NYのある種の不思議〜素敵を口惜しいぐらい体現するプロデューサー(2000年1月12日、2001年5月15日、2003年8月9日)の久しぶりの来日公演。ブルーノート東京、セカンド・ショウ。相変わらず、超党派と言いたくなる、顔ぶれは興味ひかれる。オラシオ“エル・ネグロ”・エルナンデス(2009年11月12日、他)とロビー・アミーンの決定的ツイン・ドラム・コンビ(2004年4月5日、他)、リッチー・フローレスとルイシート・キンテーロのツイン打楽器、チカーノ現代歌謡バンドのケッツェル(2000年8月3日)に入っていたこともあるジュニオール・テリー(縦)とルー・リードや故ロバート・クワインのバンドでおなじみのフェルナンド・ソーンダース(電気)のツイン・ベースを柱に、さらにはサックスのヨスバニー・テリー(2007年11月21日、2010年8月3日)、ギターのブランドン・ロス(2011年5月5日、他)、ピアノのジョン・ビーズリーや80年代からハンラハン表現に関与していたアルフレード・トリフ(ヴァイオリン)という演奏陣による。
とにかく、ツイン・ドラムとツイン・パーカッションの重なりは妙味ありすぎ。それに比すると、ツイン・ベースの絡みは面白味があまりないが、とのかく、ラテン的本能と閃きが自在に綱引きするそれだけでも90分は持つはず。ながら、強靭さだけでなく、華麗なパス・サッカーもやりたいハンラハン(笑い)は多少の仕掛けや展開や詩情を折り込み、非ラテン文脈にあるヴォーカルも多大に噛み合わせる。歌は、ロス、ソウンダース、そしてパリで活動する鋭敏現代ジャズ歌手のユン・サン・ナも同行するはずだったが、体調不良とかでマイア・バルー(2010年7月11日、他)が代わりに担当。彼女、自分の味を出しつつ健闘してたな。さすが。あと、打楽器奏者も一人歌ったっけ? 歌う人はそれぞれに自分の味を発揮、ロスとバルーはけっこうシアトリカルな面も前に出していた。それ、ハンラハンの意向によるべきものと思う。
ハンラハンはちゃんと頭から終わりまでステージ上にいて、ちゃんとバンド員紹介もする。いままで見たなかで一番人間的か。ではあっても、初めて見る人には、なんのためにあの太ったおじいちゃんはいるのと、やはり思えたそうだが。彼、今回は奥さん同伴で来日したようだ。
<2007年の、ハンラハン>
以下は、『ビューティフル・スカーズ』のプロモーションで来日にした際に行った、ハンラハン(1954年、ブロンクス生まれ)へのインタヴューである。2007年4月25日、イースト・ワークス社屋にて取材。媒体は、シンコー・ミュージックのThe Dig誌。話は、その際に編集者が見本誌として持参した号で特集されていたボブ・ディランやスライ・ストーンの話から始まった。
キップ・ハンラハン(以下、●)ディランとはインタヴューしたのかい?
◎いえ。
●ディランとはやらなかったんだ。スライ・ストーンは取材したかい?
◎やっていません。
●スライには誰も取材していないからね。たぶんスライ・ストーンはここ35年、取材を受けていないのではないかな。ディランはインタヴューを受けているし、素晴らしい取材を読んだこともある。最後にディランが来日したのはいつなの?
◎2001年ですかね。あなたは、ディランとかスライは聴いてきた人だったのですか?
●スライ・ストーンは、もうあちこちで流れていたからね〜、こちらが聴きたかろうがなかろうが。スライ・ストーンは誰もが聴いてきたみんなの(人生の)サウンドトラックのようなものだったから。ディランに関しては、僕はちゃんと聴いてきたよ。アメリカでは彼もインタヴューを受けているし、いつもツアーを行っている。彼の取材はちょっと捻くれた応答をしているものがあるので面白いよ。心の底から自分の気持ちを誠実に述べている瞬間があったかと思えば、意図的に嘘を言ったりするんだ。かと思えば、わざと屈折したようなことを言い出す。あまのじゃくなことを言いたくて、敢えて発言していることもある。
◎ディランは言葉でそういうことをするかもしれませんが、あなたは音楽で同じようなことをやっているのではないですか?
●僕もそういうふうに、わざと逆なことをやっているかなあ……まあ、案外あるのかも? 自分では分からないので、ちょっと考えてみないといけないね。そういうことがあったとしたら、それはディランから影響を受けているのかもな。
◎80年代初期にあなたのアメリカン・クラーヴェを知って、「もう、この人は何をしているんだ!」と思いましたよ。あなたは、“ニューヨークの不可解”の象徴でした。
●別に、僕は意図的に“ミステリアス”であろうとしていたわけではない。ディランがやっていることは、意識的な部分があるかもって思うがね。人生においてディランから学べることはたくさんあるが、“ポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを起用しながら大変パーソナルかつディープなことがやれるのだ”ということも、彼から学べることの一つだね。彼の取材や本を読んでもらえれば分かると思うが、もの凄くクリアでもありつつ、その一方で屈折したことが読み取れる。彼は、それを意図的にやっているんだ。
◎ディランは言葉を使ってそれをやってのけたと思うのですが、あなたは不可解な音やミュージシャンを使うことで普遍的な美しい瞬間を作り出していると思います。
●僕の音楽が普遍的かどうかは分からないが、小さい頃から聴いてきたポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを使うことが自分に大変しっくりくるんだ。だが、それが普遍的か否かは分からない。ディランの音楽の普遍性は、彼がアメリカのフォーク・ミュージック形態でやっていることにあると思う。シンプルなコード・チェンジにジャズ・ヴォイシングを組み合わせ、意図的にヴォイスのトーンを大変パーソナルなものにしている。薄っぺらなプロ意識でプロテクトすることなくヴォイスを曝け出しており、彼のヴォイスとリスナーの間には他の何も入り込む余地がないんだ。彼は極めてパーソナルなヴォイスの持ち主だ。そして、彼はそのヴォイスでパーソナルでディープなことを言ったり、時に屈折したことを表現している。余り直接的にならないように、敢えて捻くれたものの言い方をしたりするのだろうな。だが、彼の使っているコード・チェンジ自体は、特にアメリカにおいてはかなり普遍的なものだ。普遍的な音楽の最も根本的な図式とでも言おうか。僕の場合も自分が聴いて育った音楽を取り入れているが、それはブロンクスで聴いていたラテン・ミュージックであったりするので、余り普遍的な音楽ではなかったよ。それにニューヨークの音楽自体が、ニューヨーク以外の場所からすればかなり特殊なので、余り普遍的とは見なされないんだ。
◎アメリカ人に対する違和感……アメリカに住むことの違和感……アメリカ人であることの違和感みたいなことを、音楽を通して表現しようという意識を感じたりもしますが。
●第二次世界大戦後に世界は、資本主義社会の言語、アメリカ訛りの英語に支配されるようになった。そしてデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックがロックだった。それは西アフリカ、イエメン、ヴェネズエラ、ヴェトナムに至るまで聴かれるようになり、フェンダー・ギターを使い米国音楽流コード・チェンジ/リズムでプレイされた音楽が普遍的なものとして受け取られるようになった。だが、ここ15年間にちょっと変化があったね。世界中のデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックは〜言語部分はアメリカ訛りの英語であることに今も変わりはないけれど〜“音楽部分”はヒップホップになったと思う。だからアメリカが何でもかんでも破壊しているときのサウンドトラックは、今やヒップホップだと思うな。
ニューヨークに関してだけど……アメリカ人はニューヨークをアメリカの一部と見なしていないと思うんだよ。ニューヨークには独自の生活速度や言語がある。そして特殊な“言語”とでも言うべき音楽もある。だからアメリカ広しと言えども、ニューヨークのような場所は他に存在しないんだ。全てにおいて実に特殊だからね。ニューヨークを離れて初めて、如何にそこが違っていたか気付く人も多いし、ニューヨークに来て、そこが余りに違うので驚く人もたくさんいる。だから、僕は自分が聴いてプレイしてきた音楽も含め、あまり自分のことを“アメリカのミュージシャン”とは見なしていない部分がある。僕は自分が“ニューヨークのミュージシャン”だとは思っているし、ブロンクスのミュージシャンでもある。だが、“アメリカのミュージシャン”とは違うように感じている。ディランにしても、いわゆるアメリカのミュージシャンがプレイしているものに反したことをやっていると思うよ。ボブ・ディランが素晴らしく、そしてある意味屈折していると思うのは……アメリカのフォーク・ミュージックに深く根ざしベーシック・アメリカン・ミュージック・スタイルでプレイしていながらも、彼は僕と同じくユダヤ人であるが故に、そういう行為そのものすら屈折していて、ある意味騙しが入っていると言えるんだ。ほとんどのアメリカ人にとってユダヤ人はアメリカ人と見なされていないからね。実際、それは世界中でも言えることだが。表面的な扱いはともかくも、ユダヤ人は厳密に言えば……本当のアメリカ人だとは思われていないんだよ。ディランはそれを百も承知で、それに対抗しながらいつもプレイしているのだと思う。最もアメリカらしい音楽形態を用いながら、彼はそういう形でプレイしているんだ。
先に、僕の音楽に君がある種の緊張感を感じてくれた等のコメントをしてくれたが、僕が使っている音楽的言語〜そして音楽の中で自分が個人的にとても強い気持ちで言わんとしていること〜そういうものは、音楽の中に表現されて聴き手にも伝わるものなんだ。音楽を聴いていると、その背後にある意図や強い感情はしっかりと聴き手に伝わる。だから我々ミュージシャンとリスナーの両者は“音楽的言語を分かち合っている”と言える。だから、君は“アメリカ人”ではなくても“ニューヨーク”の音楽言語を理解/シェアして聴いてくれており、その背後に表現されている強烈な感情を分かってくれたのだと思う。
◎そうだと思います。
●80年代に僕の音楽にどうして興味を持ったのかな?
◎当時、ぼくはジェイムズ・ブラッド・ウルマーが好きだったり、デイヴィッド・マレイ(2003年8月9日、2004年6月6日)がレコーディングに入っているとか、アヴァンギャルドなジャズ・ミュージシャンが入っているため強い関心を持ってあなたのレコードを買ってみたんです。そしたら、そこにはもっと多方面のミュージシャンが収録されており……こんなにいろんな要素が入った音楽を作るキップ・ハンラハンとはどんな人なんだろうと思いました。そして、絶対にこういう音楽はNY以外では生まれないと思いました。
●デイヴィッド(・マレイ)のことは知っているかい? 彼とは1975~6年以来、とても付き合い辛い友情が続いているね(笑)。彼とは同じ年齢くらいなんだ。他の人たちと比べて、僕は自分のことをさほど“ミステリアス”だとは思っていないよ。もちろん僕は僕なりにダークなものがあるが、君も君なりにダークだったりするだろう? だが自分名義で作っている音楽は時に大変パーソナルなもの故に、それを表現するためには多くのヴォイスを必要とすることがある。そういう緊張感があるパーソナルな作品のときには、むしろ僕は自分自身を余り前面に押し出したくない。自分のイメージがグループの中にブレンドして薄れてしまうほうが良いんだよ。そもそもその“グループ”自体も、僕の内部にあるヴォイスを代弁しているんだ。だから自分のイメージをやたらと中央に持ってくることなく、グループのイメージに溶け込んでいることが望ましいんだ。
◎あなたはアメリカ人なのに珍しく大変熱心なサッカー・ファンであり、サッカーの監督が選手を動かすように自分の音楽を作っていると聞いたことがあります。
●それは本当にそうだよ。だから、僕はいつも11人編成でやっているんだよ(笑)。僕かゴールで、ドラマーがディフェンダーで、シンガーとサックス奏者がアタッカーだったりするのかな。だが、自分の音楽やバンド、特にジャック・ブルース等とやっているものは、それとは別物でちょっと難しいね。つまりそういう場合はチームでプレイして勝利することが目的ではなく、彼らのやるべきことは僕が明確な意図を持って書き上げたエモーションを分かち合い表現することにあるのだから。“コンジュア”や“ディープ・ルンバ”のときは僕もチームの一員であり、彼らもその(音楽の)枠の中でプレイするので、彼らはその音楽において“僕のこと”を表現する必要はないんだ。感情的な表現をするのはシンガーの役割だったりするからね。でも、君の言うことは正にその通りだよ。どこで聞いたの?
◎僕もサッカーが好きなので(笑)。
●そうなのかい? どのチームが好き?
◎今はテレビで見れるので、スペインのが一番好きなんですけど。プレミアも好きです。
●ほう、僕はイタリアのリーグが一番好きだったが、今はスペインとイギリスかな。でもスペイン・リーグを見ているともう頭がおかしくなってしまうよ! レアル・マドリードとバルセロナの対戦とかね。バレンシアやラコルーニャも健闘しているが、今は僕はセビージャを応援しているよ。やっと均衡関係が壊れてきたように思う。ところで君も、サッカーをプレイしていたの?
◎中学の頃ですね。あとは30歳の頃に二つのチームに所属していました。
●今30代じゃないの? 何歳なんだい?
◎もう、50が見えてますよ(笑い)。
●本当? じゃあ体を大切にね。僕は自分の体調管理を怠ってしまったので、今はそういう自分に怒りを覚えているよ。どこのポジションだったのかい?
◎若いときはフォワードをやっていたのですが、30過ぎてからは、自分がディフェンダーの方が得意なのが分かりました。それで、自分が受身な人間なのかなあと思ったり。
●受身な人はディフェンダーに合わないんじゃないか? 優れたディフェンダーは上手く騙してくるからね。僕もディフェンダーだったから分かるんだ。
◎監督は自分の考えのもと好みの選手を選び、ときにそれは賛否両論を呼んだりするわけですが、あなたがプレイヤーを選ぶときのポイントは?
●ケミストリーと同じことだね。実際に、僕は娘のサッカー・チームの監督を務めたことがあるよ。そのリーグ中、サッカーの知識を持っていたのは僕だけだったにも拘らず、結局全試合負けてしまった。だから、酷い監督だったのさ。ぐうぜん勝つこともあるかと思いきや、それすらなかった。女子のチームだったが彼女らはドリブルも出来たし技術もあったのに、どうして勝てないんだろう? と娘に尋ねたら「(チーム・メイトたちにとって)お父さんが怖くないからよ。お父さんが好きなんだもん」と言うんだ。音楽の場合は、僕のことを怖がっている男は長くバンドで続けていられないようだね。僕と同じ情熱を分かち合い、“勝ちにいく”人が自分のメンバーとして残っていると思う。プレイヤーを選ぶときのポイントだが、勝っているサッカー・チームを見てると、必ずしもスター・プレイヤーがいるところばかりではない。音楽にしても技術があるミュージシャンばかり集まれば良いというのでもない。何より大切なのはエモーショナルなケミストリーなんだ。チームとして同じように呼吸して、スムーズに音楽の流れをやることが出来て、そして緊張感をシェアすることが出来れば一緒にやれるんだよ。2音だけプレイするような音数少ないタイプと、やたらと音数が多いタイプのプレイヤーだって共存できるし、そういうことは問題ではない。技術のレヴェルが違うことも別に問題ではない。互いのエモーションにケミストリーがあるのかどうかが大事なんだ。
◎そもそもラテン・ミュージックとサッカーにハマったのはどちらが先だったのですか?
●サッカーだよ。僕はもうサッカーを夢みているからね。
◎最初はサッカー・プレイヤーになるのが夢だったのですか?
●そうなんだ。僕はセミ・プロになったよ。だが、もっと先に進もうと思った矢先に足首を痛めてしまった。
◎あなたが少年だった頃、アメリカにおいてサッカーはそれ程ポピュラーなスポーツではなかったと思いますが?
●ポピュラーではなかったね。
◎それも、アメリカに対する反感のようなもの?
●今思えばそうなのかもしれないが、当時は移民やその子供だけがサッカーをやっていたと思う。アメリカ人になりたくなかった人間がやっていたんだね。僕の祖父はボルシェビキでアメリカ人になりたくなかったので、(サッカー・)ゲームをやることによって僕も彼に認めて欲しかったのかもしれない。だがNYで僕がサッカーをプレイしていたときは――シカゴやセントルイスにもサッカーはあったと思うが――サッカーのプレイ・レベルが余りに低かったんだ。コーチも誰もいなかった時代だから、僕でも当時セミ・プロになることが出来たのさ。今だったら僕程度のスキルじゃ無理だと思うよ。
◎セミ・プロになったのは何歳頃ですか?
●断続的に、1971年~76年頃だね。
◎セミ・プロを辞めて、JCOA(ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション。カーラ・ブレイ;2000年3月25日他、らが主体となった)で働き始めたのですか?
●同じ時期だよ。JCOAではかなりフレックス・タイムで仕事をすることが出来たんだ。
◎JCOAで働いていなければ、音楽作りに携わっていなかったですよね?
●関わっていたと思うよ、自分でもプレイしていたしね。僕はサッカーの方が(音楽よりも)好きだったが、大学に進みアート・スクールで勉強していた頃もサッカーをやりながら音楽をプレイしていたよ。とにかく、サッカーの方が好きだったけどね。サッカーはコーチをやっているときは別として、実際にサッカーをプレイしているときのみ“言葉”を一切考えずに体だけで勝負できる。イメージ的なことは考えたりもするけどね。だが、音楽をやっているときはハートで考え、ボディでも考えたりするんだ、ボディを通して音楽を聴くものだからね。あと、歌詞で考えたり、タイムで考えたりもする。だがサッカーをプレイしているときは、“その瞬間”のことしか考えないんだよ。まあ自分はどの道ミュージシャンになっていたと思うよ。70年代にジャズ・コンポーザーズ・オーケストラをやっていたときも暫くサッカーもやっていたものだ。サッカーが上手くなることはなかった僕だが、ずっと映画を作っていたね。アメリカン・クラーヴェを設立したのは映画より音楽を作るほうが安かったからなんだ。それはカール・グレイから教わったことだね。だからどちらにしても音楽をやるようになったと思う。
◎映像も作っていたこと(彼は、ゴーダルの助手を勤めたこともあったと伝えられる)は音楽作りにもかなり良い意味で影響があったのではないでしょうか。
●良いヘルプになったと思うよ。僕はマイケル・スノウやスタンバッカー、バルトフなど物語がある作品を好んでいる。ストーリーが良い感じに呼吸して構成や内容にフィットしているものだね。ストーリーが光を通して呼吸するんだ。視聴者と演者・被写体間の距離やタイム感などは、音楽も映画と変わらない点がある。曲をカットすることも映画をカットすることと同じだ。ドキュメンタリー映画のように受身な撮影方法ではなく、自らの手で組み立て、タイムにて彫像しながらストーリーを語るんだ。CD・レコードに関しても映画から学んだことは多かったよ。タイムで彫りだしていく行為はマイクと楽器の関係、ルームのサウンド〜アコースティックや倍音なども〜、曲と曲、あるいは曲中のパートによっても変わっていくものだ。映画の場合は照明やカメラ・アングル、クロースアップ等カメラと被写体間の距離や質により違ってくる。ストーリー内のムードは、カメラと俳優間のスペースで空気の流れも変わってくる。クロースアップに限らずね。だから光(照明)のクオリティやそれらの距離関係は大変重要だ。レコードの場合はムードや空気感もマイクや楽器の選択によって変わってくる。そしてそれらの距離によってサウンド自体も変わってくるんだ。サウンドの密度、美しさ、醜さもシンガーや楽器とマイクの距離に影響されることが多い。それはカメラのときと同じだね。
◎作曲も脚本を書くことに近いですか?
●もちろんだよ。曲をリライトしたり、歌詞やメロディを直したり、どの曲に取り組んでいるにせよ、それは以前録ったもの/やったことの再演みたいにはならず、新しいアイディアから始めるんだ。今回のレコードにしてもスティーヴ・スワロウと僕は自分たちがやりたいムードのトーン・イメージをはっきり持っていたので、まずは大まかな構成を考えて取り組み始めたよ。長年の活動を経た今、一緒にプレイして心地よく感じるミュージシャンが27人ほどいるが、取りあえず凄くラフな形からやってみるんだ。それに対してスティーヴが綺麗に曲を構成して持ち込んできたら、僕は意図的に〜スティーヴ曰く「君は靴の紐をほどいてしまう」ことを〜敢えてするんだ。とにかくそれを(ゆるめて)バラバラにしてしまう。何であれ、僕とスティーヴで最初に書き始めたにせよ、それを自分の感じるままに再構成するんだ、そして最後に歌詞やメロディをやったりするね。だが、まずは(映画と同様に)スクリプトから始まると言える。そういうラフなアイディアから始まり、如何にストーリーが気持ちよく呼吸できるかやってみる。だから僕はこれをスクリプトとして捉えているよ。曲中の人格(キャラクター)でシンガーが一人で歌っているのはモノローグのように聴こえるが、実はリスナーとのダイアローグであったりもする。映画で観客にほとんど居心地悪く感じるような近さが表現されていることもあるが、それも効果を狙ってのスクリプトなんだよ。
コンサートはまさにオーディエンスとの対話なので、ライヴ・ショウ用の台本もあるんだよ。コンサートではその前にやったショウを引用したって意味がない。自分たちが既にやってしまった音楽を再度引用したって仕方ないんだ。だからどの晩もオーディエンスとバンド間に新しい音楽が現れてこないといけないんだ。よってその台本も毎晩自由に形を変えていかないと駄目だ。
◎自己レーベルのアメリカン・クラーヴェを創設して四半世紀経ちますよね。
●ほとんど30年だよ。’79年創立だからね。
◎作ったときに、このように長く存続するとは思っていましたか?
●いいや。それに、実際本当に続いているのかすら分からない(笑)。音楽制作に対する自分たちの情熱があったからこそ続いていることだ。ミュージック・メイキングにとり憑かれているからね。それは(いちいち言葉で言わなくても、分かってもらえていると思う。だが金銭面では、作品を作るたびに経済的自殺行為を続けているよ。そういう経済的自殺行為を重ねつつ、まだ生きているなんて凄いなあ。それを31回も続けているけど、今もまだここにいるぞ!
◎’80年代後半にスティングが接近して、スティングのパンジア・レーベルがアメリカン・クラーヴェのディストリビューションをしたことがあったじゃないですか。あれは何だったんですか?
●スティングは我々のファンで、当時はちょっとした友達だったんだ。’87年頃アメリカン・クラーヴェは12,000~20,000枚ほどLPレコードのオーダーを受けておりディストリビューターは90日後に支払いをしていた。だが、僕はディストリビューターからの入金の前に、レコード製造工場に対し前金として2000~3000枚分の支払いをする必要があった。(話がちょっと脱線して)……おっと? 紅茶とコーヒーが混ざってしまったかな? “ティー・コーヒー”もオツじゃないか。面白いかもよ。大学時代、僕は“コーヒー・スープ”を飲んでいたものだよ。実際は普通のコーヒーなんだけど、わざと「コーヒー・スープでお腹がいっぱい」なんて言っていた。話は戻るが、その頃スティングが「君たちの音楽が好き」と言ってきたんだ。彼には資本と、より優れたディストリビューションのノウハウがあったのでパートナーシップを結ぶことになったよ。その際に、僕は完璧な契約を結んだと思っていた。だって、彼らからの支払い期間を明確に提示し、我々もパブリッシングを放棄することなく、彼らは契約内容を変更する権限を一切持たず、この契約は予算やマーケティングに関しても及んでおり、これを破ろうものなら即訴訟するぞって内容になっていたからね。だが、ご存知の通り、契約ってのはクソみたいなもんだ。この契約に署名した直後、スティングはツアーに出てしまった。すると彼のマネジャーや弁護士ら、ボビー・フラックスとマイルス・コープランドというイヤな連中が登場してきた。「どういう訳かスティングがあんたたちの音楽を気に入っているので彼のご機嫌を取るため契約に署名したけど、こんな契約には耐えられませんので。それに、あのチンケなイタリア人アコーディオン奏者(アストラ・ピアソラのことか?)とあんたが何故契約したのかも全く理解できない」とマイルス・コープランドが言ってきやがった。「ビタ一文お支払いしませんから」、だとさ。「もし訴えてくるのなら、そちらと8年は腰を据えて戦うし、その間君たちには1ペニーも支払いをしませんからね。我々は君たちより大手なので諦めたほうが良いですよ」と言われたね。弁護士からも「息の根を止めてやる。仕事は出来なくなるよ」と言ってきたので、本当に僕は怒り心頭だった。だから彼らと3年抗争して論理的には一応勝ったけど、うーん結局はどうなのかなあ。だがそういうエグい抗争期間中も、スティングはとても人間らしくこちらに接してきたよ。僕のレコードに参加したりツアーもオファーしてくれた。彼曰く、「ビジネスにおける自分の権力なんかはとうの昔に放棄してしまった」とのことだった。だから、こういう争いは彼が原因じゃなかったし、彼のことを悪く言うつもりは一切ないね。あの契約には本当に苦しめられたが。あのレコード会社は本当に一銭もこちらに支払いをしなかったけど、僕らはめげずに仕事をやり続けたんだ。例え金が入ってこなくても“ミュージシャンにとって音楽をやることこそが人生だ”と、周りのミュージシャンたちの要望もあったし、とにかく作り続けたよ。請求書はたまる一方だったが、スタジオやミュージシャンたちは何年も辛抱強く支払いを待ってくれた。そして仕事を続けたのさ。
◎新譜のことも訊きたいです。久々に今回作ったのですが、何か特別あなたを駆り立てるものがあったのでしょうか?
●確かに『アラビアン・ナイト』以来、12年振りだね。今作で一番問題だったのはファースト・ディスク『BEAUTIFUL SCARS』を制作するのに2年半も掛かったことだった。つまりやりたいことがあり過ぎて――音楽的にも歌詞的にも――言いたいことがあり過ぎたんだよね。大変緊張感のある内容になっているが、実はこれとは違うサウンドやトーンを持つ作品がもう1枚あるんだ。そのオリジナル・タイトルは『HOME IN ANGER』で、このレコードのトーンは……エモーションのピッチはそれほど怒りに満ちているものではなく、もっと哀愁を帯びた感じだ。いや、悲しいというよりも、より洗練された形で怒りが表現されている。こちらの1枚(『BEAUTIFUL SCARS』)では歯をむき出したようなストレートな怒りが押し出されていてドカンと怒っているノリだ。そして『BEAUTIFUL SCARS』は、ある意味、よりダークだと思う。『HOME IN ANGER』のほうが余りダークではないタイプの怒りに満ちている。だが、ユーモアも含まれているよ。こちらの最初の曲はキューバについて扱っているが、やはりちょっとしたユーモアが入っているね。「Busses From Heaven」は事実に基づいた曲なんだけど、オラシオらが話してくれたんだけど、最初は冗談かと思ったね。米国の経済制裁によりキューバの交通システムは崩壊しており、全てが滅茶苦茶になっていた。70年代~80年代頃、イギリスで公共交通機関の乗り物を製造していたブリティッシュ・レイルランドが、ボロボロに壊れた古いバスをキューバに廃棄した。キューバでそれを修理して使って良かったのだが、バスの目的地を表示したサインはそのままの状態で外されていなかった。それらのバスはもちろんサンティアゴ、ハバナなどキューバの町を走行していたが、サインは“ベニス行き”“ローマ行き”“マンチェスター行き”“マドリッド行き”と表示されたままだったので、当時キューバの貧困生活に苦しみそこを離れたいと思っていた人々は「ぜひ、マドリッドに連れて行ってくれ!」「そうだデートにはベニスに行こう!」みたいなノリで乗っていたらしい。もちろん、外へ出ることはなかったんだけどね。オラシオたちはそのことを笑い話にしていて、それがこの曲のポイントとなっている。これって凄くダークなユーモアなんだよね、例え“ベニス行き”に乗車しても、結局キューバからは出られないのだから。
◎この後はどんなことをやっていきたいですか?
●近未来? それとももっと先の未来?
◎両方お願いします。
●まあ近未来のことを語るためにここに来ているのだが、先程僕はサッカーを夢見ているって話をしたよね。僕は今も変わらずサッカーを夢見ているよ。もちろん音楽のことも夢見ているけどね。だが、この二つの夢は全く違う構造のものだ。音楽の夢はもっと長く複雑なもので、実現の可能性も信じている。世界と自分の音楽が交流したり、実際のリアル・ワールドに何らかの形で自分の音楽が関わっていったり影響があったりするかもしれない等々。一方サッカーに関しては、また自分の足が動くようになったら……というような恍惚の夢の中に存在するだけで、もはやこの世において自分とは関わりのない不可能なことなんだ。もう天国でのお話だね。だから音楽とサッカーの夢は全く性質が違うものだよ。
質問の応えに戻るけど、秋からツアーに戻ってブルーノート東京でもやりたいと思っている。このバンドと素材でアメリカ、ヨーロッパ、日本、南米など行きたいから是非実現させたい。今年は3枚レコードをやりたいんだ。シルヴァーナ・デルイギ(2004年にアメリカン・クラーヴェ盤あり)のレコードもまたやりたい。ピアソラ・バンドを再結成させたもの、そしてスティーヴ・スワロウとロミー・アミーンなどでやりたいね。僕の大好きなミュージシャン〜通常タンゴを書かない人たちだが〜に彼女のためにぜひタンゴを書いて欲しいと思っている。それと、「千夜一夜」~アラビアン・ナイトの話も進めたい。12作中まだ3作しかやっていないからね。ドン・プーレンが死にかけていたとき、彼は「早く録ろう!」と言い続けていたよ。彼は’95年に亡くなったが「明日は目が覚めないかもしれないので、とにかく出来るだけたくさん録っておこう」と言っていた。実際7~12時間プーレンがアラビアン・ナイトをプレイしたものがあるんだ。それに戻って取り組みたいと思っている。あと他にも、二つほどプロジェクトがあるね。ブロンクスのミュージシャンのプロジェクトで、“ブロンクスは実際存在せずあれはただの幻想で自分たちの中に持っているものだった”というテーマでビリー・バン(今は故人)、ジェリー・ゴンザレス等、ブロンクスのミュージシャンたちとやりたい。それとディープ・ルンバのレコードを更に発展させてやりたいと思っているがこちらは来年になると思う。
とにかく、ツイン・ドラムとツイン・パーカッションの重なりは妙味ありすぎ。それに比すると、ツイン・ベースの絡みは面白味があまりないが、とのかく、ラテン的本能と閃きが自在に綱引きするそれだけでも90分は持つはず。ながら、強靭さだけでなく、華麗なパス・サッカーもやりたいハンラハン(笑い)は多少の仕掛けや展開や詩情を折り込み、非ラテン文脈にあるヴォーカルも多大に噛み合わせる。歌は、ロス、ソウンダース、そしてパリで活動する鋭敏現代ジャズ歌手のユン・サン・ナも同行するはずだったが、体調不良とかでマイア・バルー(2010年7月11日、他)が代わりに担当。彼女、自分の味を出しつつ健闘してたな。さすが。あと、打楽器奏者も一人歌ったっけ? 歌う人はそれぞれに自分の味を発揮、ロスとバルーはけっこうシアトリカルな面も前に出していた。それ、ハンラハンの意向によるべきものと思う。
ハンラハンはちゃんと頭から終わりまでステージ上にいて、ちゃんとバンド員紹介もする。いままで見たなかで一番人間的か。ではあっても、初めて見る人には、なんのためにあの太ったおじいちゃんはいるのと、やはり思えたそうだが。彼、今回は奥さん同伴で来日したようだ。
<2007年の、ハンラハン>
以下は、『ビューティフル・スカーズ』のプロモーションで来日にした際に行った、ハンラハン(1954年、ブロンクス生まれ)へのインタヴューである。2007年4月25日、イースト・ワークス社屋にて取材。媒体は、シンコー・ミュージックのThe Dig誌。話は、その際に編集者が見本誌として持参した号で特集されていたボブ・ディランやスライ・ストーンの話から始まった。
キップ・ハンラハン(以下、●)ディランとはインタヴューしたのかい?
◎いえ。
●ディランとはやらなかったんだ。スライ・ストーンは取材したかい?
◎やっていません。
●スライには誰も取材していないからね。たぶんスライ・ストーンはここ35年、取材を受けていないのではないかな。ディランはインタヴューを受けているし、素晴らしい取材を読んだこともある。最後にディランが来日したのはいつなの?
◎2001年ですかね。あなたは、ディランとかスライは聴いてきた人だったのですか?
●スライ・ストーンは、もうあちこちで流れていたからね〜、こちらが聴きたかろうがなかろうが。スライ・ストーンは誰もが聴いてきたみんなの(人生の)サウンドトラックのようなものだったから。ディランに関しては、僕はちゃんと聴いてきたよ。アメリカでは彼もインタヴューを受けているし、いつもツアーを行っている。彼の取材はちょっと捻くれた応答をしているものがあるので面白いよ。心の底から自分の気持ちを誠実に述べている瞬間があったかと思えば、意図的に嘘を言ったりするんだ。かと思えば、わざと屈折したようなことを言い出す。あまのじゃくなことを言いたくて、敢えて発言していることもある。
◎ディランは言葉でそういうことをするかもしれませんが、あなたは音楽で同じようなことをやっているのではないですか?
●僕もそういうふうに、わざと逆なことをやっているかなあ……まあ、案外あるのかも? 自分では分からないので、ちょっと考えてみないといけないね。そういうことがあったとしたら、それはディランから影響を受けているのかもな。
◎80年代初期にあなたのアメリカン・クラーヴェを知って、「もう、この人は何をしているんだ!」と思いましたよ。あなたは、“ニューヨークの不可解”の象徴でした。
●別に、僕は意図的に“ミステリアス”であろうとしていたわけではない。ディランがやっていることは、意識的な部分があるかもって思うがね。人生においてディランから学べることはたくさんあるが、“ポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを起用しながら大変パーソナルかつディープなことがやれるのだ”ということも、彼から学べることの一つだね。彼の取材や本を読んでもらえれば分かると思うが、もの凄くクリアでもありつつ、その一方で屈折したことが読み取れる。彼は、それを意図的にやっているんだ。
◎ディランは言葉を使ってそれをやってのけたと思うのですが、あなたは不可解な音やミュージシャンを使うことで普遍的な美しい瞬間を作り出していると思います。
●僕の音楽が普遍的かどうかは分からないが、小さい頃から聴いてきたポピュラー・ミュージックのヴォキャブラリーを使うことが自分に大変しっくりくるんだ。だが、それが普遍的か否かは分からない。ディランの音楽の普遍性は、彼がアメリカのフォーク・ミュージック形態でやっていることにあると思う。シンプルなコード・チェンジにジャズ・ヴォイシングを組み合わせ、意図的にヴォイスのトーンを大変パーソナルなものにしている。薄っぺらなプロ意識でプロテクトすることなくヴォイスを曝け出しており、彼のヴォイスとリスナーの間には他の何も入り込む余地がないんだ。彼は極めてパーソナルなヴォイスの持ち主だ。そして、彼はそのヴォイスでパーソナルでディープなことを言ったり、時に屈折したことを表現している。余り直接的にならないように、敢えて捻くれたものの言い方をしたりするのだろうな。だが、彼の使っているコード・チェンジ自体は、特にアメリカにおいてはかなり普遍的なものだ。普遍的な音楽の最も根本的な図式とでも言おうか。僕の場合も自分が聴いて育った音楽を取り入れているが、それはブロンクスで聴いていたラテン・ミュージックであったりするので、余り普遍的な音楽ではなかったよ。それにニューヨークの音楽自体が、ニューヨーク以外の場所からすればかなり特殊なので、余り普遍的とは見なされないんだ。
◎アメリカ人に対する違和感……アメリカに住むことの違和感……アメリカ人であることの違和感みたいなことを、音楽を通して表現しようという意識を感じたりもしますが。
●第二次世界大戦後に世界は、資本主義社会の言語、アメリカ訛りの英語に支配されるようになった。そしてデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックがロックだった。それは西アフリカ、イエメン、ヴェネズエラ、ヴェトナムに至るまで聴かれるようになり、フェンダー・ギターを使い米国音楽流コード・チェンジ/リズムでプレイされた音楽が普遍的なものとして受け取られるようになった。だが、ここ15年間にちょっと変化があったね。世界中のデモクラシーを破壊した資本主義のサウンドトラックは〜言語部分はアメリカ訛りの英語であることに今も変わりはないけれど〜“音楽部分”はヒップホップになったと思う。だからアメリカが何でもかんでも破壊しているときのサウンドトラックは、今やヒップホップだと思うな。
ニューヨークに関してだけど……アメリカ人はニューヨークをアメリカの一部と見なしていないと思うんだよ。ニューヨークには独自の生活速度や言語がある。そして特殊な“言語”とでも言うべき音楽もある。だからアメリカ広しと言えども、ニューヨークのような場所は他に存在しないんだ。全てにおいて実に特殊だからね。ニューヨークを離れて初めて、如何にそこが違っていたか気付く人も多いし、ニューヨークに来て、そこが余りに違うので驚く人もたくさんいる。だから、僕は自分が聴いてプレイしてきた音楽も含め、あまり自分のことを“アメリカのミュージシャン”とは見なしていない部分がある。僕は自分が“ニューヨークのミュージシャン”だとは思っているし、ブロンクスのミュージシャンでもある。だが、“アメリカのミュージシャン”とは違うように感じている。ディランにしても、いわゆるアメリカのミュージシャンがプレイしているものに反したことをやっていると思うよ。ボブ・ディランが素晴らしく、そしてある意味屈折していると思うのは……アメリカのフォーク・ミュージックに深く根ざしベーシック・アメリカン・ミュージック・スタイルでプレイしていながらも、彼は僕と同じくユダヤ人であるが故に、そういう行為そのものすら屈折していて、ある意味騙しが入っていると言えるんだ。ほとんどのアメリカ人にとってユダヤ人はアメリカ人と見なされていないからね。実際、それは世界中でも言えることだが。表面的な扱いはともかくも、ユダヤ人は厳密に言えば……本当のアメリカ人だとは思われていないんだよ。ディランはそれを百も承知で、それに対抗しながらいつもプレイしているのだと思う。最もアメリカらしい音楽形態を用いながら、彼はそういう形でプレイしているんだ。
先に、僕の音楽に君がある種の緊張感を感じてくれた等のコメントをしてくれたが、僕が使っている音楽的言語〜そして音楽の中で自分が個人的にとても強い気持ちで言わんとしていること〜そういうものは、音楽の中に表現されて聴き手にも伝わるものなんだ。音楽を聴いていると、その背後にある意図や強い感情はしっかりと聴き手に伝わる。だから我々ミュージシャンとリスナーの両者は“音楽的言語を分かち合っている”と言える。だから、君は“アメリカ人”ではなくても“ニューヨーク”の音楽言語を理解/シェアして聴いてくれており、その背後に表現されている強烈な感情を分かってくれたのだと思う。
◎そうだと思います。
●80年代に僕の音楽にどうして興味を持ったのかな?
◎当時、ぼくはジェイムズ・ブラッド・ウルマーが好きだったり、デイヴィッド・マレイ(2003年8月9日、2004年6月6日)がレコーディングに入っているとか、アヴァンギャルドなジャズ・ミュージシャンが入っているため強い関心を持ってあなたのレコードを買ってみたんです。そしたら、そこにはもっと多方面のミュージシャンが収録されており……こんなにいろんな要素が入った音楽を作るキップ・ハンラハンとはどんな人なんだろうと思いました。そして、絶対にこういう音楽はNY以外では生まれないと思いました。
●デイヴィッド(・マレイ)のことは知っているかい? 彼とは1975~6年以来、とても付き合い辛い友情が続いているね(笑)。彼とは同じ年齢くらいなんだ。他の人たちと比べて、僕は自分のことをさほど“ミステリアス”だとは思っていないよ。もちろん僕は僕なりにダークなものがあるが、君も君なりにダークだったりするだろう? だが自分名義で作っている音楽は時に大変パーソナルなもの故に、それを表現するためには多くのヴォイスを必要とすることがある。そういう緊張感があるパーソナルな作品のときには、むしろ僕は自分自身を余り前面に押し出したくない。自分のイメージがグループの中にブレンドして薄れてしまうほうが良いんだよ。そもそもその“グループ”自体も、僕の内部にあるヴォイスを代弁しているんだ。だから自分のイメージをやたらと中央に持ってくることなく、グループのイメージに溶け込んでいることが望ましいんだ。
◎あなたはアメリカ人なのに珍しく大変熱心なサッカー・ファンであり、サッカーの監督が選手を動かすように自分の音楽を作っていると聞いたことがあります。
●それは本当にそうだよ。だから、僕はいつも11人編成でやっているんだよ(笑)。僕かゴールで、ドラマーがディフェンダーで、シンガーとサックス奏者がアタッカーだったりするのかな。だが、自分の音楽やバンド、特にジャック・ブルース等とやっているものは、それとは別物でちょっと難しいね。つまりそういう場合はチームでプレイして勝利することが目的ではなく、彼らのやるべきことは僕が明確な意図を持って書き上げたエモーションを分かち合い表現することにあるのだから。“コンジュア”や“ディープ・ルンバ”のときは僕もチームの一員であり、彼らもその(音楽の)枠の中でプレイするので、彼らはその音楽において“僕のこと”を表現する必要はないんだ。感情的な表現をするのはシンガーの役割だったりするからね。でも、君の言うことは正にその通りだよ。どこで聞いたの?
◎僕もサッカーが好きなので(笑)。
●そうなのかい? どのチームが好き?
◎今はテレビで見れるので、スペインのが一番好きなんですけど。プレミアも好きです。
●ほう、僕はイタリアのリーグが一番好きだったが、今はスペインとイギリスかな。でもスペイン・リーグを見ているともう頭がおかしくなってしまうよ! レアル・マドリードとバルセロナの対戦とかね。バレンシアやラコルーニャも健闘しているが、今は僕はセビージャを応援しているよ。やっと均衡関係が壊れてきたように思う。ところで君も、サッカーをプレイしていたの?
◎中学の頃ですね。あとは30歳の頃に二つのチームに所属していました。
●今30代じゃないの? 何歳なんだい?
◎もう、50が見えてますよ(笑い)。
●本当? じゃあ体を大切にね。僕は自分の体調管理を怠ってしまったので、今はそういう自分に怒りを覚えているよ。どこのポジションだったのかい?
◎若いときはフォワードをやっていたのですが、30過ぎてからは、自分がディフェンダーの方が得意なのが分かりました。それで、自分が受身な人間なのかなあと思ったり。
●受身な人はディフェンダーに合わないんじゃないか? 優れたディフェンダーは上手く騙してくるからね。僕もディフェンダーだったから分かるんだ。
◎監督は自分の考えのもと好みの選手を選び、ときにそれは賛否両論を呼んだりするわけですが、あなたがプレイヤーを選ぶときのポイントは?
●ケミストリーと同じことだね。実際に、僕は娘のサッカー・チームの監督を務めたことがあるよ。そのリーグ中、サッカーの知識を持っていたのは僕だけだったにも拘らず、結局全試合負けてしまった。だから、酷い監督だったのさ。ぐうぜん勝つこともあるかと思いきや、それすらなかった。女子のチームだったが彼女らはドリブルも出来たし技術もあったのに、どうして勝てないんだろう? と娘に尋ねたら「(チーム・メイトたちにとって)お父さんが怖くないからよ。お父さんが好きなんだもん」と言うんだ。音楽の場合は、僕のことを怖がっている男は長くバンドで続けていられないようだね。僕と同じ情熱を分かち合い、“勝ちにいく”人が自分のメンバーとして残っていると思う。プレイヤーを選ぶときのポイントだが、勝っているサッカー・チームを見てると、必ずしもスター・プレイヤーがいるところばかりではない。音楽にしても技術があるミュージシャンばかり集まれば良いというのでもない。何より大切なのはエモーショナルなケミストリーなんだ。チームとして同じように呼吸して、スムーズに音楽の流れをやることが出来て、そして緊張感をシェアすることが出来れば一緒にやれるんだよ。2音だけプレイするような音数少ないタイプと、やたらと音数が多いタイプのプレイヤーだって共存できるし、そういうことは問題ではない。技術のレヴェルが違うことも別に問題ではない。互いのエモーションにケミストリーがあるのかどうかが大事なんだ。
◎そもそもラテン・ミュージックとサッカーにハマったのはどちらが先だったのですか?
●サッカーだよ。僕はもうサッカーを夢みているからね。
◎最初はサッカー・プレイヤーになるのが夢だったのですか?
●そうなんだ。僕はセミ・プロになったよ。だが、もっと先に進もうと思った矢先に足首を痛めてしまった。
◎あなたが少年だった頃、アメリカにおいてサッカーはそれ程ポピュラーなスポーツではなかったと思いますが?
●ポピュラーではなかったね。
◎それも、アメリカに対する反感のようなもの?
●今思えばそうなのかもしれないが、当時は移民やその子供だけがサッカーをやっていたと思う。アメリカ人になりたくなかった人間がやっていたんだね。僕の祖父はボルシェビキでアメリカ人になりたくなかったので、(サッカー・)ゲームをやることによって僕も彼に認めて欲しかったのかもしれない。だがNYで僕がサッカーをプレイしていたときは――シカゴやセントルイスにもサッカーはあったと思うが――サッカーのプレイ・レベルが余りに低かったんだ。コーチも誰もいなかった時代だから、僕でも当時セミ・プロになることが出来たのさ。今だったら僕程度のスキルじゃ無理だと思うよ。
◎セミ・プロになったのは何歳頃ですか?
●断続的に、1971年~76年頃だね。
◎セミ・プロを辞めて、JCOA(ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション。カーラ・ブレイ;2000年3月25日他、らが主体となった)で働き始めたのですか?
●同じ時期だよ。JCOAではかなりフレックス・タイムで仕事をすることが出来たんだ。
◎JCOAで働いていなければ、音楽作りに携わっていなかったですよね?
●関わっていたと思うよ、自分でもプレイしていたしね。僕はサッカーの方が(音楽よりも)好きだったが、大学に進みアート・スクールで勉強していた頃もサッカーをやりながら音楽をプレイしていたよ。とにかく、サッカーの方が好きだったけどね。サッカーはコーチをやっているときは別として、実際にサッカーをプレイしているときのみ“言葉”を一切考えずに体だけで勝負できる。イメージ的なことは考えたりもするけどね。だが、音楽をやっているときはハートで考え、ボディでも考えたりするんだ、ボディを通して音楽を聴くものだからね。あと、歌詞で考えたり、タイムで考えたりもする。だがサッカーをプレイしているときは、“その瞬間”のことしか考えないんだよ。まあ自分はどの道ミュージシャンになっていたと思うよ。70年代にジャズ・コンポーザーズ・オーケストラをやっていたときも暫くサッカーもやっていたものだ。サッカーが上手くなることはなかった僕だが、ずっと映画を作っていたね。アメリカン・クラーヴェを設立したのは映画より音楽を作るほうが安かったからなんだ。それはカール・グレイから教わったことだね。だからどちらにしても音楽をやるようになったと思う。
◎映像も作っていたこと(彼は、ゴーダルの助手を勤めたこともあったと伝えられる)は音楽作りにもかなり良い意味で影響があったのではないでしょうか。
●良いヘルプになったと思うよ。僕はマイケル・スノウやスタンバッカー、バルトフなど物語がある作品を好んでいる。ストーリーが良い感じに呼吸して構成や内容にフィットしているものだね。ストーリーが光を通して呼吸するんだ。視聴者と演者・被写体間の距離やタイム感などは、音楽も映画と変わらない点がある。曲をカットすることも映画をカットすることと同じだ。ドキュメンタリー映画のように受身な撮影方法ではなく、自らの手で組み立て、タイムにて彫像しながらストーリーを語るんだ。CD・レコードに関しても映画から学んだことは多かったよ。タイムで彫りだしていく行為はマイクと楽器の関係、ルームのサウンド〜アコースティックや倍音なども〜、曲と曲、あるいは曲中のパートによっても変わっていくものだ。映画の場合は照明やカメラ・アングル、クロースアップ等カメラと被写体間の距離や質により違ってくる。ストーリー内のムードは、カメラと俳優間のスペースで空気の流れも変わってくる。クロースアップに限らずね。だから光(照明)のクオリティやそれらの距離関係は大変重要だ。レコードの場合はムードや空気感もマイクや楽器の選択によって変わってくる。そしてそれらの距離によってサウンド自体も変わってくるんだ。サウンドの密度、美しさ、醜さもシンガーや楽器とマイクの距離に影響されることが多い。それはカメラのときと同じだね。
◎作曲も脚本を書くことに近いですか?
●もちろんだよ。曲をリライトしたり、歌詞やメロディを直したり、どの曲に取り組んでいるにせよ、それは以前録ったもの/やったことの再演みたいにはならず、新しいアイディアから始めるんだ。今回のレコードにしてもスティーヴ・スワロウと僕は自分たちがやりたいムードのトーン・イメージをはっきり持っていたので、まずは大まかな構成を考えて取り組み始めたよ。長年の活動を経た今、一緒にプレイして心地よく感じるミュージシャンが27人ほどいるが、取りあえず凄くラフな形からやってみるんだ。それに対してスティーヴが綺麗に曲を構成して持ち込んできたら、僕は意図的に〜スティーヴ曰く「君は靴の紐をほどいてしまう」ことを〜敢えてするんだ。とにかくそれを(ゆるめて)バラバラにしてしまう。何であれ、僕とスティーヴで最初に書き始めたにせよ、それを自分の感じるままに再構成するんだ、そして最後に歌詞やメロディをやったりするね。だが、まずは(映画と同様に)スクリプトから始まると言える。そういうラフなアイディアから始まり、如何にストーリーが気持ちよく呼吸できるかやってみる。だから僕はこれをスクリプトとして捉えているよ。曲中の人格(キャラクター)でシンガーが一人で歌っているのはモノローグのように聴こえるが、実はリスナーとのダイアローグであったりもする。映画で観客にほとんど居心地悪く感じるような近さが表現されていることもあるが、それも効果を狙ってのスクリプトなんだよ。
コンサートはまさにオーディエンスとの対話なので、ライヴ・ショウ用の台本もあるんだよ。コンサートではその前にやったショウを引用したって意味がない。自分たちが既にやってしまった音楽を再度引用したって仕方ないんだ。だからどの晩もオーディエンスとバンド間に新しい音楽が現れてこないといけないんだ。よってその台本も毎晩自由に形を変えていかないと駄目だ。
◎自己レーベルのアメリカン・クラーヴェを創設して四半世紀経ちますよね。
●ほとんど30年だよ。’79年創立だからね。
◎作ったときに、このように長く存続するとは思っていましたか?
●いいや。それに、実際本当に続いているのかすら分からない(笑)。音楽制作に対する自分たちの情熱があったからこそ続いていることだ。ミュージック・メイキングにとり憑かれているからね。それは(いちいち言葉で言わなくても、分かってもらえていると思う。だが金銭面では、作品を作るたびに経済的自殺行為を続けているよ。そういう経済的自殺行為を重ねつつ、まだ生きているなんて凄いなあ。それを31回も続けているけど、今もまだここにいるぞ!
◎’80年代後半にスティングが接近して、スティングのパンジア・レーベルがアメリカン・クラーヴェのディストリビューションをしたことがあったじゃないですか。あれは何だったんですか?
●スティングは我々のファンで、当時はちょっとした友達だったんだ。’87年頃アメリカン・クラーヴェは12,000~20,000枚ほどLPレコードのオーダーを受けておりディストリビューターは90日後に支払いをしていた。だが、僕はディストリビューターからの入金の前に、レコード製造工場に対し前金として2000~3000枚分の支払いをする必要があった。(話がちょっと脱線して)……おっと? 紅茶とコーヒーが混ざってしまったかな? “ティー・コーヒー”もオツじゃないか。面白いかもよ。大学時代、僕は“コーヒー・スープ”を飲んでいたものだよ。実際は普通のコーヒーなんだけど、わざと「コーヒー・スープでお腹がいっぱい」なんて言っていた。話は戻るが、その頃スティングが「君たちの音楽が好き」と言ってきたんだ。彼には資本と、より優れたディストリビューションのノウハウがあったのでパートナーシップを結ぶことになったよ。その際に、僕は完璧な契約を結んだと思っていた。だって、彼らからの支払い期間を明確に提示し、我々もパブリッシングを放棄することなく、彼らは契約内容を変更する権限を一切持たず、この契約は予算やマーケティングに関しても及んでおり、これを破ろうものなら即訴訟するぞって内容になっていたからね。だが、ご存知の通り、契約ってのはクソみたいなもんだ。この契約に署名した直後、スティングはツアーに出てしまった。すると彼のマネジャーや弁護士ら、ボビー・フラックスとマイルス・コープランドというイヤな連中が登場してきた。「どういう訳かスティングがあんたたちの音楽を気に入っているので彼のご機嫌を取るため契約に署名したけど、こんな契約には耐えられませんので。それに、あのチンケなイタリア人アコーディオン奏者(アストラ・ピアソラのことか?)とあんたが何故契約したのかも全く理解できない」とマイルス・コープランドが言ってきやがった。「ビタ一文お支払いしませんから」、だとさ。「もし訴えてくるのなら、そちらと8年は腰を据えて戦うし、その間君たちには1ペニーも支払いをしませんからね。我々は君たちより大手なので諦めたほうが良いですよ」と言われたね。弁護士からも「息の根を止めてやる。仕事は出来なくなるよ」と言ってきたので、本当に僕は怒り心頭だった。だから彼らと3年抗争して論理的には一応勝ったけど、うーん結局はどうなのかなあ。だがそういうエグい抗争期間中も、スティングはとても人間らしくこちらに接してきたよ。僕のレコードに参加したりツアーもオファーしてくれた。彼曰く、「ビジネスにおける自分の権力なんかはとうの昔に放棄してしまった」とのことだった。だから、こういう争いは彼が原因じゃなかったし、彼のことを悪く言うつもりは一切ないね。あの契約には本当に苦しめられたが。あのレコード会社は本当に一銭もこちらに支払いをしなかったけど、僕らはめげずに仕事をやり続けたんだ。例え金が入ってこなくても“ミュージシャンにとって音楽をやることこそが人生だ”と、周りのミュージシャンたちの要望もあったし、とにかく作り続けたよ。請求書はたまる一方だったが、スタジオやミュージシャンたちは何年も辛抱強く支払いを待ってくれた。そして仕事を続けたのさ。
◎新譜のことも訊きたいです。久々に今回作ったのですが、何か特別あなたを駆り立てるものがあったのでしょうか?
●確かに『アラビアン・ナイト』以来、12年振りだね。今作で一番問題だったのはファースト・ディスク『BEAUTIFUL SCARS』を制作するのに2年半も掛かったことだった。つまりやりたいことがあり過ぎて――音楽的にも歌詞的にも――言いたいことがあり過ぎたんだよね。大変緊張感のある内容になっているが、実はこれとは違うサウンドやトーンを持つ作品がもう1枚あるんだ。そのオリジナル・タイトルは『HOME IN ANGER』で、このレコードのトーンは……エモーションのピッチはそれほど怒りに満ちているものではなく、もっと哀愁を帯びた感じだ。いや、悲しいというよりも、より洗練された形で怒りが表現されている。こちらの1枚(『BEAUTIFUL SCARS』)では歯をむき出したようなストレートな怒りが押し出されていてドカンと怒っているノリだ。そして『BEAUTIFUL SCARS』は、ある意味、よりダークだと思う。『HOME IN ANGER』のほうが余りダークではないタイプの怒りに満ちている。だが、ユーモアも含まれているよ。こちらの最初の曲はキューバについて扱っているが、やはりちょっとしたユーモアが入っているね。「Busses From Heaven」は事実に基づいた曲なんだけど、オラシオらが話してくれたんだけど、最初は冗談かと思ったね。米国の経済制裁によりキューバの交通システムは崩壊しており、全てが滅茶苦茶になっていた。70年代~80年代頃、イギリスで公共交通機関の乗り物を製造していたブリティッシュ・レイルランドが、ボロボロに壊れた古いバスをキューバに廃棄した。キューバでそれを修理して使って良かったのだが、バスの目的地を表示したサインはそのままの状態で外されていなかった。それらのバスはもちろんサンティアゴ、ハバナなどキューバの町を走行していたが、サインは“ベニス行き”“ローマ行き”“マンチェスター行き”“マドリッド行き”と表示されたままだったので、当時キューバの貧困生活に苦しみそこを離れたいと思っていた人々は「ぜひ、マドリッドに連れて行ってくれ!」「そうだデートにはベニスに行こう!」みたいなノリで乗っていたらしい。もちろん、外へ出ることはなかったんだけどね。オラシオたちはそのことを笑い話にしていて、それがこの曲のポイントとなっている。これって凄くダークなユーモアなんだよね、例え“ベニス行き”に乗車しても、結局キューバからは出られないのだから。
◎この後はどんなことをやっていきたいですか?
●近未来? それとももっと先の未来?
◎両方お願いします。
●まあ近未来のことを語るためにここに来ているのだが、先程僕はサッカーを夢見ているって話をしたよね。僕は今も変わらずサッカーを夢見ているよ。もちろん音楽のことも夢見ているけどね。だが、この二つの夢は全く違う構造のものだ。音楽の夢はもっと長く複雑なもので、実現の可能性も信じている。世界と自分の音楽が交流したり、実際のリアル・ワールドに何らかの形で自分の音楽が関わっていったり影響があったりするかもしれない等々。一方サッカーに関しては、また自分の足が動くようになったら……というような恍惚の夢の中に存在するだけで、もはやこの世において自分とは関わりのない不可能なことなんだ。もう天国でのお話だね。だから音楽とサッカーの夢は全く性質が違うものだよ。
質問の応えに戻るけど、秋からツアーに戻ってブルーノート東京でもやりたいと思っている。このバンドと素材でアメリカ、ヨーロッパ、日本、南米など行きたいから是非実現させたい。今年は3枚レコードをやりたいんだ。シルヴァーナ・デルイギ(2004年にアメリカン・クラーヴェ盤あり)のレコードもまたやりたい。ピアソラ・バンドを再結成させたもの、そしてスティーヴ・スワロウとロミー・アミーンなどでやりたいね。僕の大好きなミュージシャン〜通常タンゴを書かない人たちだが〜に彼女のためにぜひタンゴを書いて欲しいと思っている。それと、「千夜一夜」~アラビアン・ナイトの話も進めたい。12作中まだ3作しかやっていないからね。ドン・プーレンが死にかけていたとき、彼は「早く録ろう!」と言い続けていたよ。彼は’95年に亡くなったが「明日は目が覚めないかもしれないので、とにかく出来るだけたくさん録っておこう」と言っていた。実際7~12時間プーレンがアラビアン・ナイトをプレイしたものがあるんだ。それに戻って取り組みたいと思っている。あと他にも、二つほどプロジェクトがあるね。ブロンクスのミュージシャンのプロジェクトで、“ブロンクスは実際存在せずあれはただの幻想で自分たちの中に持っているものだった”というテーマでビリー・バン(今は故人)、ジェリー・ゴンザレス等、ブロンクスのミュージシャンたちとやりたい。それとディープ・ルンバのレコードを更に発展させてやりたいと思っているがこちらは来年になると思う。
コメント