まず午後一、京橋テアトル試写室で、2010年スペイン映画を見る。監督は大御所のカルロス・サウラ(1932年生まれ)、スペインの文化や風土と結びついた映画をいろいろ録っている彼は95年にフラメンコを扱ったその名も「フラメンコ」という映画を作っているらしく、今作はその続編にあたるものだという。

 フラメンコ・ダンスの足ステップ音(やはり、アイリッシュ・ダンス〜タップ・ダンスともつながりますね)とタブラ音が重なる間(ま)を抱えたビート音に導かれる現代建築美を映したオープニング映像に何気にふふふ。そして、以下は、シンガー、演奏者、ダンサーなどによるスタジオ内パフォーマンス(観客なし)映像が23組並べられる。ほんと、それのみ。演奏者の名前や楽曲は出てくるが、いっさいナレーションやテロップなどの情報は入らない。おお、潔い。それだけ、音楽やパフォーマーの質や訴求力に自信あり、ということか。

 23組は、それぞれ別の担い手による。編成もまったくいろいろ、様々な組み合わせの出し物が出てきて、それは一人から大集団まで。ダンサーだけの場合もある。資料には<生命の旅と光>をテーマにしていると書かれてあり、それについてぼくはよく理解しかねるが、とにかく、いろんな編成や形式を持つフラメンコのパフォーマンスを幅広く集め(この映画のための、特別編成もあるのかな)ているのはよく分かる。野卑なほうのパターンはほぼ出てこないが、それは映画がフラメンコの持つ芸術性みたいなのに焦点をあて、提示しようとしているからではあるだろう。音楽監督はイシドロ・ムニョスという人がやっている。トマティート(2011年11月10日)やロシオ・モリーナ(2005年5月17日)ら、ぼくが日本で見たことがある人も登場。1曲目に出てくるダンサーはトマティートの娘だという。オーチャード・ホールでだいぶ前に見た事があるホアキン・コルテスもこの映画にはぴったり合いそうだが、出てこなかった。

 なんか自己陶酔の極み、人間力全開みたいな表現群がてんこ盛り。最初は映像撮影の設定が“白い”なあなぞと、ちょっと退いた感じで見ていたのだが、そんなぼくを引き込んだのは、今を生きるフラメンコの様々な表現をきっちりと伝えてくれたからだと思う。もう、見ていて、足踏みしたくなったり、かけ声をかけたくなったり。音楽に興味を持つ人なら、たいがいの人はそうなるに違いない。が、映画ファンだとどーなのか。本当にこれ、純音楽映画だもん。隣に座っていた女性はずっと寝ていた。

 映画の最後は、演奏しているスタジオからカメラがその模様をおさえつつどんどん退いていき、スタジオが設置されていた近代的造形を持つ建物をなめていき(冒頭映像は、それだったのですね)、さらに屋外に出て行き、建物の前にある大きなパラボラ・アンテナを映す。フラメンコは今とともにある表現であり、それはユニヴァーサルに発信されるものという意図が、見事に具視化されていると思った。

 そして、続き東銀座・松竹試写室で、「オレンジと太陽」という映画を見る。英国人ケン・ローチ監督(1999年5月10日、参照)の息子、トム・ローチが監督する一作。事実をもとにする映画だ。

 施設にいた子供たちが、親にも知らせられず、4世紀にわたって慈善の名のもと、海外に集団移住させられていた。そして、子供たちは移住先で、過酷な労働や性的暴行をしいられるなど酷い環境にもおかれた。1970年まで続いたそれで、非人間的に扱われた児童数は13万人にものぼるという。とくに、白豪主義をとり白人の数を増やすことを是としたオーストラリアに連れていかれた数は多かった……。そうした事実を1987年に知った英国ノッティンガムのソーシャル・ワーカーを勤める女性の英国と豪州を行き来する真心の活動を扱った映画(その原作は「からのゆりかご」という翻訳本となっているよう)。これを見ると、その事実は本国でも本当に知られておらず、葬られていたみたい。ながら、この映画が完成した2010年に、英/豪の両首相から児童移住についての公式謝罪がリリースされたという。

 え、そんなことが実際にあったなんて、という重いテーマを丁寧に(ながら、孕む要件は膨大なため、少し駆け足的とアタマのほうは感じた。テンポがいいとも、言えるのかも知れないが)、説得力たっぷりに映像化する。真摯にして、力を持つ映画だな。

 映画でけっこうハマった(ときに既知感を持つ)映画音楽音をつけているのは、4ADからポスト・ロック的表現を送り続けたデッド・カン・ダンスの2分の1であるリサ・ジェラルド。ぼくは知らなかったが、けっこう彼女は映画音楽の売れっ子みたい。資料にはNHKの大河ドラマのテーマ曲も作っている、なんても書いてあった。基本、映画は彼女が作った散文的なインストが終止用いられるが、目立つ感じで車から流れる音楽として使われるのは英国人シンガー・ソングライターであるキャット・スティーヴンスの71年ヒット曲「ワイルド・ワールド」。ジミー・クリフ(2004年9月5日、2006年8月19日)の名カヴァーでも知られる同曲はクロージングでも流される。映画中には児童移民に深く絡んだキリスト教会や慈善団体側の活動妨害の様も描かれるが、スティーヴンスは90年代中期にイスラム教に傾倒し(ユスフ・イスラムと改名もする)モスリム活動家となった人物であるのは単なる偶然か。そんなキャリアを持つゆえ、9.11があったとき、スティーヴンスは少しバッシングを受けたとも記憶するが。
 
 話は戻るが、ディレクションが的確なのかもしれないが、皆さん演技がうまい。とっても、そう感じさせる映画でもあるな。実は、この日はワケあって早朝4時に起きちゃって睡眠不足気味。これで、暗がりの場にいたら寝ちゃうんじゃないかと思ったりもし、行くかどうかお昼近くまで迷っていた。が、両方の映画ともに、ぼくは引きつけられ、その危惧は杞憂だった。

 ちょいと銀座をふらつき、その後はダニエル・ラノワの公演に向かう。80 年代前半にブライアン・イーノと懇意になりエンジニアとして名前を出すとともに、同中期以降はU2(2006年12月4日)やザ・ネヴィル・ブラザーズ(2004年9月18日)他の印象的な音像を持つ大物のリーダー作のプロデューサーとして一躍名前が知られるようになり、同後半からは渋味シンガー・ソングライターとしても何作もリーダー作を出している人物。ギターを弾いて歌う彼に加えて、ベース奏者とドラマーによる出し物だ。

 六本木・ビルボードライブ東京、ファースト・ショウ。ビルボードライブのある六本木ミッドタンにはスケートリンクがあるが、冒頭MCでラノワは、カナダ人なのでスケートリンクがあると安心する、みたいなことを言っていた。そう、彼はカナダ人、ジージャンに帽子をかぶった(前から光を当てないので、顔はあんましよく分からない)風体は田舎のただのひげ面のおっさん(多少、ごぎれい)という感じ。で、カナダ人らしく、開演前(閉演後も)にはザ・バンド(メンバー5人中4人がカナダ人ですね)を流すが、パフォーマンスが始まると、ザ・バンド大好き人間なんだなというのがよく分かる。ほとんどの曲でベース奏者が寄り添うように全面的にハーモニー・ヴォーカルをつけるが、それも複数の人間が歌っていたザ・バンドを想起させるし、頭のほうのブライアン・ブレイド(2011年5月11日、他)のドラミングもザ・バンドの含みあるツイン・ドラムのあり様を一人でやっているような感じもあった。あ。こじつけかなー。

 アーシー&訥々路線を、1時間15分。それにしても、ラノワは勘所をつかみ、悠々にして堂々。歌もCDで聞くよりちゃんと声が出ているような気がしたし、ギター演奏も妙味を持ちつつ雄弁。中盤では、スティール・ギターでインスト曲をやったりもした。後半はよりギター・パートを長く取り、ニール・ヤング(2001年7月28日。彼もカナダ人ですね)濃度が高くなったと思わせたか。そんな彼は親指でギュンギュン弾く場合がおおい。ま、なんにしてもエンジニア/プロデューサーがミュージシャン活動も始めたというよりは、ミュージシャンが裏方もやっていたらそっちで有名になってしまったと捉えたほうが適切なんだろうな。

 そういえば、ベース奏者のジム・ウィルソンもサム・ピックでぐりぐり演奏。彼はミレニアム前後からヘンリー・ロリンズと活動をともにするようになった米国西海岸トリオ・バンドのマザー・スーペリアーのメンバーであると告知されているが、ザ・スパークス(2009年4月23、24日)のレコーディング/ツアーに参加もしているとされる同バンドのジム・ウィルソンはギター奏者だし、あまりの音楽性の差異を認めるにつけ、同名異人ではないかとぼくは感じてしまったが。日本で言うなら、山田太郎みたいな名前だしなー。

<今日の、ウヒヒ>
 映画「フラメンコ・フラメンコ」についての追記。高尚目パフォーマンスを納める映画中にはその様は写し取られていないが、フラメンコにある送り手と受け手の阿吽の呼吸の関係は、日本の歌舞伎のそれと同質のものではないかと思う。やっぱ、芸術ではなく芸能、ですね。映画日本版には歌詞訳が字幕で入れられるが、目に入ってきたそれを見て、大笑いの一幕も。字幕のうろ覚えで正確ではないが、ある曲は……。
 <人は俺のことを“いかれポンチ”と呼ぶ/人は俺のことを“いかれポンチ”と呼ぶ/それは、俺が無口だからだ/でも、これからはこう呼んでほしい/危ない”いかれポンチ”と>。なんだこりゃ、ですね。また、別な曲では、さんざん<君の髪は絹のよう。君の口は、君の瞳は○○のよう。君に魅了されない人間がいようか>とか、もう歯がうきまくりの甘〜い讃え文句を並べていると思ったら、急に<命令だ命令だ命令だ命令だ/これはお上のお達しと同じなんだ/小さな家を借り、おまえは一緒に住め>という内容の歌詞が続く。このアメとムチの使い分けは、ヤクザなヒモ獲得のための方策そのものではないか。

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