公演を3つハシゴ。地下鉄の乗り継ぎや駅と会場の距離等を鑑み会場移動はタクシーを使用、結果、なんとか可能でした。

 まず、丸の内・コットンクラブで、84年生まれの真性ジャズ・ピアニスト、ジェラルド・クレイトンのトリオを見る。ファースト・ショウで19時スタート。著名ベーシストのジョン・クレイトンを父に持つクレイトン(2009年9月3日、他)は肌がココア色で髪型がドレッド・ロックス。短髪眼鏡のベーシストのダグ・ワイスは白人中年、アフリカ系のドラマーのオベッド・キャルヴェアはやんちゃなブレイズ頭、トリオの見てくれは三者三様。それ、アルバムにおけるトリオとは違う顔触れだが、噛み合いはなかなかにいいもんがあった。

 オリジナル曲にしろ、スタンダードにしろ、1曲はかなり長め。自在の指の這わせ具合に触れつつ、アルバムで披露している以上に内に抱えるピアノ語彙が広いと痛感。どこかストライド・ピアノ奏法とのつながりを感じさせるものからブラッド・メルドー(2005年2月20日、他)以降の現代ピアノ流儀までを、自在に行ったり来たり。本当に参照する世界が広く、その語彙の交換は1曲のなかで思うままされるのだが、その流れがまるで潮の満ち引きのような感覚のもとなされるので、全然せわしなくもなくナチュラルで気持ちいい。リズム隊もそんな彼のピアノ演奏に沿って、いろんな入り方(だから、途中でピアノのソロ演奏になったりとかもする)や絡みを見せる。閃きや自分でありたいという身持ちがよく整理され、かつトリオというフォーマットで練られた、優秀な現代ジャズ・ピアノ表現。そんなにビートが効いたことをするわけではないが、<潮の満ち引き>と先に書いたような抑揚や流れがあるので、接していて気持ちよく身体が揺れて仕方がなかった。本編70分を聞いて、20時開演の次の会場に移動。

 赤坂・ブリッツでの公演は、90年代ちょい半ば以降前線で活躍してきている、米国西海岸白人業師のDJシャドウ(2003年3月25日、2006年8月13日)。“シャドウスフィア”と名付けられた、円形大オブジェを用いた設定のショウで昨年から評判を取っていたものの、2011 年度版のそれ。なるほど、中にDJ機材を組み組み込んだ球体をステージ中央に置いての、音と映像が一体化した、新奇で圧倒的に接する者の五感を刺激する出し物が繰り広げられた。最後には、映画のエンドロールのように、関わった人のクレジットが流される。それ、いろんな人の英知と苦労の結晶でもあるんだろう。

 球体とステージ背景に映し出される映像の噛み合い、息を飲ませる訴求力はなんと言っていいものやら。球体は前面が空く場合もあり、その際は音をオペレートするDJシャドウの姿を確認できる。たまに打楽器パッドを叩いたりもした彼がどんな機械扱いのもと音を送り出しているかはよく判らないが、基本の流れは決まっているのだろうけど、その場で音を臨機応変に作り出している(下敷き音はプリセットだが、上乗せ音はその場で出している場合も少なかったんではないか)感じがあるのがいいし、何より出て来るDJ音は刺激的にして味がある。やっぱ、腕と音楽ココロあり。でもって、そこにあっと驚く設定を持つバカみたいに高水準の映像が寄添うのだから、これは降参するっきゃない。もー、体験。ショウは21時半に終了、頭の20分は見れなかったが、僕は存分に楽しんだ。流石すぎる。なお、その映像のパッケージの凄さに関して、ぼくは見てないから判断がつかないが、マイケル・ジャクソンの「キャプテンEO」を凌駕しているという感想をもらす人もいました。

 そして、南青山・ブルノート東京にセカンド・ショウ開始10分後に飛び込む。結果、1時間ちょい見れた。出演者はタニア・マリア。<ブラジルの爆発感や天衣無縫さ>と<ジャズの流動性や飛翔感>を巧みに交錯させるシンガー/ピアニストだ。

 お、前回(2009年8月18日)より、なんか精気があり、グっと来るじゃないか。それについては、前回はトリオによるものだったが、今回はさらに打楽器奏者が加わっていたこともプラスに働いているんじゃないか。もう、ぐつぐつごんごん。その嬉しい唯我独尊ぐあいに触れ、それってジェイムズ・ブラウンのそれと重ねてもいいものではないのか、とも、酔っぱらったアタマでほんわか思う。いや、やはり逸材。顔や風体はしぼんだけど、朽ちていない。


<今日のニュース>
 アップル社のCEOだった人物がなくなった。けっこう、まわりが騒いでいる。マック・ユーザーじゃない人もそうなので、功績のある人なのだろう。ぼくは90年代中期からマックを何台も買い続けているが、あ、そーですかという感じ。PC、まるで詳しくないしね。アップルを使っている最大の理由はウィンドウズよりシンプル(そう)で、ウィルスに悩まされることがないからであるし。人間は必ず死ぬ、もの。図太いほうでもないと思うし、ぼくは人の死についてなるべく深く受けとめないようにしているということはあるのだが、別に思いはわかない。好奇心が下敷きとなるアップルが送り出した諸々で、我々の生活はおおきく変わった。ぼくはPCだけで、i-ポッドもi-フォンも使っていない。前者はイアー/ヘッド・フォンが大嫌いな事、後者は使いこなせるはずがないから、持とうとは思わない。携帯の充電を2〜3日に一度しかしない人間だと、すぐに電池切れになるだろうし。あ、後者に関しては、コンサート中も人と会っているときものべつまくなし画面をのぞく無礼で寂しいi-フォン・ユーザーをいろいろ見てケーベツしているからというのもあるか。もちろん、机の前のマックがなかったら、ぼくは仕事ができなくなる。が、どこかで、この便利さ、効率の良さに疑問を感じているのか? と、思うのも、止まったじじいのようで悲しい。

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