<スタックス!>は南部ソウルのアイコン、スタックス・レコード絡みの音楽をゆかりの人たちを介して、送り出そうという出し物。南青山・ブルーノート東京、ファースト・ショウ。スティーヴ・クロッパー(ギター)とドナルド・ダック・ダン(ベース)らのザ・MGズ(2008年11月24日)流れのバンドに、スタックスを代表するシンガーのエディ・フロイド(2007年7月18日)が入るという布陣。あ、フロイドはクロッパーやダッグ・ダンがいたザ・ブルース・ブラザーズ・バンド(2009年7月14日)のフィーチャーリング歌手だったこともありますね。

 まずは、バンドが出て来て40分と少し演奏する。ダック・ダンは段差があると手を引いてもらわないと歩行が困難なよう。彼ら白人2人に加え、ドラムのスティーヴ・ポッツ(2012年3月9日、他)と、アイザック・ヘイズ(2007年7月18日)の70年ごろの録音セッションを皮切りにいろんな南部産録音に関与しているオルガン奏者のレスター・スネルという2人のアフリカ系プレイヤーによる布陣。「メルティング・ポット」、「ソウル・リンボー」、「ヒップ・ハグ・ハー」、「グリーン・オニオンズ」、「タイム・イズ・タイト」など、ザ・MGズの代表曲を無理なく演奏。スタンダード「サマータイム」のなるほどォなザ・MGズ味横溢ヴァージョンも披露した。

 その後のアンコールを含めて40分はエディ・フロイド(1937年生まれ)が登場、おお矍鑠、元気。で、次々にスタックス・スタンダードを朗々と歌っていく。「ソウル・マン」(サム&デイヴ)、「634-5789(ソウルヴィル・U.S.A.)」(ヒットさせたのはウィルソン・ピケットだが、作者はフロイドとクロッパー)、「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」(オーティス・レディング)など、そしてもちろんフロイドの当たり歌「ノック・オン・ウッド」(66年R&Bチャート1位)もいさましく。発汗。うれしい。さすが。若い観客が多い事にフロイドは感激したようで、何度もなんども彼女たちを指して「ニュー・ジェネレイション!」を連発する。いやあ、次はフロイドのメインのショウを所望したい。ステージ・マナーを含めて、まだまだ見る価値、山のように持っていた。

 六本木・ビルボードライブ東京(セカンド・ショウ)に移動。かなりな、入り。日本における集客力をちゃんと持つミシェル・カミロ(2011年11月10日、他)のショウを見る。彼が昨年出した『マロ・ア・マロ』(ユニヴァーサル)はドラムではなくパーカッション奏者を起用したトリオ作だが、それは毎度の弾けるカミロではなく、きめ細やかなラテン・ビートの流れとともに退いたスタンスで詩情を愛でんとする内容を持っていて味アリ。ライナーノーツ担当盤ということを抜きにして、新たなカミロの顔を出した秀逸盤とぼくは思っている。そして、半年ぶりとなる今回の来日公演はそのアルバムをフォロウする設定。ようは、ウッド・ベーシストと打楽器奏者を従えてのものになる。

 パーカッションはその新作に入っていた、プエルトリコ出身の名手として名高いジョヴァンニ・イダルゴ。彼はラテン系セッションだけでなく、ポール・サイモン作やグレイトフル・デッド出身のミッキー・ハートの録音にもよく呼ばれている。ベース奏者はアルバム参加のチャールズ・フローレスではなくリンカーン・ゴーインズ。そのゴーインズは80年代以降フュージョン界で活動するようになった奏者でエレクトリック・ベース演奏のほうが良く知られるが、今回はすべて縦で通す。NY居住者であったはずだが、MCではLAに住んでいると紹介されていた。カミロとフローレスは一切譜面を置いてなかったが、ゴーインズは譜面を前に演奏。

 その新作ほど退いたり枯れたりしておらず、快楽的なところをカミロは出してパフォーマンス。それはこのセットだけのことかどうかは察しがつかないが、ライヴだとやはりサーヴィス精神の裏返しで、イケイケ傾向になってはしまうのだろう。そして、パッション溢れる彼の演奏を求めるファンにはそのほうが良かったのかもしれないが。

 ともあれ、やはりイダルゴの一挙一動になにかと注視してしまったワタシ。彼はコンガ6つ、ティンバレス(もちろん、つがい)、シンバル2、カウベル2、金属すだれをセッティングし、思うまま演奏。彼がコンガ音で作る音の波〜ベールのようなものはたいそう気持ちよい。その他、小物も複数おいていたが、あまり使わなかったはず。彼は複数ソロ・パートを与えられ、ときにはカミロも横に来て、鳴りモノをならしたりもする局面もあった。とにもかくにも、やはり興味深く、ありがたや〜。


<1941年11月24日〜2012年5月13 日。ドナルド・ダック・ダン、R.I.P.>
 来日ライヴ最終日(12日)を終えた後の港区のホテルで、ドナルド・ダック・ダンが亡くなってしまった。就寝中のことで、日曜朝に確認されたようだ。ダック・ダンが障害を抱えていたのは知っていたので上に書いたように歩行が少し困難でも驚かなかったのだが(お腹はまた立派になったナとは思ったけど。パイプはだいぶ前にやめていた)、そんなに衰弱しているとは感じなかったし、演奏も普通にしていたはずだ。以下のものは、3年半前にブッカーT(2011年9月11日、他)&ザ・MGズで来たときにした質疑応答。彼はビールを飲みながら対応、ベース・マガジンのためにやったものである(通訳をやってくれた中山美樹さんが雑誌記事用におこした)。ちょうど彼の誕生日の取材で、さすがベース・マガジンの編集者はそれを認知していて花を持っていったと記憶する。取材陣でハッピ・バースデイを歌ってあげたっけ。彼はぼくの歌を聞いている数少ないミュージシャンであるのだな。『ソウル・リンボー』と『アップタイト』のことを半端に聞いているのは、ちょうど再発ライナーノーツを頼まれていたから。いろいろと、ありがとうございます。ご冥福をお祈りします。


●現在はどちらにお住まいですか?
◎フロリダ州だよ。タンパとサラソタのちょうど中間にある小さな町パルメットーに住んでいる。メキシコ湾に面した所さ。AC/DCのブライアン・ジョンソンと友達になったんだ。
●いつ頃まで、メンフィスには住んでいたのでしょう?
◎1990年だ。フロリダに引っ越してからもう10数年になるね。あの頃は息子に会う時間もほとんどなくて……ザ・ブルース・ブラザーズや他のバンドと一緒にツアーすることが多くて、夏を楽しめる場所というのがフロリダしかなかった。メンフィスは年中夏じゃないからね。
●スティーヴ・クロッパーとは幼なじみですが、あなたたちが子供の頃のメンフィスはどんな街でしたか?
◎スティーヴとは6年生の時からの友達だ。他の地域と同じで、ロックンロールが始まったばかりだった。リトル・リチャード、チャック・ベリー、エルヴィスなどが出てきて、俺は彼らの心を奪われたね。子供の頃、鏡を見てはエルヴィスの真似をしていたものさ。みんなやってたから(笑)。10年生の頃までは成績が良かったんだけど、音楽と出会ってからはダメ生徒に成り下がった、あはは(笑)。
●最初はギターを弾いていたけど、スティーヴ・クロッパーの方が上手かったのでベースに転向したという話がありますが……。
◎それは違うよ。実は最初の楽器は子供の頃に始めたウクレレだった。俺は左利きなんだけど、同じ通りに住んでいた友達が右利き用のウクレレを持っていて、俺に貸してくれたから、そのウクレレを弾き始めたのが最初さ。それが右利きでプレイするきっかけとなった。その後ギターにも挑戦したんだけど、ウクレレは弦が4本で、ベースも4本だろう? 俺は4本の方が上手く扱えるのさ(笑)。
●左利き用のベースに変えなかったんですか?
◎うん、変えなかった。俺はポール・マッカートニーとは違うから(笑)。左利き用の楽器は高価だし、俺は左利きに変えられるほど利口じゃなかった。
●左利きが自分のベース・プレイに影響したことが何かあると思いますか?
◎あるかもしれないね。これは良い質問だ。俺の左手はとてもアグレッシヴで、ここでとてもハードに引っ張るんだ。これまで一度もこんな質問をされたことがなかったなぁ。俺は左手がアグレッシヴだと思っていたけど、実は右手も同じくらいアグレッシブなのさ。ほら見てごらん(右手を見せる)。俺はこんな病気になっちまったんだよ。これはデュプリーズ・シンドロームと言って、北アイルランド出身の男の家系で出る遺伝子の病なんだ。俺の親父もこの病気だった。この病気の影響で昔ほどのプレイができなくなってしまった。ブッカー・Tの曲とか、今でも弾くのはできるけど、この病気が演奏に影響するようになっちゃってね。ま、普段は気にしちゃいないよ。専門医に見せたら、もし手術したら治るまで6ヶ月かかるし、ベースが弾けなくなる可能性もあると言われてね。それじゃいいやって手術しないで放っておくことにしたんだ。今日で67歳になったんだけど、こうやっても何も感じない(と右手を強く叩く)。足も同じなんだ。
●家系はアイルランド系ということですか?
◎そう、アイルランド系アメリカ人だね。この病気になった時、最初はベースを弾くせいだと思ったんだ。でも医者に見せたら「これは遺伝ですよ」って言われた。
●ザ・MG’ズで演奏していた頃に使っていたベースは何ですか?
◎もちろんフェンダーだよ。最初のベースはケイだったが。ある日、楽器屋の前を通ったらフェンダーのプレシジョン・ベースがショー・ウィンドウに飾ってあってね。当時の俺にとって最高の車を見たのと同じ感動があったんだ。これを弾いたら絶対にカッコいいって思ったね。だけど、俺は貧乏で買えなかった。でも、兄のチャールズが俺のために買ってくれたんだ。後から兄にお金を返したけど、今でもこのベースは持っているよ。58年のプレシジョンさ。
●当時、いくらしたか覚えていますか?
◎うん、ケース付きで400ドルだった。
●ジャズ・ベースにしなかった理由は?
◎たしかジャズ・ベースはまだ発売されていなかったと思うな。このプレシジョンを5弦ベースと交換しちゃったんだけど、ボブ・タッカーという男がいて……これはかなり面白い話だよ。あるとき、彼が「ダック、あんたのベースを見つけたよ。取り戻したい?」って言ってきた。「いくらだ?」って聞いたら、「250ドルだ」って。だが、あれから値上がりして、一度50,000ドルで売ってくれって言われたことがあった。妻には「俺が死んだら、このプレシジョンを売ってメルセデス(・ベンツ)でも買いな。絶対に俺と一緒に埋葬しちゃダメだ」って言ってあるんだ、あはは(笑)。
●これまで使用したベースの数はどれくらいでしょう?
◎2本くらいだと思うけど……本数は覚えていないけど、全部フェンダーだ。レイクランドもしばらく使っていて、彼らはシカゴのメーカーなんだけど、これもとてもいい。最近は飛行機の機内持ち込みに制限があって、上のキャビネに入るものじゃないといけない。昔のように大きなものを座席の下に置くってことをしてくれないんだ。SKJの新しいケースを手に入れたんだけど、俺はそれにフェンダーを入れて、航空会社に任せるなんてことは絶対にしたくない。他人に任せるには高価なもの過ぎるのさ。だからツアーではレイクランドを使っているというわけだ。もちろん楽器自体も素晴らしいよ。本当にいい仕事だと思う。ニール・ヤングとツアーする時には古いフェンダーを持って行くんだ。(プライベート・ジェットだから)彼のツアーでは安心して楽器を運べることが分かっているからね。でも、いわゆる航空会社の飛行機で移動する時には絶対にフェンダーは持ち歩かない。
●レイクランドのシグネチャー・モデルを作る時に特別にリクエストしたことは何かありますか?
◎フェンダーのプレシジョンのボディにジャズ・ネックを付けてある。これはアッシュウッドで、とても軽量なんだ。俺はもう年寄りだから軽い方がいい。ラベロの弦を張っていて、実はフェンダーが最初のプレシジョンで使っていたのと同じ弦なんだ。ジェイムス・ジェマーソン・モデルと呼ばれていて、フラット・ワンド・ストリングだった。俺もフラット・ワンドを使うんだよ。ハードなプレイをするから、ラウンド・ワンドじゃすぐに切れてしまう。
●60年代のスタックスでのあなたの音を聞くととてもアーシーな音なのですが、最初からあのような音を出していたのですか?
◎俺のアグレッシヴでテンダーで愛情に溢れたサウンドは天性のものだと思う。人生と同じだね。ほら、アグレッシブに生きなきゃいけない時もあれば、優しく生きなきゃいけない時もあるし、愛を与えないといけない時もあるだろう? プレイしている曲によって出る音が変わるのさ。俺はとても感情豊かな男で、それこそブッカー・Tの曲で泣くこともある。オーティス・レディングの曲でもそう。ほんと、何て言ったらいいのか……俺は恵まれているって思う、本当に。さっきアグレッシヴって言ったけど、俺はどんな人にも怒りをぶつけることができるんだ。これが奏を功することもあるんだよ。本当に、状況によりけりってやつだね。これ以上ないくらい愛情豊かになることもある。音楽が俺をそうさせるんだよ。
●あなたの演奏を聞くと、周りの人の音をよく聞いて、流れに乗って、他の楽器と会話しているような印象を受けます。
◎そうだな、俺がバンドでプレイする時はちょっとばかり複雑なのさ。音楽を聞く時、(下から上へ)ドラム、ベース、ギター、キーボード、ストリングス、ホーンと色んな楽器が重なってくる中での自分の立ち位置を音楽としてブレンドする所に置くんだ。だから強めにプレイしなきゃいけない瞬間もあるし、ソフトにプレイしなきゃいけない時もあるし、その中間のプレイを求められることもある。自分のことをチーム・プレイヤーだって捉えているね。チームの一員としてプレイしようと努力しているのさ。もし間違ったプレイをしてしまったら、それが奏功することもあれば、明らかな間違いになることもある。
●今のお話を聞くと、プレイヤーでありながらもアレンジャーの感覚も持ち合わせていたように思いますが……。
◎う〜ん、俺はあまりプロデュースはしなけど、プロデュースする時にはアレンジャーになるように努力するね。でも、アレンジャーとしての能力はないと思うな。ブッカー・Tみたいなって意味でね。俺は曲を作らないから。でも音楽を愛しているし、どんな音が合うのかが(本能的に)分かる。それが他人よりも秀でている点だと思うな。
●若い頃に他のベーシストにこれは負けないゾと思ったことは何かありますか?
◎そうだな、みんなのケツを蹴ることかな(笑)。それが上手くいけば仕事になるけど、失敗すればクビになる。
●最も影響を受けたベーシストは誰でしょう?
◎最初に影響を受けたのがB.B.キングのベーシストで名前を覚えていないんだ。「スウィート・シックスティ−ン」をプレイしたベーシストさ。その後がラムゼイ・ルイス・トリオのエルディー・ヤングで、彼はスタンダップ・ベースとチェロを弾く。俺はちょっとだけスタンダップ・ベースをやったことがあるけど、話にならないくらいひどいんだ。あとレイ・チャールズ・バンドとか、ハンク・バラッドとか、とにかく自分が聞いたレコード全部から影響を受けたよ。俺はみんなと同じでヒット曲が好きだったし、ヒット曲を聞いて感動もした。誰がプレイしていても関係ないのさ。(エルヴィスの)「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」とか、ジェイムス・ブラウンの『ライヴ・アット・ザ・アポロ』とか。俺は単純に音楽が大好きってことなのさ。
●60年代のスタックスでは、レコーディングは一発撮りだったと思うのですが、それによって能力が向上したと思いますか?
◎あの頃は……最初にあったのが1トラックのマシンだった。その後2トラックが出てきて、最終的に4トラックが出てきてやっとオーバーダブが出来るようになったんだ。その段になって初めて間違ったらオーバーダブできるって環境になった。そのおかげで間違いを直せるようになったけど、アクシデントでプレイしてしまった間違いが最高のプレイだったりするんだよ。自分でもそんなに凄いプレイしたなんて気付かないでね(笑)。どんなに良いプレイをしようと努力しても、アクシデントでやったプレイに負けることがある。(ザ・MGズのドラマー故人)アル・ジャクソンが今の俺を作ったんだ。彼こそが俺が今まで一緒に仕事をした人の中で最高の人間だ。もちろんそれ以外にも数々の素晴らしいドラマーたちと共演したけど、アルがビートの上にいることを教えてくれたのさ。みんながアルと共演する機会に恵まれたらいいって本当に思うくらい彼と一緒にプレイすることは価値があるんだよ。
●やはりベーシストにとって最も重要なのがドラマーということでしょうか?
◎これは何度も言っていることだが、アル・ジャクソンはスタックスのジェイムス・ジェマ−ソンなんだ。本当に彼は最高で、俺にベースのいろはを教えてくた。ジェマーソンはモータウンの秘密兵器だったろう? スタックスの秘密兵器がアル・ジャクソンってこと(笑)。
●では、ジェマーソンについても一言を。
◎ザ・ベストだね。彼の音楽はよく聞いたし、すごく驚いたけど、彼のプレイをコピーすることができなかった。彼のプレイを少し拝借することはあっても、俺はコピー・キャット系のプレイヤーにはなれない。彼が奏でる音符じゃなくて、彼独特のフィールを拝借したかな。
●スタックス時代の演奏で今でも心に残っているものは何かありますか?
◎オーティス・レディングとの全ての演奏だね。スタックスのアーティストは全員素晴らしかったけど、オーティスは別格のヒーロー的存在だった。それこそエルヴィスやフランク・シナトラやバーブラ・ストライザンドみたいなスターだったのさ。
●ずっとオーティスのサポートをやっていましたが、67年くらいからライヴではザ・バーケーズがバック・バンドを務めるようになりましたよね。
◎当時の状況は、ブッカーT&ザ・MG’sがレコードで演奏していたんだ。でも俺たちはオーティス以外にサム&デイヴ、ジョニー・テイラー等のレコーディングもしないといけなかった。そこでツアー・バンドとしてザ・バーケーズを雇ったわけだ。
●同年暮れに、オーティスが飛行機事故で他界した時、同行していたザ・バーケーズのメンバーの多くも犠牲になってしまったわけですが、ザ・MGズのメンバーがもし一緒にツアーをしていたら……
◎俺たちも死んでいたね。あれはウィスコンシンでの事故だった。
●あの事故の知らせを聞いた時はどんな気持ちでしたか?
◎なるべく短く説明するけど……実は、あの時ザ・MGズはオハイオでプレイしていたんだ。たしかクリーヴランドだったと思う。当時は携帯電話がなかったから、俺は公衆電話から妻に電話をかけたんだ。そしたら妻が「さっきオーティス・レディングと彼のバンドが事故で死んだってニュースを聞いたの」って言った。彼女はオーティスのバンドがザ・MGズだと思っていたらしいんだよ。だから「俺たちじゃないよ。ザ・バーケーズだよ」って彼女に教えたんだけど、俺たちはザ・バーケーズの連中が大好きだったのさ。彼らは若かったけど、本当に素晴らしいミュージシャンだったし、スタックスの次世代のスターになるべき連中だった。
●オーティスらのシンガーのサポートで演奏するときとザ・MGズとしてプレイする時では、多少は弾き方を変えたりしたのですか?
◎演奏は変えなかったよ。たしかにアティチュードやフィーリングは少し変えたけどね。「グリーン・オニオンズ」と(オーティスの)「愛しすぎて」では状況がまったく異なるから。
●オーティスの死後にアトランティックはスタックスとの関係を切ってしまい、それによりスタックスの雰囲気はかなり変わったようですが。
◎俺の部分ではビジネス面での関わりがまったくなかったし、すべての決断はジム・スチュアートやジェリー・ウエイクスラーに委ねられていた。最近ジェリーのお葬式に行ったけど、彼は本当に最高の人間だったよ。とにかく、俺はビジネス面のことはまったく知らなかったし、音楽を演奏していただけなんだ。
●ロブ・ボウマンのスタックス本(「スタックス・レコード物語」シンコー・ミュージック刊)では、あなたはアトランティックが離れる前の同社の”ビッグ6”の一人だったと書かれていますけど……。
◎(後ろから「実はナンバー1だったんだよ」と声がする)いやいや、そんなことは絶対にないよ!(笑) マジで……俺は……6番目さ、がはは(爆笑)。
●アトランティックと切れた後の新生スタックスの1枚目が『ソウル・リンボー』だったのですが、これはどんなアルバムだと思っていますか?
◎お気に入りのレコードだ。『ソウル・リンボー』はお気に入りの曲で、どれだけ好きか、何故好きかは俺のライブを見たら分かるよ。理由の一つを教えると、「ソウル・リンボー」はどんな曲よりもステージで楽しくプレイできる曲なんだ。これは俺の個人的な意見で、きっとブッカー・Tやスティーヴは違う意見だと思うけどね。俺はこの曲が大好きなのさ。
●次に出た『アップタイト』はどうですか?
◎「ソウル・リンボー」ほどの楽しさはないかもしれないな。アルバム全部大好きだけど、とにかく「ソウル・リンボー」をプレイするとオーディエンスの腰が動き出す。それが楽しいんだよ。
●ザ・MGズは68年頃が単独のバンドとしては一番熱気があったように思うのですが、どう思いますか?
◎68年ねぇ。あの時はオーティスとヨーロッパ・ツアーを終えた後で、それまで、自分たちが世界的に有名になっていたことなんてまったく知らなかったのさ。それで、俺は「俺たち、かなりイケてる」って思ったんだな(笑)。
●後年、ボブ・ディランやニール・ヤングなどと一緒にやっているわけですが、現在でも「スタックスの」とか「ザ・MGズの」という形容詞が付くことをあなたはどんなふうに感じています?
◎俺にとっては名誉なことだし、誇らしいよ。それに共演したアーティストたちからも尊敬されている。ニール・ヤングやエリック・クラプトンやボブ・ディランはみんな良い友達だし、彼らから尊敬されるなんて本当に嬉しいことなんだ。喜んでみんなと演奏するよ。ロックの殿堂にブッカーT&ザ・MGズが入った時、「これ以上何を望めるっていうんだい?」って思ったもの。
●もしメンフィス生まれでなく、ベースも弾いていなかったとしたら、今あなたは何をやっていたと思いますか?
◎ゴミ収集人だね(笑)。子供の頃に学校の先生に「ドン、お前はゴミ収集人になるぞ」って脅かされたもの、あはは。
●生まれ変わってもベーシストになりたいですか?
◎これも面白い質問だ。今まで聞かれたことがなかったな。う〜ん、(しばらく考えて)、うん、ベーシストだね。それももっと上手い奴。
●スタックスのサウンドを言葉で表すとしたらどう表現できるでしょう?
◎(しばらく考え込む)ミシシッピ川があるから生まれた音だとか、南部特有の音があるから出来上がった音とか言う人がいるけど、俺には言葉で表すことはできないな。ブッカーT&ザ・MGズに関して一つだけ言えることは、音楽の中に特別な色というのが一切ないってことだね。すべて俺たちの心から生まれたものなんだ。みんなお互いが大好きだし、一緒にプレイするのが大好きで、それこそが俺たちのやっていることなのさ。音楽とかミュージシャンの本質ってそういうことだと思うよ。
●最後に、若いベース奏者へのアドヴァイスをお願いします。
◎俺のアドヴァイスは……音楽を愛せってこと。そして音楽をしっかりと聞くこと。俺がジェマーソンのフィーリングを拝借したように他のプレイヤーからプレイを借りることもOKだけど、絶対自分を失わないようにしろ!

コメント