ザ・ミーターズのギタリスト、リオ・ノセンテリ(2012年9月12日)を中央に置く出し物で、あっという人たちが参加。六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。

 最初、ノセンテリと一緒に、ギャラクティック(2012年7月27日、他)のドラマーのスタントン・ムーア(2012年7月30日)、1980年代にラムゼイ・ルイス(2011年8月22日、他)のバンドにいたベーシストのビル・ディケンズ(6弦を使用)、ザ・ニューオーリンズ・サスペクツというNOLAファンク・ロック・バンド(ザ・ダーティ・ダズン・ブラス・バンド〜2007年5月15日、他〜のテナーやギター、ザ・ネヴィル・ブラザーズ〜2004年9月18日〜のドラムもメンバー)を率いてもいるキーボードのC.R.グラヴァー、パーカッションのスティーヴ・ペリルーが出てくる。あちらでも時に、リオ・ノセンテリズ・ザ・ミーターズ・エクスペリエンスとして、この顔ぶれでやっているようだ。

 最初、ベース機材の不備があって、ノセンテリは延々、1人でカッティング。普段は聞けないはずで、これはラッキー。トラブルが解決し、キメのあるファンク・インストで始まり、ザ・ミーターズの「ファイアー・オン・ザ・バイヨウ」や「シシー・ストラト」などをジャムっぽくやる。ノセンテリは単音でもがんがんソロを取るが、只のギタリストがやったらぼくは拒否反応を示すだろう、それは手癖感たっぷりの閃きにはかける演奏。だが、ノセさんなら許す。ファンとは、そういう場合もある。ムーアは基本マッチド・グリップで叩くが、一部ではレギュラー・グリップでセカンド・ラインを叩き出したりも。また、左手でハイハットを叩き、右手でスネアを叩く(通常は逆)変則演奏も一部でしていた。彼のがちんこに叩く勇士を見ながら、サイモン・フィリップスではなく、彼が上原ひろみのバンド(2012年12月9日、他)に入ればいいのにとも思ってしまったナ。

 その体制で40分強やったあと、さらにザ・JBズ/P−ファンクのトロンボーン奏者のフレッド・ウェズリー(2008年4月1日、他)とP-ファンクのバーニー・ウォレル(2012年7月27日、他)が加わる。そして、まずはウェズリー主導で、「パス・ザ・ピース」と「ハウス・パーティ」をやり、場内はさらに発情。おお、これは乱暴ながら、ザ・JBズ・エクスペリエンス?

 そして、その後はウォレルをフィーチャーしての、P-ファンク・エクスペリエンスの巻。単音シンセサイザー、ハモンド・オルガン、エレピやクラヴィネット音色のキーボードを操るだけでなく、彼は歌も歌う。うち、1曲は「ギヴ・アップ・ザ・ファンク」。“P-ファンク・ロック”とか言ってやった曲は確かにロックぽい。ともあれ、エリスやウォレルが出て来て、2月に公演が予定されているメイシオ・パーカー(2010年2月16日、他)、そしてジョージ・クリントン(2011年1月22日、他)の公演をやっぱし見に行かなきゃと、強く思う。

 最後は、ザ・ミーターズの「ヘイ・ポッキー・ウェイ」。その際、メンバーは客席にネックレスをまく。これ、ニューオーリンズのマルディグラにおけるパレード(2007年2月3日)の流儀。ザ・ワイルド・マグノリアス(2010年8月4日、他)もライヴ・ショウでいつも同様のことをやっていますね。それに触れ、ニューオーリンズはもうすぐカーニヴァルのシーズンなんだと認知。あー、また行きてえ。とかなんとか、面々はうまい感じでまとめて終了。アンコールなしながら、90分は平気でやったな。3つの流儀が継ぎはぎされたショウでうまく一つのカタマリを持った感じで終われるのかあと思っていたら、締めの感じはばっちり也。

<今日の、美術館>
 午後、清澄白河駅が最寄りの、東京現代美術館に行く。“MO+”という、表記もあるのか。なんの略からきているのだろう。そういえば、1980年代後半に初めてNYの”MoMA”(ニューヨーク近代美術館)に行ったときはドキドキしたなあ、なんてことをぽわ〜んと思い出す。今日、寒いなか下町まで行ったのは、10月下旬からそこで“アートと音楽”(総合アドヴァイザーとして、坂本龍一の名が冠される)という出し物をやっていて、それが来月3日で終わってしまうから。出展者のオノセイゲン(2012年6月7日、他)と飲んだときに行くよ〜んとか言っていて、それをなあなあにしてしまうのは、ぼくの主義に反する。セイゲンが坂本龍一(2012年3月28日、他)と高谷史郎と展示したのは、茶室がコンセプトだ。それ、人が並んでいて、中に入るのを断念。ともあれ、いろいろ、世の中になくてもいいものが展示されている。でも、だからこそ、日常から離れたところにある美味しい何かがある。ジョン・ケージや武満徹の1960年代の脱楽譜的楽譜の展示もあった。今の作り手の出し物は、やはりテクノロジーを介したものが多い。もっと、がつんとアナログなアイテムも、ぼくは欲したが。簡単明快だからか、ぼくが一番親しみを持てたのは、セレスト・ブルシエ=ムジュノという1961年生まれのフランス人の出し物。直径15メートルぐらいの底の浅い円形プール(展示して時間が経っているのか、底に埃がたまっているのが残念)に、沢山の大小の白磁ボウルが浮き、それらが機会仕掛けの静かな水の流れでランダムに回り、偶発的にぶつかることでいろんな鳴り音が生じ、明るい会場に響くというもの。知人に言うと、子供ですねと言われた。否定しません。確かに、あの出し物が一番素人受けするかもなあ。ぼくのように駆け込みで来る人もいたのか、場内は混んでいた。幼稚園児だろう集団もいた。皆おとなしく回っていて、騒いだら駄目よとけっこう事前に言われたんだろうなー。その展示物が子供たちになんらかの刺激を与えますように。
 帰り道、駅への道すがら、深川めしを出すお店を複数みとめる。深川めし未体験なぼくはとてもテイストしたくなる。時間的にもかろうじて有余はあったし。だが、ライヴを見た後、どうせ飲み食いするわけだしと我慢。うー、その判断は正しかったのだろうか。

<今日の悲報> 
 なんと、ギタリスト/ヴォーカリストのジェフ・リー・ジョンソンが亡くなった。50歳と55歳の間、死因不明のよう。昨年夏の来日(2012年9月9日)は、アルバム・レコーディングにも参加していたエスペランザ・スポルディングのショウへの同行だった。ジョージ・デュークもいろいろレコーディングに誘うなどお気に入りで(エリカ・バドゥ〜2012年3月2日、他〜も同様ですね)、このフィラデルフィアンを自分の来日ショウ(2004年10月28日)に伴ったこともある。業界スタートはフィリー・ソウルの界隈、1970年代に彼はテディ・ペンダーグラスやザ・デルズらのアルバム録音に関与している。だが、その一方、彼はオーネット・コールマン門下の怪物ドラマーのロナルド・シャノン・ジャクソンのバンドに入ってキレキレの演奏を披露しだす。やはり、ぼくにとってのジョンソンというと、パンク・ジャズ流れにある演奏がまず思い浮かぶ。そんな彼はけっこうリーダー作も出していて、それらは一筋縄で行かなくて、実に面白い。結構、歌もの(一言で言えば変で、傾向外)もやっていて、本当に奇想天外な、アフリカン・アメリカン音楽の素敵な不可解さを存分に持ち続けた愛すべきミュージシャンであった。顔は、根暗ではあったけど。なお、彼の『Thisness』という2000年代半ばのリーダー作に入っている「コンペアード・トゥ・ホワット」(もちろん、レス・マッキャンの有名曲)は多少ハーモロディクス流儀。3月16日(土)に四谷の“いーぐる”で「オーネット・コールマン/ハーモロディック・ファンク再考」というテーマで話をする予定だが、そのとき追悼もこめて、この曲をかけようか。
 残念です、ぼくはあなたの真価の1割もまだつかんでいないかもしれない。

コメント