R.I.P.マイク・ネスミス(1942年12月30日〜2021年12月10日)。中川五郎
2021年12月11日 音楽 ああ、ちゃんと歩みをチェックしなきゃと思っていたミュージシャンがまた死んでしまった。テキサス州ヒューストン生まれで高校中退で空軍に入り、除隊後に同州サンアントニオ大学に入るとともに音楽活動を始める。その後はロサンゼルスに渡り、作曲家として出版契約を得たりもした。そんなおり、20代半ばの彼はTV局が行ったアイドル・バンドのオーディションに合格する。それがザ・モンキーズで、目指すところはザ・ビートルズに対抗できるポップ・ロック・バンドをでっち上げ、毎週のTV番組とともに人気/上がりを得よう。ハリウッド系音楽裏方の冴えを集約もしたザ・モンキーズは見事に成功、確かに前に出た青年たちは操り人形ではあり、ザ・ビートルズの名前は断じて出せるものではないものの、娯楽性あるそのポップ・ロックは耳して全然イヤじゃない。
ギターや歌を担当したマイケル・ネスミスは、1965年から70年までザ・モンキーズに在籍。その後はより個人力をアピールする方向で活躍するわけだが、まずはカントリー・ロック的な指針を出すバンド活動に邁進したのをはじめ、その後はソウル味を出したり、剛性感の強いポップス盤を作ったり、レゲエ・ビートやファンキーなビートの効用に目を向けてみたり、なかにはリトル・フィート(2000年12月8日、2012年5月22日、2019年8月31日)を思わせる方向に出てみたりと、本当に多彩なことを彼らは思うまま差し出した。……そんなに詳しくないので、断片的に耳にした印象で書いておくが、確かな才能をアピールしていたのは間違いない。
そんな彼は1974年に自己レーベルのパシフック・アーツを設立したことがあった。また、おもしろいのは1980年に富豪になり、映画総指揮/制作の分野に討って出たり、小説家として本を複数出したりもしたこと。オフロード・レースに手を染めたこともあったか。ワーキング・マザーだったネスミスの母親はインク修正液“リキッド・ペイパー”の発明者。白色の液を塗り文字を消すリキッド・ペイパーはぼくも大昔に使ったことがあったが、母親の死により一人っ子であったネスミスは莫大な遺産を引き継いだのだった。アレックス・コックスのデビュー映画『レポ・マン』(1984年)やビル・フィッシュマン監督の『テープヘッズ』(1988年)は彼が仕切ったカルト人気を持つ作品だ。
再結成ザ・モンキーズにも参加もした彼は4回のバイパス手術を受けるなど心臓に障害を抱え、カリフォルニア州の自宅で心不全で息を引き取った。ネスミスは4回結婚した。
▶︎過去の、リトル・フィート
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-12.htm
http://43142.diarynote.jp/201205301327209613/
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/
https://43142.diarynote.jp/201911011701216748/ ポール・バレルの訃報
18時から渋谷・Li-Poで、自伝と言えるライフ・ストーリーやメッセージ・ソング送出者としての姿勢や覚悟を認めた「ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて 50 年」(平凡社)出版を受けての中川五郎(1999年8月9日、2004年2月1日、2005年6月17日、2017年9月12日)のトーク&ライヴのイヴェントなり。僭越ながら、1部の聞き手役を務める。40年近く前、五郎さんとは共に雑誌編集者をしていた頃からの知り合いで、ぼくは彼に音楽の原稿を頼み、フリーになってからは五郎さんもぼくと同様ライヴによく行く人だったので、ライヴ終了後は一緒に流れたりもした。ぼくは、ちゃらくしなやかで、甘えをスマートに出す←それは、強さの裏返しでもあるのだが、五郎さんが大好きだった。
ようは、彼が音楽家から一番離れていた時期に知り合い、交友を持ち、そして彼がもう一度原点に立ち返るかのように、ギター弾き語りのライヴをやり出し、その比重がどんどん増すとともに、自らのメッセージ・ソングのあり方を獲得していった流れを(そんなにライヴは見ていないが)ぼくは横で見たきたわけだ。というのはともかく、まあ五郎さんについてふと思っていた疑問や本を読んで感じたことを素直に聞いてみた。五郎さん、くだらない戯言を前ほど言わなくなったな。→それを後で指摘したら、だってああいう場だから、というような返事が返ってきた。
2部は、たっぷり中川五郎の弾き語り。ノー・マイクで、完全素のパフォーマンス。でも、まったく問題なし。このおりライヴの数は減っているはずだが、そっちのほうの能力や勘は落ちていないようだ。前半は古い曲をずらり〜とやる。彼の曲として有名な「受験生のブルース」はもともとボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に日本語歌詞を乗っけたものだそうで、それを披露。マイナー・キーで、なかなか陰湿な内容ね。そして、その後一般に知れるだろうどこかおどけた「受験生のブルース」もやる。また、50年ぶりに歌うと断った曲もあった。1970年代中期に発表された彼の代表曲「25年目のおっぱい」も披露し、ぼくは初めて同曲を聞く。ほう、こんな(技アリでもある)内容であったのか。エリック・アンダースン(2012年9月3日)の「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」の訳詞曲などは前にも聞いたことがあったかな。
後半は、徐々に今に近い曲をやったよう。まあ日本語訳詞曲は抵抗を覚えたりもするわけだが、はっきりとした語調で歌われる彼の歌はとにもかくにも歌詞がちゃんと聞き取れる。そして、彼はそれを空で、歌詞カードなど一切おかず、まっすぐにまっとうしたことには感心した。あっぱれ。やはり、彼は正のパフォーマーであり、その雄姿に触れて、歌詞カードを置く担い手はやはり外道だと再認識した。
▶︎過去の、中川五郎
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm
http://43142.diarynote.jp/200402051852240000/
http://43142.diarynote.jp/200506200011180000/
http://43142.diarynote.jp/201709130923483891/
▶︎過去の、エリック・アンダーソン
http://43142.diarynote.jp/201209181236296275/
<今日の、五郎さん>
すんごく久しぶりにあったが、それほど変わらず、元気そう。開演前から赤ワインを飲み始め、ライヴの最中もぐびぐび。終わってからも、ごくごく。安心した。そーいやあ後半には、「愛があれば年の差なんか」というベタな表題の曲も披露する。それも、なにより。彼は映画「トイ・ストーリーズ」テーマ曲(ランディ・ニューマン作)の日本語歌詞を作ったそうだが、それをやってと言ったら、歌詞を覚えていないとのことで却下された。
ギターや歌を担当したマイケル・ネスミスは、1965年から70年までザ・モンキーズに在籍。その後はより個人力をアピールする方向で活躍するわけだが、まずはカントリー・ロック的な指針を出すバンド活動に邁進したのをはじめ、その後はソウル味を出したり、剛性感の強いポップス盤を作ったり、レゲエ・ビートやファンキーなビートの効用に目を向けてみたり、なかにはリトル・フィート(2000年12月8日、2012年5月22日、2019年8月31日)を思わせる方向に出てみたりと、本当に多彩なことを彼らは思うまま差し出した。……そんなに詳しくないので、断片的に耳にした印象で書いておくが、確かな才能をアピールしていたのは間違いない。
そんな彼は1974年に自己レーベルのパシフック・アーツを設立したことがあった。また、おもしろいのは1980年に富豪になり、映画総指揮/制作の分野に討って出たり、小説家として本を複数出したりもしたこと。オフロード・レースに手を染めたこともあったか。ワーキング・マザーだったネスミスの母親はインク修正液“リキッド・ペイパー”の発明者。白色の液を塗り文字を消すリキッド・ペイパーはぼくも大昔に使ったことがあったが、母親の死により一人っ子であったネスミスは莫大な遺産を引き継いだのだった。アレックス・コックスのデビュー映画『レポ・マン』(1984年)やビル・フィッシュマン監督の『テープヘッズ』(1988年)は彼が仕切ったカルト人気を持つ作品だ。
再結成ザ・モンキーズにも参加もした彼は4回のバイパス手術を受けるなど心臓に障害を抱え、カリフォルニア州の自宅で心不全で息を引き取った。ネスミスは4回結婚した。
▶︎過去の、リトル・フィート
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/live-2000-12.htm
http://43142.diarynote.jp/201205301327209613/
https://43142.diarynote.jp/201909011034527807/
https://43142.diarynote.jp/201911011701216748/ ポール・バレルの訃報
18時から渋谷・Li-Poで、自伝と言えるライフ・ストーリーやメッセージ・ソング送出者としての姿勢や覚悟を認めた「ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて 50 年」(平凡社)出版を受けての中川五郎(1999年8月9日、2004年2月1日、2005年6月17日、2017年9月12日)のトーク&ライヴのイヴェントなり。僭越ながら、1部の聞き手役を務める。40年近く前、五郎さんとは共に雑誌編集者をしていた頃からの知り合いで、ぼくは彼に音楽の原稿を頼み、フリーになってからは五郎さんもぼくと同様ライヴによく行く人だったので、ライヴ終了後は一緒に流れたりもした。ぼくは、ちゃらくしなやかで、甘えをスマートに出す←それは、強さの裏返しでもあるのだが、五郎さんが大好きだった。
ようは、彼が音楽家から一番離れていた時期に知り合い、交友を持ち、そして彼がもう一度原点に立ち返るかのように、ギター弾き語りのライヴをやり出し、その比重がどんどん増すとともに、自らのメッセージ・ソングのあり方を獲得していった流れを(そんなにライヴは見ていないが)ぼくは横で見たきたわけだ。というのはともかく、まあ五郎さんについてふと思っていた疑問や本を読んで感じたことを素直に聞いてみた。五郎さん、くだらない戯言を前ほど言わなくなったな。→それを後で指摘したら、だってああいう場だから、というような返事が返ってきた。
2部は、たっぷり中川五郎の弾き語り。ノー・マイクで、完全素のパフォーマンス。でも、まったく問題なし。このおりライヴの数は減っているはずだが、そっちのほうの能力や勘は落ちていないようだ。前半は古い曲をずらり〜とやる。彼の曲として有名な「受験生のブルース」はもともとボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に日本語歌詞を乗っけたものだそうで、それを披露。マイナー・キーで、なかなか陰湿な内容ね。そして、その後一般に知れるだろうどこかおどけた「受験生のブルース」もやる。また、50年ぶりに歌うと断った曲もあった。1970年代中期に発表された彼の代表曲「25年目のおっぱい」も披露し、ぼくは初めて同曲を聞く。ほう、こんな(技アリでもある)内容であったのか。エリック・アンダースン(2012年9月3日)の「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」の訳詞曲などは前にも聞いたことがあったかな。
後半は、徐々に今に近い曲をやったよう。まあ日本語訳詞曲は抵抗を覚えたりもするわけだが、はっきりとした語調で歌われる彼の歌はとにもかくにも歌詞がちゃんと聞き取れる。そして、彼はそれを空で、歌詞カードなど一切おかず、まっすぐにまっとうしたことには感心した。あっぱれ。やはり、彼は正のパフォーマーであり、その雄姿に触れて、歌詞カードを置く担い手はやはり外道だと再認識した。
▶︎過去の、中川五郎
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm
http://43142.diarynote.jp/200402051852240000/
http://43142.diarynote.jp/200506200011180000/
http://43142.diarynote.jp/201709130923483891/
▶︎過去の、エリック・アンダーソン
http://43142.diarynote.jp/201209181236296275/
<今日の、五郎さん>
すんごく久しぶりにあったが、それほど変わらず、元気そう。開演前から赤ワインを飲み始め、ライヴの最中もぐびぐび。終わってからも、ごくごく。安心した。そーいやあ後半には、「愛があれば年の差なんか」というベタな表題の曲も披露する。それも、なにより。彼は映画「トイ・ストーリーズ」テーマ曲(ランディ・ニューマン作)の日本語歌詞を作ったそうだが、それをやってと言ったら、歌詞を覚えていないとのことで却下された。
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