R.I.P.ビル・コンウェイ(?〜2021年12月19日)
2021年12月22日 音楽 訃報を受け、懐かしい、クールな汚れや捩れを抱えたロック・バンドを思い出した……。トリート・ハー・ライト、そしてモーフィンのドラマーだったビリー・コンウェイが肝臓癌でお亡くなりになった。2014年に発病、一進一退という感じで闘病していたという。享年、65。
ミネソタ州オワトナの生まれ。そこはアダム・ヤングが生まれ、彼のアウル・シティ(2009年11月24日)が結成された中西部の街としても知られる。高校卒業後、コンウェイはアイビー・リーグのイェール大学に進み心理学を専攻。バンドを組んでいたが、寒いオワトナはアイス・ホッケーが盛んだったため、同大のアイス・ホッケーの選手としても活躍した。
大学卒業後、彼はボストンの中学でカウンセラーとして働き出したが、1985年にイェール時代のバンド仲間であるハーモニカ奏者のジム・フィッティング、ベースのマーク・サンドマン、スライド・バーを多用するギタリストのデイヴィッド・シャンペインと、白人ブルース・バンド(いろいろアイデアあり)のトリート・ハー・ライトを結成する。その1989年リリースの2作目『Tied To The Tracks』はメジャーのRCAから発表され、キャプテン・ビーフハートのカヴァーも収められていた。また、次作はラウンダーからリリースされた。そこで、コンウェイは変則キットを用いてパッションを得ていた。
1998年にサンドマンは、バリトン・サックス奏者のダナ・コリーとドラマーのジェローム・デュプリと変則トリオ編成のモーフィンを結成。サンドマンは2〜3弦のスライド・ベースを弾きながら歌い、バリトン・サックスとの重なりを利した彼らの表現は“ロウ・ロック”と呼ばれたりもする。その楽器編成は、ギター2本とドラマーというベースレス編成のトリオでことにあたるジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン(2000年8月5日、2004年7月14日、2004年12月13日)とともに、変則編成だからこそ突出するロックを作り出せるという当時の真理を教えてくれるバンドとして、ぼくの頭のなかに刻まれた。
コンウェイのことに話を戻るが、ジェローム・デュプリがモーフィンを脱退したため、1993年に彼はモーフィンに加入。セールスも出て、モーフィンがオルタナティヴ・ロック界の重要バンドとなったのは彼が入ってからだった。ライコディスクやドリームワークスから数枚のアルバムをリリース。残念ながら、1999年にマーク・サンドマンがモーフィンのイタリア公演中に心臓発作で亡くなってしまう(1952年9月24日〜1999年7月3日)。だが、コンウェイとコリーはその意思を継ぐバンドをするとともに、二人は女性シンガーのローリー・サージェントを迎えたトゥインメンというバンドを組み、そちらはジャム・バンド・ミュジックの層にも受け、山ほどのライヴ・アルバムを出している。サージェントとコンウェイは結婚したとも聞く。
カルト的な支持を得ていたトリート・ハー・ライトは2000年代を回ってから再結成され、そこにはコンウェイも参加していたが、彼が叩いた新作リリースを記念する2020年コンサートには体調不良で出演することができなかった。。結構ドラミングはシャープで、奥行きあり。経歴をチェックし直し、ボストンのオルタナティヴ・ロック界にしかと貢献した人であったのだなあと頷いた。
▶︎過去の、アウル・シティ
http://43142.diarynote.jp/200911261250221741/
▶︎ブルース・エクスプロージョン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm サマーソニック初日
https://43142.diarynote.jp/200407151608250000/
https://43142.diarynote.jp/200412212100580000/
<今日の、メモリー>
モーフィンは人気バンドであったので、日本にも何度もやってきている。1995年作『イエス』(ライコディスク)を出したおり、ぼくはモーフィンに一度インタヴューする機会を得た。その際、コンウェイはなんかインテリ崩れのくだけた表情がいい感じであったかな。サンドマンは写真が趣味だと言って、少し古めのカメラでぼくを撮ってくれた。そのモノクロームのポートレイトは大きくプリントされて、ぼくのもとに届いた。とかなんとか、けっこう忘れっぽいぼくではあるものの記憶に残っている人たちだ。
ミネソタ州オワトナの生まれ。そこはアダム・ヤングが生まれ、彼のアウル・シティ(2009年11月24日)が結成された中西部の街としても知られる。高校卒業後、コンウェイはアイビー・リーグのイェール大学に進み心理学を専攻。バンドを組んでいたが、寒いオワトナはアイス・ホッケーが盛んだったため、同大のアイス・ホッケーの選手としても活躍した。
大学卒業後、彼はボストンの中学でカウンセラーとして働き出したが、1985年にイェール時代のバンド仲間であるハーモニカ奏者のジム・フィッティング、ベースのマーク・サンドマン、スライド・バーを多用するギタリストのデイヴィッド・シャンペインと、白人ブルース・バンド(いろいろアイデアあり)のトリート・ハー・ライトを結成する。その1989年リリースの2作目『Tied To The Tracks』はメジャーのRCAから発表され、キャプテン・ビーフハートのカヴァーも収められていた。また、次作はラウンダーからリリースされた。そこで、コンウェイは変則キットを用いてパッションを得ていた。
1998年にサンドマンは、バリトン・サックス奏者のダナ・コリーとドラマーのジェローム・デュプリと変則トリオ編成のモーフィンを結成。サンドマンは2〜3弦のスライド・ベースを弾きながら歌い、バリトン・サックスとの重なりを利した彼らの表現は“ロウ・ロック”と呼ばれたりもする。その楽器編成は、ギター2本とドラマーというベースレス編成のトリオでことにあたるジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン(2000年8月5日、2004年7月14日、2004年12月13日)とともに、変則編成だからこそ突出するロックを作り出せるという当時の真理を教えてくれるバンドとして、ぼくの頭のなかに刻まれた。
コンウェイのことに話を戻るが、ジェローム・デュプリがモーフィンを脱退したため、1993年に彼はモーフィンに加入。セールスも出て、モーフィンがオルタナティヴ・ロック界の重要バンドとなったのは彼が入ってからだった。ライコディスクやドリームワークスから数枚のアルバムをリリース。残念ながら、1999年にマーク・サンドマンがモーフィンのイタリア公演中に心臓発作で亡くなってしまう(1952年9月24日〜1999年7月3日)。だが、コンウェイとコリーはその意思を継ぐバンドをするとともに、二人は女性シンガーのローリー・サージェントを迎えたトゥインメンというバンドを組み、そちらはジャム・バンド・ミュジックの層にも受け、山ほどのライヴ・アルバムを出している。サージェントとコンウェイは結婚したとも聞く。
カルト的な支持を得ていたトリート・ハー・ライトは2000年代を回ってから再結成され、そこにはコンウェイも参加していたが、彼が叩いた新作リリースを記念する2020年コンサートには体調不良で出演することができなかった。。結構ドラミングはシャープで、奥行きあり。経歴をチェックし直し、ボストンのオルタナティヴ・ロック界にしかと貢献した人であったのだなあと頷いた。
▶︎過去の、アウル・シティ
http://43142.diarynote.jp/200911261250221741/
▶︎ブルース・エクスプロージョン
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-8.htm サマーソニック初日
https://43142.diarynote.jp/200407151608250000/
https://43142.diarynote.jp/200412212100580000/
<今日の、メモリー>
モーフィンは人気バンドであったので、日本にも何度もやってきている。1995年作『イエス』(ライコディスク)を出したおり、ぼくはモーフィンに一度インタヴューする機会を得た。その際、コンウェイはなんかインテリ崩れのくだけた表情がいい感じであったかな。サンドマンは写真が趣味だと言って、少し古めのカメラでぼくを撮ってくれた。そのモノクロームのポートレイトは大きくプリントされて、ぼくのもとに届いた。とかなんとか、けっこう忘れっぽいぼくではあるものの記憶に残っている人たちだ。
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