テキサスとニューヨーク。地域性と結びつく自己表現を悠々とやってきた二人の米国人アーティストの訃報が届いている。と言っておいてナンだが、その属性どっぷりではない広がりも魅力的な人たちであったはずだ。
テキサス・ブルースのギター・マナー……。というと、ワイルドかつどこか諧謔を抱え、ジャジーな気配りもできると、乱暴に要約できるか。テキサス州ワスコム生まれであるギタリスト/シンガーのロイ・ゲインズは6歳から同州ヒューストンに住み、ローティーンの頃の最大のアイドルはT・ボーン・ウォーカーだった。二十歳になるころにはロサンゼルスに移動したという記載も認められ、1950年代中期には自己アルバムをリリースしてもいるようだ。
ロサンゼルスではブルージーなシンガーのサポート・ミュージシャンの需要も得たが、そうしたなか一番著名であったのがレイ・チャールズであったろう。また、ジ・エヴァリー・ブラザーズやザ・スプリームスやスティーヴィー・ワンダー(2005年11月3日、2010年8月8日、2012年3月5日)など多彩なセッション・ワークにものぞみ、クインシー・ジョーンズ(2013年8月1日)のサウンドトラック『カラー・パーププル』(ワーナー・ブラザーズ、1985年)にも彼は参加している。
そうした折に出された、テキサス系ブルース・マン姿勢と視野の広いメロウネスを表出した『Gainelining』(Red Lightnin’,1982 年)はP-ヴァインからも大々的にリリースされて、一番知られる彼のアルバムか。彼は約10作のリーダー作を出した。東京での、吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)との双頭作もあり。なお、ファンキーだったりもする英国録音の『Gainelining』は“ウィズ・クルセイダーズ・クリュー”との記載もジャケット・カヴァーに入っていて、それはザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)関連者をサポート陣に迎えていた。ゲインズは、ザ・ジャズ・クルセイダーズの『Freedom Sound』(Pacific Jazz,1961年)に参加している。
ロイの兄はブルース・ギタリスト/テナー・サックス奏者のグレイディ・ゲインズだが、彼も今年早々にお亡くなりになっていることを知った。1934年5月14日〜2021年1月29日。ヒューストン拠点の名レーベルであるピーコックのハウス・ミュージシャンになり業界内基盤を固め、1950年代中期以降、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン(2004年9月18日)、リトル・リチャード、ジャッキー・ウィルソン、サム・クックら有名人をサポートしている。そんな彼は1980年代前半は音楽から離れてホテル・チェーンの配送マネージャーとて働いたが、しばらくして戻り、それ以降ブラック・トップ他からリーダー作もリリースするようになった。
▶過去の、スティーヴィー・ワンダー
http://43142.diarynote.jp/200511130015240000/
http://43142.diarynote.jp/201008261618276388/
http://43142.diarynote.jp/201203062006429595/
▶︎過去の、クインシー・ジョーンズ
http://43142.diarynote.jp/201308091149599475/
▶︎過去の、吾妻光良
http://43142.diarynote.jp/200707232253550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100529
http://43142.diarynote.jp/201011250546335197/
https://43142.diarynote.jp/201610241405267224/
https://43142.diarynote.jp/201908011004351383/
▶過去の、ザ・クルセイダーズ
http://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶︎過去の、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン
https://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
ニューヨーク・サルサの名ピアニスト/プロデューサーであるラリー・ハーロウ(1999年8月28日、2014年1月25日、2014年1月28日、2015年1月15日、2016年3月30日)も亡くなった。腎臓を患っており、心不全が死因であるという。彼はラティーノではなく、ユダヤ系。だが、周りの環境の影響やキューバで修行したりもし、ニューヨークの一側面を活写する誉高いビート・ミュージックの作り手として堂々君臨した。また、非ラティーノである立ち位置はより自由な視点でラテンにあたることを可能とし、それも彼なりの魅力的な創造性を生んだろう。ファニア1973年発『Hommy: A Latin Opera 』はザ・フー(2008年11月17日)のロック・オペラ作『トミー』(トラック、1969年)にインスパイアされた内容を持っていた。
1960年代中期から、NY サルサの名レーベル“ファニア”から続々とアルバムをリリース。同社の興隆にも大きな役割を果たした。ファニアがなくなった1980年代中期以降はアルバム・リリースが減じた感もあるが、ソニー他からアルバムをリリーし、エキサイティングさと娯楽性を併せ持つ力ある来日ギグの模様も忘れがたい。エレヴェイターが急上昇/急降下しているような感覚を与えるピアノの決まりソロも忘れがたいなあ。
▶過去の、ラリー・ハーロウ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/201401271737069409/
http://43142.diarynote.jp/201401291105093975/
http://43142.diarynote.jp/201501161004061742/
http://43142.diarynote.jp/201603310813244084/
▶︎過去の、ザ・フー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
<もう一つの、訃報>
先日の、西独サッカー選手のゲルト・ミュラーの悲報には自分でもびっくりするほど悲しみを覚えた。1945年11月3日〜2021年8月15日。いろんな見方があると思うが、彼はゴール・ゲッターという観点において今も1、2を争う存在ではないのか。1970年代前半、サッカー部に入りアタッカーのポジションを得ていたぼくにとっては、マンチェスター・ユナイテッド/北アイルランド代表のジョージ・ベストと並ぶ存在だった。格好いいのがベストで、格好悪いのがミュラー。ずっと華やスキャンダルを抱えていたベストの方が好きだったのは間違いなく、今回の死に際してのぼくの心持ちには自分でも少しアラっとなっているわけだ。うまいかどうか不明な、どさくさゴーラー。という世評もあった。だが、ミュラーは意外にしなやかな部分もあり、技ありゴールも決めていたはずだ。なんによ、常軌を逸するゴールに対する嗅覚を持つ、生粋のストライカーだった。引退後は、ベストもミュラーもアル中になったという共通項を持つ。いや、ベストは引退前からそうであったか。ミュラーはアルコール中毒からは立ち直ったが、ここ5年ちょいはアルツハイマーにかかり、彼が所属したバイエルン・ミュンヘンが面倒を見ていたという。
テキサス・ブルースのギター・マナー……。というと、ワイルドかつどこか諧謔を抱え、ジャジーな気配りもできると、乱暴に要約できるか。テキサス州ワスコム生まれであるギタリスト/シンガーのロイ・ゲインズは6歳から同州ヒューストンに住み、ローティーンの頃の最大のアイドルはT・ボーン・ウォーカーだった。二十歳になるころにはロサンゼルスに移動したという記載も認められ、1950年代中期には自己アルバムをリリースしてもいるようだ。
ロサンゼルスではブルージーなシンガーのサポート・ミュージシャンの需要も得たが、そうしたなか一番著名であったのがレイ・チャールズであったろう。また、ジ・エヴァリー・ブラザーズやザ・スプリームスやスティーヴィー・ワンダー(2005年11月3日、2010年8月8日、2012年3月5日)など多彩なセッション・ワークにものぞみ、クインシー・ジョーンズ(2013年8月1日)のサウンドトラック『カラー・パーププル』(ワーナー・ブラザーズ、1985年)にも彼は参加している。
そうした折に出された、テキサス系ブルース・マン姿勢と視野の広いメロウネスを表出した『Gainelining』(Red Lightnin’,1982 年)はP-ヴァインからも大々的にリリースされて、一番知られる彼のアルバムか。彼は約10作のリーダー作を出した。東京での、吾妻光良(2007年7月22日、2010年5月29日、2010年11月20日、2016年10月22日、2019年7月31日)との双頭作もあり。なお、ファンキーだったりもする英国録音の『Gainelining』は“ウィズ・クルセイダーズ・クリュー”との記載もジャケット・カヴァーに入っていて、それはザ・クルセイダーズ(2005年3月8日)関連者をサポート陣に迎えていた。ゲインズは、ザ・ジャズ・クルセイダーズの『Freedom Sound』(Pacific Jazz,1961年)に参加している。
ロイの兄はブルース・ギタリスト/テナー・サックス奏者のグレイディ・ゲインズだが、彼も今年早々にお亡くなりになっていることを知った。1934年5月14日〜2021年1月29日。ヒューストン拠点の名レーベルであるピーコックのハウス・ミュージシャンになり業界内基盤を固め、1950年代中期以降、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン(2004年9月18日)、リトル・リチャード、ジャッキー・ウィルソン、サム・クックら有名人をサポートしている。そんな彼は1980年代前半は音楽から離れてホテル・チェーンの配送マネージャーとて働いたが、しばらくして戻り、それ以降ブラック・トップ他からリーダー作もリリースするようになった。
▶過去の、スティーヴィー・ワンダー
http://43142.diarynote.jp/200511130015240000/
http://43142.diarynote.jp/201008261618276388/
http://43142.diarynote.jp/201203062006429595/
▶︎過去の、クインシー・ジョーンズ
http://43142.diarynote.jp/201308091149599475/
▶︎過去の、吾妻光良
http://43142.diarynote.jp/200707232253550000/
http://43142.diarynote.jp/?day=20100529
http://43142.diarynote.jp/201011250546335197/
https://43142.diarynote.jp/201610241405267224/
https://43142.diarynote.jp/201908011004351383/
▶過去の、ザ・クルセイダーズ
http://43142.diarynote.jp/200503120546520000/
▶︎過去の、クラレンス“ゲイトマウス”ブラウン
https://43142.diarynote.jp/200410121001170000/
ニューヨーク・サルサの名ピアニスト/プロデューサーであるラリー・ハーロウ(1999年8月28日、2014年1月25日、2014年1月28日、2015年1月15日、2016年3月30日)も亡くなった。腎臓を患っており、心不全が死因であるという。彼はラティーノではなく、ユダヤ系。だが、周りの環境の影響やキューバで修行したりもし、ニューヨークの一側面を活写する誉高いビート・ミュージックの作り手として堂々君臨した。また、非ラティーノである立ち位置はより自由な視点でラテンにあたることを可能とし、それも彼なりの魅力的な創造性を生んだろう。ファニア1973年発『Hommy: A Latin Opera 』はザ・フー(2008年11月17日)のロック・オペラ作『トミー』(トラック、1969年)にインスパイアされた内容を持っていた。
1960年代中期から、NY サルサの名レーベル“ファニア”から続々とアルバムをリリース。同社の興隆にも大きな役割を果たした。ファニアがなくなった1980年代中期以降はアルバム・リリースが減じた感もあるが、ソニー他からアルバムをリリーし、エキサイティングさと娯楽性を併せ持つ力ある来日ギグの模様も忘れがたい。エレヴェイターが急上昇/急降下しているような感覚を与えるピアノの決まりソロも忘れがたいなあ。
▶過去の、ラリー・ハーロウ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/201401271737069409/
http://43142.diarynote.jp/201401291105093975/
http://43142.diarynote.jp/201501161004061742/
http://43142.diarynote.jp/201603310813244084/
▶︎過去の、ザ・フー
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/LIVE-2001-11.htm ジョン・エントウィッスル 2001年11月9日
https://43142.diarynote.jp/200810010211566772/ 映画
https://43142.diarynote.jp/200811201240456237/
<もう一つの、訃報>
先日の、西独サッカー選手のゲルト・ミュラーの悲報には自分でもびっくりするほど悲しみを覚えた。1945年11月3日〜2021年8月15日。いろんな見方があると思うが、彼はゴール・ゲッターという観点において今も1、2を争う存在ではないのか。1970年代前半、サッカー部に入りアタッカーのポジションを得ていたぼくにとっては、マンチェスター・ユナイテッド/北アイルランド代表のジョージ・ベストと並ぶ存在だった。格好いいのがベストで、格好悪いのがミュラー。ずっと華やスキャンダルを抱えていたベストの方が好きだったのは間違いなく、今回の死に際してのぼくの心持ちには自分でも少しアラっとなっているわけだ。うまいかどうか不明な、どさくさゴーラー。という世評もあった。だが、ミュラーは意外にしなやかな部分もあり、技ありゴールも決めていたはずだ。なんによ、常軌を逸するゴールに対する嗅覚を持つ、生粋のストライカーだった。引退後は、ベストもミュラーもアル中になったという共通項を持つ。いや、ベストは引退前からそうであったか。ミュラーはアルコール中毒からは立ち直ったが、ここ5年ちょいはアルツハイマーにかかり、彼が所属したバイエルン・ミュンヘンが面倒を見ていたという。
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