スティーヴ・グロスマン(1951年1月18日〜2020年8月13日)
2020年8月15日 音楽 名テナー/ソプラノ・サックス奏者のスティーヴ・グロスマンの訃報が届いている。ところが、彼の名前を引いても、その訃報を封じる記事が少ししか出てこない。彼ほどの実績を持つ人なら、絶対いろいろ出てきていいはずなのに。謎。ゆえに死因もよく分からないし、亡くなった日が15日となっているものもある。実は、まだ半分ぐらいは訃報はガセではないかと、ぼくは思っている。まだ60代、早熟な人ではあった。
グロスマンというと、マイルズ・デイヴィス、日野皓正、エルヴィン・ジョーンズの3巨頭の名前が浮かぶ。1970年代上半期の、彼らのグループに入った演奏がまず思い出されるな。適切なカタルシスを表現できた吹き手ででもありました。1973年、エルヴィン・ジョーンズ流れでジーン・パーラのPMレーベルから『Some Shapes To Come』でリーダー作デビュー。以後、フランスのアウル、アトランティック、イタリアのレッド、日本のDIW、フランスのドレフィス・ジャズ他からアルバムをリリース。彼は菊地雅章とも親交を持っていた。
追記) その後、少し彼の死の報を伝えるものが出てきた。亡くなったのは、やはり8月13日。ニューヨーク州グレンコーブ市のグレンコーブ病院に持病で入院していて、心停止したという。なんとなく欧州在住というイメージを持っていたが、5年ほど前にイタリアのボローニャから本国に戻ったよう。nprの記事によると、彼のお父さんはRCAのセールス・マンをしたあと、スピーカーで知られるオーディオ・メイカーのKLHの社長に就いたとのこと。また、デビュー作を出したころは、そこに参加もしている鍵盤奏者のヤン・ハマーとアパートをシェアしていたそうな。ジャズ王道にある楽器作法を、非4ビートのサウンドに乗せるようになった時代の、その第一世代の奏者であると、彼を規定することもできるだろう。
<今日の、掘り起こし>
以下は、日野皓正にの発言である。2019年12月のインタヴューより。
「デイヴ・リーブマンのバンドでセヴンス・アヴェニュー・サウスに出たとき、デイヴが明日マイルスの(入院している)病院に行くけど、彼に言うことあるかと聞いてきた。そのころ、俺は唇があれてマウス・ピースについて苦慮していたんだ。そしたら、彼の答えは「下の唇を使え」。その時は、それがなんのことか分からなかった。その後、デイヴとビールを抱えてマイルスの家に行ったら(1970年代後期の隠匿期だろう)、部屋が真っ暗でテレビの光しかない。すると、彼は近所に住む彼女に懐中電灯を持ってこさせ、それで俺の唇照らし見るんだ。そして、「ヒノ、お前は大丈夫だ」と言う。また、その時マイルスは自分のセッションのテープを聞いていたんだけど、俺にちょっと演奏しろと言い、自分のトランペットを吹かせるわけ。なんかね、彼は俺のことを息子だと思っていたの。黒人ミュージシャンには、落語のように弟子から弟子に自分のスタイルを教え伝えるシステムがあるんだ。(90年前後に日野グループに入っていたドラマーの)マーク・カーヴィンなんか、フィリー・ジョーとかマックス・ローチが来ると、そういう関係で「親父、元気?」って話しかける。アート・ブレイキーなんかも俺に「マイ・サン、日野。カム・イン」とか言って、ステージに誘ってくれた。往々にしてそんな感じなんだけど、まさかマイルスとも親子関係になっているのは知らなくて、だって神様だと思っていたからね。本当に光栄だよね。彼が亡くなってしばらくしてから、下の唇を使えというのはこれなんだと分かったんだ」
エルヴィンの1970年代初頭のグループに一緒に在籍するなど、ぼくのなかではデイヴ・リーブマンはグロスマンと立ち位置が重なるテナー・サックス奏者だった。グロスマンと重なることはなかったが、リーブマンもマイルズ・デイヴィスの電化期録音に関与していた。
グロスマンというと、マイルズ・デイヴィス、日野皓正、エルヴィン・ジョーンズの3巨頭の名前が浮かぶ。1970年代上半期の、彼らのグループに入った演奏がまず思い出されるな。適切なカタルシスを表現できた吹き手ででもありました。1973年、エルヴィン・ジョーンズ流れでジーン・パーラのPMレーベルから『Some Shapes To Come』でリーダー作デビュー。以後、フランスのアウル、アトランティック、イタリアのレッド、日本のDIW、フランスのドレフィス・ジャズ他からアルバムをリリース。彼は菊地雅章とも親交を持っていた。
追記) その後、少し彼の死の報を伝えるものが出てきた。亡くなったのは、やはり8月13日。ニューヨーク州グレンコーブ市のグレンコーブ病院に持病で入院していて、心停止したという。なんとなく欧州在住というイメージを持っていたが、5年ほど前にイタリアのボローニャから本国に戻ったよう。nprの記事によると、彼のお父さんはRCAのセールス・マンをしたあと、スピーカーで知られるオーディオ・メイカーのKLHの社長に就いたとのこと。また、デビュー作を出したころは、そこに参加もしている鍵盤奏者のヤン・ハマーとアパートをシェアしていたそうな。ジャズ王道にある楽器作法を、非4ビートのサウンドに乗せるようになった時代の、その第一世代の奏者であると、彼を規定することもできるだろう。
<今日の、掘り起こし>
以下は、日野皓正にの発言である。2019年12月のインタヴューより。
「デイヴ・リーブマンのバンドでセヴンス・アヴェニュー・サウスに出たとき、デイヴが明日マイルスの(入院している)病院に行くけど、彼に言うことあるかと聞いてきた。そのころ、俺は唇があれてマウス・ピースについて苦慮していたんだ。そしたら、彼の答えは「下の唇を使え」。その時は、それがなんのことか分からなかった。その後、デイヴとビールを抱えてマイルスの家に行ったら(1970年代後期の隠匿期だろう)、部屋が真っ暗でテレビの光しかない。すると、彼は近所に住む彼女に懐中電灯を持ってこさせ、それで俺の唇照らし見るんだ。そして、「ヒノ、お前は大丈夫だ」と言う。また、その時マイルスは自分のセッションのテープを聞いていたんだけど、俺にちょっと演奏しろと言い、自分のトランペットを吹かせるわけ。なんかね、彼は俺のことを息子だと思っていたの。黒人ミュージシャンには、落語のように弟子から弟子に自分のスタイルを教え伝えるシステムがあるんだ。(90年前後に日野グループに入っていたドラマーの)マーク・カーヴィンなんか、フィリー・ジョーとかマックス・ローチが来ると、そういう関係で「親父、元気?」って話しかける。アート・ブレイキーなんかも俺に「マイ・サン、日野。カム・イン」とか言って、ステージに誘ってくれた。往々にしてそんな感じなんだけど、まさかマイルスとも親子関係になっているのは知らなくて、だって神様だと思っていたからね。本当に光栄だよね。彼が亡くなってしばらくしてから、下の唇を使えというのはこれなんだと分かったんだ」
エルヴィンの1970年代初頭のグループに一緒に在籍するなど、ぼくのなかではデイヴ・リーブマンはグロスマンと立ち位置が重なるテナー・サックス奏者だった。グロスマンと重なることはなかったが、リーブマンもマイルズ・デイヴィスの電化期録音に関与していた。
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