マジック・ディック・ウィズ・トミー・カストロ&ザ・ペインキラーズ
2013年11月22日 音楽 かつて、米国のストーンズなんても言われたブルース/R&Bベースのがちんこロック・バンドであるザ・J・ガイルズ・バンドのハーモニカ奏者だったマジック・ディックが、トミー・カストロという1955年カリフォルニア州生まれブルース・ロッカー(近年は、アリゲイター・レーベルからアルバムを出している)のバンドと重なる公演。両者は過去に絡んでいるようだが、今回の共演は日本公演だけのよう。トミー・カストロ&ザ・ペインキラーズは来年になると熟練白人鍵盤ブルース・レイディであるマルシア・ボール(彼女もアリゲイター所属)とともに米国でライヴをしたりもするようだ。六本木・ビルボードライブ東京、セカンド・ショウ。
ぼくはトミー・カストロのことを知らなかったが、CDをチェックするぶんには、彼自身が黒人音楽にヤラれたロッカーとして、かなりイケている人物であり、マジック・ディックうんぬんは別にしても、これは聞いてもOKと思わせる。全員初来日であるという面々はギター(1曲、スライド・バー使用)と歌を担当するカストロに加え、キーボード、ベース、ドラムという編成。皆、白人。実はカストロは思ったほど、ギターの存在感がないのにはちと片すかし。おやじ白人で馬鹿みたいにブルース基調ギターが上手い人いるからな〜。
しかし、マジック・ディックって、すげえ芸名だな。彼は3度目の東京であるとか。少し丸くはなっているが、あまりはげてはおらず爆発したヘア・スタイルは昔と同じで、あまり外見が変わっていない感じも受ける。ちょいスーダラな雰囲気を振りまき、その声が若々しいのも印象に残った。そんな彼は、1945年コネチカット州生まれ。ザ・J・ガイルズ・バンドは1960年代後半にボストンで結成されたバンドだが、やはり東海岸のバンドっていう風情もポイントではあったよな。
ぼくは、マジック・ディックは全面的にハーモニカ奏者としてカストロ・バンドに加わるのかと想像していたが、ブルース曲カヴァーが多かったはずだが、彼が半数以上の曲で軽い声でリード・ヴォーカルを取ったのには驚いた。だって、ザ・J・ガイルズ・バンド時代の彼は生粋のハーモニカ奏者で、歌うという印象はなかったから。彼のハーモニカ演奏はソロを取るとともに、リード・ヴォーカルとユニゾンで重なったり、ヴォーカルに間の手をいれるような感じの奏法を見せたりと、本当にイケていた。
ザ・J・ガイルス・バンドの曲は、「ギヴ・イット・トゥ・ミー」(1973年全米30位。レゲエ調曲で、レゲエ導入ロック曲としてはかなり早い。ECの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は1974年)と、インスト曲の「ウォーマー・ジャマー」、そして「ルッキン・フォー・ラヴ」(1972年、全米39位。J・ガイルス・バンド、初のヒット曲)の3曲やったか。嗚呼、浮かれる。面白いことに、そのヴォーカルが入る2曲はカストロが歌う。「ギヴ・イット・トゥ・ミー」以外の2曲はカヴァーで、初期の彼らは黒人曲のカヴァーが少なくなかった。
シングル・カットはされていないと思うが、実は「ウォーマー・ジャマー」は往年のロック・ファンにはよく知られる曲なはず。というのも、1970年代のFENのジングルに、この曲は執拗に使われていたから(1980年代に入るとFENを聞かなくなったので、使われていたかどうかは分りません)。しかし、このマジック・ディックの扇情的な演奏をフィーチャーせんとするインスト曲は、見事にフレイズが練られている。1971年のスタジオ・テイクも1972年ライヴ盤収録のヴァージョンもほぼ同じ吟味されたフレイズが披露されていたが、この日もそう。だが、その演奏は本当にブルース・ハープ(ハーモニカ)の醍醐味を伝えるもので、イエイ。彼のハイトーンの使い方は、マジ名人芸。蛇足ながら、ザ・J・ガイルズ・バンドが一番成功を得たのは1980年代アタマで、『フリーズ・フレイム』(EMI、1981年)は全米1位を獲得。そこから4曲シングルが切られ、うち2曲は一桁台の大ヒット(1位と4位)となった。
<今日の、希望>
ザ・J・ガイルズ・バンドは学生時代、かなりの好物だった。浪人のときに友人の通っていた大学の学祭に出るためのバンドで「ギヴ・イット・トゥ・ミー」、大学生のとき後輩に頼まれてベースを弾いたバンドで「センターフォルド」とかをカヴァーしたこともある。ああ青春、ヒヒヒ……。同バンドにいたスター・ヴォーカリストのピーター・ウルフ(一時は女優のフェイ・ダナウェイと結婚していたこともある)はザ・J・ガイルズ・バンドを抜けた1980年代中期以降はソロとして活動、そのリーダー作は基本どれも大好き。彼、1990年代に渋谷のクラブ・クアトロで単独公演やったよな? どこでもいいから、ピーター様のことを、呼んでくれないかなー。1970年後期のJ.ガイルズ・バンドの驚愕の来日公演については、マヌー・チャオの2010年公演の項で、少し触れている。http://43142.diarynote.jp/?day=20101004
ぼくはトミー・カストロのことを知らなかったが、CDをチェックするぶんには、彼自身が黒人音楽にヤラれたロッカーとして、かなりイケている人物であり、マジック・ディックうんぬんは別にしても、これは聞いてもOKと思わせる。全員初来日であるという面々はギター(1曲、スライド・バー使用)と歌を担当するカストロに加え、キーボード、ベース、ドラムという編成。皆、白人。実はカストロは思ったほど、ギターの存在感がないのにはちと片すかし。おやじ白人で馬鹿みたいにブルース基調ギターが上手い人いるからな〜。
しかし、マジック・ディックって、すげえ芸名だな。彼は3度目の東京であるとか。少し丸くはなっているが、あまりはげてはおらず爆発したヘア・スタイルは昔と同じで、あまり外見が変わっていない感じも受ける。ちょいスーダラな雰囲気を振りまき、その声が若々しいのも印象に残った。そんな彼は、1945年コネチカット州生まれ。ザ・J・ガイルズ・バンドは1960年代後半にボストンで結成されたバンドだが、やはり東海岸のバンドっていう風情もポイントではあったよな。
ぼくは、マジック・ディックは全面的にハーモニカ奏者としてカストロ・バンドに加わるのかと想像していたが、ブルース曲カヴァーが多かったはずだが、彼が半数以上の曲で軽い声でリード・ヴォーカルを取ったのには驚いた。だって、ザ・J・ガイルズ・バンド時代の彼は生粋のハーモニカ奏者で、歌うという印象はなかったから。彼のハーモニカ演奏はソロを取るとともに、リード・ヴォーカルとユニゾンで重なったり、ヴォーカルに間の手をいれるような感じの奏法を見せたりと、本当にイケていた。
ザ・J・ガイルス・バンドの曲は、「ギヴ・イット・トゥ・ミー」(1973年全米30位。レゲエ調曲で、レゲエ導入ロック曲としてはかなり早い。ECの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は1974年)と、インスト曲の「ウォーマー・ジャマー」、そして「ルッキン・フォー・ラヴ」(1972年、全米39位。J・ガイルス・バンド、初のヒット曲)の3曲やったか。嗚呼、浮かれる。面白いことに、そのヴォーカルが入る2曲はカストロが歌う。「ギヴ・イット・トゥ・ミー」以外の2曲はカヴァーで、初期の彼らは黒人曲のカヴァーが少なくなかった。
シングル・カットはされていないと思うが、実は「ウォーマー・ジャマー」は往年のロック・ファンにはよく知られる曲なはず。というのも、1970年代のFENのジングルに、この曲は執拗に使われていたから(1980年代に入るとFENを聞かなくなったので、使われていたかどうかは分りません)。しかし、このマジック・ディックの扇情的な演奏をフィーチャーせんとするインスト曲は、見事にフレイズが練られている。1971年のスタジオ・テイクも1972年ライヴ盤収録のヴァージョンもほぼ同じ吟味されたフレイズが披露されていたが、この日もそう。だが、その演奏は本当にブルース・ハープ(ハーモニカ)の醍醐味を伝えるもので、イエイ。彼のハイトーンの使い方は、マジ名人芸。蛇足ながら、ザ・J・ガイルズ・バンドが一番成功を得たのは1980年代アタマで、『フリーズ・フレイム』(EMI、1981年)は全米1位を獲得。そこから4曲シングルが切られ、うち2曲は一桁台の大ヒット(1位と4位)となった。
<今日の、希望>
ザ・J・ガイルズ・バンドは学生時代、かなりの好物だった。浪人のときに友人の通っていた大学の学祭に出るためのバンドで「ギヴ・イット・トゥ・ミー」、大学生のとき後輩に頼まれてベースを弾いたバンドで「センターフォルド」とかをカヴァーしたこともある。ああ青春、ヒヒヒ……。同バンドにいたスター・ヴォーカリストのピーター・ウルフ(一時は女優のフェイ・ダナウェイと結婚していたこともある)はザ・J・ガイルズ・バンドを抜けた1980年代中期以降はソロとして活動、そのリーダー作は基本どれも大好き。彼、1990年代に渋谷のクラブ・クアトロで単独公演やったよな? どこでもいいから、ピーター様のことを、呼んでくれないかなー。1970年後期のJ.ガイルズ・バンドの驚愕の来日公演については、マヌー・チャオの2010年公演の項で、少し触れている。http://43142.diarynote.jp/?day=20101004
コメント