった。母親がマイアミに来たときに生まれ、少年期までは両親が住むバハマで育ち、10代半ばで米国に渡った。当初は、たいそう苦労したらしい。映画にそれほど明るくないぼくでも少年のころから知っていた大俳優、白いハリウッドで最初に主役を張った際たる先駆者だった。
ウェスト・ヴァージニア州ベックリーの生まれ、当然教会で歌っている。13歳のときに家族でニュージャージー州に引っ越したことが、大きな転機となるか。1950年代後期に同州プレインフィールドのジョージ・クリントン(2002年7月28日、2009年9月5日、2011年1月22日、2013年4月12日、2015年4月12日、2016年11月29日、2019年4月30日)が働いていた床屋に出入りして、一緒にドゥーワップをするようになった。5人組で、それがオリジナル・パーラメンツだった。1960年代中期にはパーラメンツ(後にパーラメントとなる)はデトロイトに拠点を移し、1966年には「(アイ・ワナ・)テスティファイ」(Revilot)というシングルがヒット。だが、1967年にカルヴィンは徴兵され、ヴェトナムに派遣された。除隊後、再びクリントンたちに合流。そのときはコーラス・グループではなくサイケデリックなバンドに変わろうとしていた時期で、そこでカルヴィンはヴェトナム派遣で陥ったPTSDのうさを晴らしたという記載も認められる。
ともあれ、パーラメント/ファンカデリックのアルバム群にカルヴィンはシンガーとして名前を連ねた。数々の黄金期の名作に関与したが、1970年代後期にギャラの問題でP-ファンクを脱退。そして、一緒に抜けたファジー・ハスキンスとグラディ・トーマスの3人で、1980年にファンカデリック名義の『Who’s a Funkadelic?』(Lax)をリリース。それは、3人とともにザ・ファミリー・ストーンのグレッグ・エリコがプロデューサーとして入っていた。その動きは、とうぜん法廷闘争を生んだ。しかし、その“当てつけP”はその後も続けられたようだ。
いつごろからか、彼は生まれ故郷のウェスト・ヴァージニア州ベックリーに戻り、ゴスペル・シンガーとして活動する。2000年代に入ると、自己レーベルであるSimon Sayz Recordingを設立し、コンテンポラリー(で、ときにファンキーな)な味付けのアルバムも出している。そうなってからの写真はとってもエスタブリッシュされた紳士という感じで、なかなかいい感じだ。それは、少し高めでたっぷりした喉にも合っている。そして、1970年代のイカれた風体の写真群を見ると、人生って楽しいなあと思わずにはいられない。
▶過去の、ジョージ・クリントン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2002-7.htm 触れていないが、フジ・ロック
http://43142.diarynote.jp/?day=20090905
http://43142.diarynote.jp/201102081256005311/
http://43142.diarynote.jp/201304150853287353/
http://43142.diarynote.jp/201504131109395934/
https://43142.diarynote.jp/201612011925201175/
https://43142.diarynote.jp/201905010724461038/
カナダ東海岸のケルト系3人組であるザ・イースト・ポインターズ(2018年12月7日、2018年12月8日)のコーディ・チェイソンの訃報が届いた。享年、37。死因は不明。昨年12月中旬までライヴをしており、開けて2月から英米のツアーが入っていた。
ザ・イースト・ポインターズは、フィドルとリード・ヴォーカルとストンプ音のティム・チェイソン、テナー・バンジョーのコーディ・チェイソン、そしてギターとキーボードと口琴のジェイク・シャロンからなる。以下は来日した際、2018年12月5日にしたインタヴューの抜粋である。コーディの奥さんはオーストラリア人で、新年は豪州で迎えることが多いとも、彼はその際に言っていた。ナイス・ガイ、でした。
——ティムとコーディは同じ地区の出身なんですよね?
ティム「プリンス・エドワード島さ。従兄弟同士だよ」
コーディ「ジェイクは、モントリオール。だから、彼はシティ・ボーイだね」
——みなさん、同年代ですか。
ティム「うん。コーディが昨日誕生日だったんだ」
——3人ともケルトの家系なのでしょうか?
コーディ「そうだね。プリンス・エドワード島はスコットランドから来た人が多く、レパートリー的にもスコットランドの曲が多いよね。あとは、フランスの影響を受けたケルトの音楽もやるし、アイルランドの音楽もやる」
ジェイク「俺もそう。3人とも、苗字はフランスぽいんだけどね(笑い)」
——子供の頃から、代々受け継いできたトラッドをやっていたわけですか?
ティム「だよね。世代を超えて伝えられてきた音楽を聞いて育った。その後、コンテンポラリーな音楽も聞くようになって、いま僕が披露している曲や歌は昔から好きだったものと新たに好きになったものの組み合わせと言えるな」
——当然、ロックも聞いて来ていますよね。
コーディ「俺はペイン・キラー(ジョン・ゾーン主導のハード・コア・バンド)が好きだった。妹たちはパンクを聞いていたりと、いろんなものに接してきたな」
ティム「俺は親父がトラッドが好きで、母親はザ・ビーチ・ボーイズやザ・ビートルズが好きだったので、お母さんといるときはそういうのを聞き、父親といるときにはトラッドに親しんだ。まあ、そういう世代なんだよね」
ジェイク「俺も似たようなもの。父はトラッドを聴いていたけど、俺はラジオからかかるポップ・ミュージックやヒップホップを楽しんでいた。」
——あなたたちの外見を見て、誰もトラッドをやる人たちとは思わないと思います。そして、それはあなたたちの音楽に表れていると思います。ストンプ音を強調したり、ヴォーカル曲はシンガー・ソングライター的なメロディがあったりと…。
ジェイク「いやいや、最初はトラッドのダンス・チューンとかやっていたんだよ(笑い)」
コーディ「バンドとして機能し始めたのは4年半ほど前からだね。そのころ、みんなでダンス・チューンを演奏するのが楽しくてしょうがなく、みんな他者の伴奏しかしていなくて、クリエイティヴな曲を作るということをしていなかった。そこに、ティム主導でシンガー・ソングライター的な要素を入れる一環で、ザ・イースト・ポインターズとして曲を作るということに目覚めた。それが、俺たちの出発点だ」
——みんな、トラッドとポップ・ミュージックの2本立てで楽しむというノリだったんですか。
ティム「トラッドは外ではなく、家でやるという感じかな。他の友達は普通にポップ・ミュージックを聞いていたよな。でも、俺たちの周辺には従兄弟が120人いたからね(笑い)」
コーディ「大勢の従兄弟が狭い街にみんな住んでいて、みんな同じ学校に行く。学校の友達=皆んな親戚、みたいな場所だった。そんな地縁の強い環境だったので、僕たちにとってトラッドをやるのは当たり前だったんだ。でも、一方では親戚じゃない友達もいるので、普通の音楽で盛り上がることもしていた」
ジェイク「俺が住んでいた環境はそれとは違うんだけど、彼らと出会い、全然違う所に住んでいるのに、同じような音楽享受の様をしているんだと思った。長く離れていた親戚に出会ったと思ったな」
——このバンド名の由来を教えてください。
コーディ「僕とティムが育った近くにあるコミュニティの名前だね。よくロブスターを釣っていたんだ。港があり、マグロで有名。日本の買い付け業者もたくさん来ている」
——そもそも、この3人でやろうという理由は?
ティム「ミュージック・キャンプがあって、毎年そこで教えていて、ジェイクともそこで知り合った。それで、何年か前に3人で延々とチューンを演奏したことがあって、しっくりきたんだ。これは楽しいっ、これはバンドとして行くべきだと思った」
——ファースト作『Secret Victory』(The East Poiters)のことは、今どう捉えていますか?
ジェイク「今となっては、過去のもの。俺たちは成長し、上を俺らは目指している」
——では、今作『ホワット・ウィ・リーヴ・ビハインド』(同/プランクトン)は?
コーディ「これは自信作! 満足している。今、ライヴでここの曲をやると毎度ワクワクするな。それは嘘のないものを作ったからだと思う。毎晩、楽しんでやれるというのが、その証拠だよね」
——『ホワット・ウィ・リーヴ・ビハインド』はビート感とメロディ性にあふれた新世代のトラッド音楽たらんとする意思が結晶した仕上がりを見せています。そのプロデュースを、ウィリー・ネルソンやボン・ジョヴィなどにも曲を提供しているコーディ・サンプソンがしていますが。
コーディ「そもそも、彼も友達だった。プロデューサーとしてもソングライターとしても、俺たちは彼のことが大好き。トラッドの背景も持ち、アメリカの大スターにも曲を提供していて、その二つの世界を股にかけているところが、俺たちにぴったりだった。彼はグラミー賞も受けているしね」
——彼はどこに住んでいるんですか?
ティム「ナッシュヴィル。彼には10代のときに、僕のレコーディグで彼のスタジオを使わせてもらったことがあった。彼はケイプ・ブレトンの出身で、彼もまたケルト系なんだ」
——コーディ・サンプソンはバンドにどんなものを持ち込みました?
ジェイク「とにかく、バランス感覚に優れている。前にも出てくるけど、引くところは引く。そして、押し付けることなく、俺たちのいいところを引き出してくれるんだ」
ティム「彼は本当に気持ちよく、やらせてくれるよね」
コーディ「落ち着いて作業ができる。サウンド・エムポリアムというナッシュヴィルの有名なスタジオで録ったんだけど、そこで録って悪いものになるはずがない。テイラー・スィフト、ケニー・ロジャース、アラバマ・シェイクスとかもそこでレコーディングしているよ」
ティム「ナッシュヴィルという街からも、インスパイアされていると思う。音楽スポット、そのものという感じの街だからね」
——コーディ・サンプソンとやる事で、もっと聞き手のパイをひろげようという意図はありましたか。
ティム「もちろん。最終的な目標として、カナダ東海岸のトラッドに多くの人が目を向けてほしいという思いがあるからね。今回のアルバムもスポティファイで聞いた人がアレレと感じ、こっちに興味をもってくれたらうれしい。もちろん次作も彼にプロデュースを頼みたいな(3作目の『Yours to Break』は実際そうなった)」
——日本は今回が初来日となりますが、いろんな国に行っているんですよね?
コーディ「たくさん、行っている。アフリカはさすがに行っていないけど。日本でケルト音楽がこんなに人気があるとは思いもよらず、とても光栄に思っている」
ティム「スペインのガリシアは興味深かった。本では知っていたんだけど、すごい感興を俺は受けた」
——外に出て得たものというのは、今作にも反映されています?
コーディ「間違いなくある。例えば“82ファイアーズ”はタスマニアのことを題材にしている。オーストラリアに行ったときに山火事が頻発していて、演奏する街は警戒状況にあったりし、それが引き金となっている」
ジェイソン「昨年は忙しかったよなー。10ヶ月、旅していたもの。だけど、今回日本で得ることができた感銘を味わってしまうとやめられないよね」
▶︎過去の、ザ・イースト・ポインターズ/コーディ・チェイソン
https://43142.diarynote.jp/201812081040285928/
https://43142.diarynote.jp/201812091225184437/
六本木・ビルボードライブ東京で、吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)率いる、ラージ・コンボを見る。18時からの、セカンド・ショウ。ファーストとは、正月を題材にした1曲以外、かぶらないように曲披露したようだ。https://43142.diarynote.jp/202108120849088289/ の欄外で触れているように吾妻は退職してげんざい晴れてご隠居の身。しかし、今日は土曜日。2月5日にはビルボードライヴ横浜でも彼のショウが予定されているが、それも土曜日。まだ、会社員をしているメンバーがいるのかな。
バンドは管楽器8人、ピアノ(少しピアニカも)、ダブル・ベース、ドラム。多くは初老の方々、そりゃ大学卒業時に仲間たちでシャレで組んだのがグループの発端であるので、みんな年寄りにはなるよな。そんな陣容で、デューク・エリントンの「昔は良かったね」を演奏したあとに、ギターを弾きながら吾妻が出てきて、まずはステージに上がらず、客席フロアの前を動いてソロをとる。はは。滑舌が悪く横の方から見ていたぼくにはぐだぐだ話すMCはあまり魅力的とは思えなかったんだが、黒人音楽にある大切な諧謔の表れではあるわけで……。って、それはオリジナルや日本語歌詞をつけたブルース・スタンダードの内容に十全に出ているか。ぼくは彼が名文家であるとも思っているが、それもブルース愛好が導いているよな。吾妻は要介護なボケ仕草も取ったりして、笑いを誘う。
2曲目は、2019年ソニー盤『Scheduled by the Budget』収録のラップも少し入る「ご機嫌目盛 」。合いの手の声はやはり、アルト・サックス奏者の渡辺康蔵(2014年1月25日)であったか。ドラムの岡地曙裕(2005年6月16日、他)は力の限りと言いたくなるほど、強い語調でスネアを叩いていた。でも、厚いホーン音の屋台骨としては適切。いい感じであった。
ブルースやジャズを等価に置いてかき回したようなジャンプ・ミュージックを、手を変え品をかえ、ユーモラスに送り出す。一頃よりジャジーになっている部分もあるか。でも、それだと手弾きによるトリッキーな吾妻のギター・ソロは映える。こういう場であると、より総合的なエンターテインメント性も出ているとも感じた。お尻から声が出ているような吾妻の歌は、よく言えばサッチモ的。<確かな音楽知見>と<マニアックな嗜好>と<シャレのめし>、そうした要件が交錯しあう彼らの表現は知的と書くと離れるかもしれないが、クールなものであることは間違いない。だから、ぼくは早く彼らが海外に出た姿、そして触れた人の反応を見たいのだ。この日の評は日経新聞2月2日夕刊に出る予定、だからここでは核心をボカす形で書いておく。
<今日の、追記>
米国映画界最大のアフリカ系俳優であるシドニー・ポワチエ(1927年2月20日〜2022年1月6日)もお亡くなりになった。母親がマイアミに来たときに生まれ、少年期までは両親が住むバハマで育ち、10代半ばで米国に渡った。当初は、たいそう苦労したらしい。映画にそれほど明るくないぼくでも少年のころから知っていた大俳優、白いハリウッドで最初に主役を張った際たる先駆者だった。
コメント