ピーター・バラカンズ・ミュージック・フィルム・フェスティバル開催中の角川シネマ有楽町で、ファニア制作の1972年米国映画「アワ・ラテン・シング」を見る。当時のNYサルサの中心レコード会社が作った、ドキュメンタリー調の映画だ。その柱となるのは、1971年8月26日にマンハッタンの中心部にあったダンス・クラブ“チーター”で行われた、ファニア・オールスターズの公演だ。そこ、2000人収容とも言われる。

 ニューヨーク・サルサ、同ラティーノの興隆を切り取る映画だ。これを見たのははるか昔であったが、演奏シーンとともに、スパニッシュ・ハーレムのストリート模様をいろいろと伝える映像に胸が高鳴ったことはよく覚えている。とともに、そんなに映し出される訳ではないが、サルサはダンス・ミュージュックなんだと痛感させられたことも蘇る。とはいえ、多くの詳細は忘れていて、ワワワとなりながら見た。途中にラリー・ハーロウ(1999年8月28日、2014年1月25日、2014年1月28日、2015年1月15日、2016年3月30日)楽団の多数の人を前にする野外コンサートの模様も入れられるが、街頭映像の記憶が強いためか、ぼくはそのことを忘れていた。そのシーンで原始的なかき氷売りをしていたのは、打楽器奏者のレイ・バレットであったのか。また、バタ・ドラムや大きなシェケレ(と言っていいのか)が使われるサンテーリアの儀式も紹介されるが、いろいろ知識を重ねた今こそ分かる部分もいろいろあるナ。

 映画には、ジャズの人気ラジオDJだったシンフォニー・シド(シド・トーリン。1909〜1984年)も出てくる。彼の名前を冠した名テナー・サックス奏者のレスター・ヤング作曲の「ジャンピング・ウィズ・シンフォニー・シド」はスタンダードになっている。ぼくがその曲を知ったのが、ジョー・ジャクソンが『ジャンピン・ジャイヴ』(A&M、1981年)のオープナーに置いたから。彼はラテン・ジャズの紹介にも力を注いだので、その流れの登場だろうか。担い手たちはやはり広く自分たちの音楽が聞かれてほしいと思っていたはずで、そんな彼らにとってシンフォニー・シドはとても歓迎すべき存在であったのは想像に難くない。ちょいワルおやじな感じのシド・トーリンはこの2年後に引退し、フロリダ州で余生を送った。

 ↑というのは、やはり大昔映画を見たときには一切わからなかった事項だが、もう一つ今見て合点がいったのは、サルサがトロンボーンを重用する表現であるということ。ジャズだとまずトランペットやサックスのような音の輪郭のはっきりした楽器が前面に出るところ、サルサでは音の輪郭がメロウで流動的なパッセージを出すトロンボーンがまず主役となる。バリー・ロジャースやウィリー・コローンらの勇士を認め、ぼくはサルサが熱と乖離しないロマンティックな表現なのだと再確認した。

 ファニア共同設立者のジョニー・パチェーコや色男然としたエクトル・ラボーをはじめ、輝ける名手たちに胸高鳴る。最後のメンバー紹介の際のに、出演者の映像が静止画像になるのは格好いい。とかなんとか、その様に触れながら<PCが介在しない時代の、確固としたコミュニティに根ざしたアナログ表現の精華>なんて言い方もぼくはしたくなる。それほどサルサを聞いていないためかもしれないが、ぼくはサルサというと。1971年8月26日録音のファニア・オールスターズの『ライヴ・アット・チーター』をまず思い浮かべる人間だ。

▶過去の、ラリー・ハーロウ
http://www.myagent.ne.jp/~newswave/augustlive.htm オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティヴァル
http://43142.diarynote.jp/201401271737069409/
http://43142.diarynote.jp/201401291105093975/
http://43142.diarynote.jp/201501161004061742/
http://43142.diarynote.jp/201603310813244084/
▶︎今年の、ジョニー・パチェーコの訃報
https://43142.diarynote.jp/202102161541047237/

<今日の、追記>
 8月26日は、ぼくの誕生日でもある。そして、このファニア・オールスターズのチーターでのライヴが行われた、その1年前の同日には、ジミ・ヘンドリックスのエレクトリック・レディ・スタジオのオープニング・パーティが開かれた。
 グリニッジ・ヴィレッジにある同スタジオはその後もヘンドリックス流れの創造性が宿るスタジオとして稼働し(1977年にはヘンドリックス財団が売却)、今も残っている。1970年9月18日のヘンドリックスの死後、ストーンズやパティ・スミスほか様々な人たちがそのスタジオを用いているが、ぼくはまずスティーヴィー・ワンダーが1970年初頭のクリエイティヴィティ爆発3部作を録ったスタジオとして思い浮かべる。また、1990年後期から2000年代前期にかけてはクエストラヴやジェイ・ZやJ・ディラやジェイムズ・ポイザーらのソウルクエリアンズが拠点とにしていたことも思い出す。面々の手により、エリカ・バドゥやデイアンジェロらの好作が送り出され、いろんな妄想が溢れ出るコモンの『エレクトリック・サーカス』(MCA、2002年)はぼくの中ではいかにもエレクトリック・レディ録音の作品という印象を得ている。当時の華々しいソウル・クエリアンズのプロダクツは同スタジオでのちんたらしたセッションが不可欠なものであった。
 2000年代以降も持ち主が変わるなか同スタジオはミキシング・ルームを併設するなど規模を拡大し、稼働している。その内装はヘンドリックスのモヤモヤを引き継ぐようなサイケデリックなそれが取られているようだ。

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