アトランタ拠点の彼らは1992年デビュー作で大ブレイク。グラミー賞2部門を即とるなど、その成功の様は米国ポップ音楽界新人の鮮やかなブライク譚としてかなりその上位にあげられるんじゃないか。黒人文化の積み重ねや南部立脚の重要性を巧みに強調することを成功させたリーダーのスピーチは若くして“伝説の人”みたいなイメージもなぜかつき、初来日のときインタヴューできたときはとってもうれしかったし、やはり博識な人でいろいろ話は盛り上がった。一時は、ほんと注視すべき存在だったな。そういえば、当時はMTVの“アンプラグド”がブームで、人気者の彼らもすぐにそれをやる機会を得て、その1993年リリースの同CDにはブランドン・ロス(2011年12月14日、他)やマーク・バトゥソンといったNY在住のオルタナティ・ブラック・ミュージック界の逸材(さらには、ワシントン・ゴー・ゴー・ファンクの名ドラマーのジュ・ジュ・ハウスも)が入っていた。

 そんなスピーチ率いるオルタナティヴ・ヒップホップ・ユニット(2000年4月27日、2000年8月5日、2001年2月3日、 2002年4月17日)の実演を見るのは、たびたび来日しているはずだが、ぼくとしてはなんと10年強ぶり。時がたつのは早い(しんみり)。六本木・ビルボードライヴ東京、ファースト・ショウ。

 MCと歌のスピーチに加え、見た目がうれしい女性コーラス2人、男性MC2人(うち、1人は一部プリセット音の音だしも)、ギター、ベース、ドラムという編成による。PA から出る音は大きめ目、だがスピーチたちの声もよく通り、無理はない。なんかよりサバけ気安くなった風情を持つスピーチは、アフリカン・アメリカン音楽の積み重ねを抱えたオーガニックな広角型ヒップホップ・ミュージック集団のリーダーとしての姿をまっとう。旧曲も屈託なくやる。背後にはスクリーンをたらし映像を流すが、それほど印象的な映像ではない(あまり記憶に残っていない。革命という、漢字が映しだされたときも)し、それは無しでもいいか。かつて、彼らはパパ・オジェという、何もしないおじいさんを象徴的存在のようにステージ上の椅子に座らせていた(2007年10月25日の項、参照を)が、それを思い出させる椅子だけは今も置いてあった。

 次は青山・プラッサオンゼで、女性ヴォーカル(2010年12月22日、他)と生ギター(2012年6月17日、他)とキーボードの三者パフォーマンスを見る。淡々悠々、そして笑み。ブラジル音楽やジャジーな行き方に対する共感を重ね、その先に今を生きる3人のたゆたふ協調表現を共有しあおうとしていたと書けるか。そして、Nobieが他人曲にせよオリジナルにせよ、歌詞を見ずに歌っているのにココロで喝采。そうじゃなきゃ。大人系シンガーは判で押したように歌詞を置いたスタンドを前に置くけど、それをしないで大丈夫なら絶対にそれにこしたことはないし、プロならそうあってほしいナと、その様を見ながら、ぼくは思った。伊藤とデュオでやったハービー・ハンコックの「バタフライ」のカヴァーには誘われる。マイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」も清々しくやったな。ファースト・セットを見て移動。

 そして、南青山・ブルーノート東京では、アルゼンチン出身の雰囲気系ジャジー・シンガーを見る。彼女はパーティ・ピープル御用達のスペインのイビサ島に行ってダンス・ミュージックを歌ったりしていた人のようだが、もともと低目の歌声もあり、それがジャズぽい方向に流れることに繋がった。そんな経歴を持つ人ながら、ピアノ・トリオを従えたショウはちゃらちゃらしたものを超える、クールな風景を出していて、少し驚いた。まあ、現在、マジなジャズ・シンガーとして認知されているニコール・ヘンリー(2008年4月25日、2009年11月18日、2009年12月22日)ももともとはマイアミのハウス/ダンス・ミュージックのシンガーだったので、そんなに出発点にこだわることもないし、逆にそういう経験も持つから生理的にしなやかな見方を持てるという説明もできるわけだが。

 けっこう奇麗に見えるソウザさんは役者、きっちり自分が出すもの、求めるものを分ってらっしゃる。奇麗なブロンド、黒いドレスに身をかため、身長も高め。イケている。で、斜に構えるように椅子に座り、どこか退廃的な感じで、さばさば歌って行く。その様、見事なSっぷりというか、アイス・ドールぶり。だが、その振る舞いや歌い方や歌声や佇まいが見事に合っていて、ちゃんとジャズ・ヴァーカルのエンターテインメントのあり方として大アリ、一つの世界をちゃんと作っている。

 歌うのは、カルチャー・クラブからレディオヘッドまでのポップ曲をジャジーに紐解き直した曲を中心に、「マイ・フーリッシュ・ハート」や「サマータイム」などのスタンダードやトム・ジョビンの「ヂンヂ」なども。ポップ曲のアレンジ、実はけっこう巧みでかったるさは皆無。ソウザは別に凝った歌い方をするわけではないが、その抑えられ、醒めた歌唱は無理がなく、意外に音程もちゃんとしている。アンコールでやったCCRの「雨を見たかい」の処理もいいなあ。ジャズのある種のムードをきっちり、プロの行き方として体現していた。

 そんなに伴奏者のソロはない(一度、お召替えのとき演奏陣で「いつか王子様が」を演奏)ためもあり、それぞれの曲は長くない。次々と20曲近くやったか。先にピアノ・トリオと書いたが、ベース奏者は縦ではなく、全編エレクトリックを弾く。まあ、ポップな曲を題材にしていたりすること、必要以上のことはせず堅実なサポートに接するので、ジャズにおいて電気ベース使用は嫌いと言い切るぼくでも、それほど違和感はなかった。ところで、今は米国をベースとするとも伝えられる彼女だが、サポートの男性3人は皆ラテン系の名前で、なんとなくアルゼンチン人的な風貌を持つ。彼ら、何人なのだろ? なお、ソウザを見て、即アルゼンチン出身と思う人はあまりいないと思う。それは、音楽的にも……。

<今日の、略>
 驚きの表明として、外国人はOMGと書いたりもしますね。そしたら、今日のメールのやりとりで、OMBと書いて来た者あり。なんじゃ。そしたら、ぼくが日本人だからガッドじゃなく、仏陀にしてみたとの返事。余計な気配り愛嬌はときにマイナスとなる。そんなことを知った。

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