ワールドハピネス2011。アブドゥーラ・イブラヒム
2011年8月7日 音楽 2008年から始められ、09年からはYMOがトリを務める邦楽系野外フェス。場所は新木場駅近くの夢の島公園・陸上競技場。なるほど、横のほうには公園ぽい緑や空間がどばあっと広がっていて、東京都民が出すゴミの埋め立てで出来た土地とはとても思えない。16時に会場に着く。サケロックの星野源がフォークな生ギター弾き語りをやっている。昼下がりは相当に熱かったらしいが、雨が降ったりも。大小一つづつのステージを持ち、交互に出演者は登場する。
鈴木慶一(2004年12月12日)と高橋幸宏(2009年10月31日)のTHE BEATNIKS、神聖かまってちゃん(へーえ、こんなん)、サカナクション(人気あるんだなー。なるほど、今ならではの邦楽のメインストリームと言えるか。フロント男性のお行儀のいいMCにはびっくり)、salyu x salyu、YUKI、TOWA TEI、YMOと見る。YUKIとTOWA TEIは奥の方で、知人で飲み和んでいたので、流れてくる音に接しただけですが。YMOでは何人かがサポート、入っていた外国人はクリスチャン・フェネス(2010年11月17日、他)? 坂本龍一はハンド・マイクを持って肉声を発したりした。また、彼がスローガンに掲げる<No Nukes,More Trees>と言う文字が白抜きされた黒い大きな旗を、生理的にまっすぐに振ったりも。細野晴臣(2010年4月15日、他)は少し若く見えたかな。新曲もやったそう。
とにもかくにも、驚いたのは、salyu x salyu。なんじゃあ、これ。2011年最大の出会いとなるのは間違いない。その名前自体もぼくはちゃんと認知してなかったので、余計に鮮烈。Salyuという女性シンガーの多重歌声プロジェクトらしいが、実演はサポートの複数シンガーを雇い、コーラス・グループのようにパフォーマンスする。と書くと、そのオルタナティヴな音楽性からは生理的に離れてしまうかな。
小山田圭吾(2009年1月21日)がプロデュースしているそうだが、ノリとしては、コーネリアスの才気と広がりに満ちたサウンドを百花繚乱する(あ、この形容は大げさです)肉声に置き換えてやってしまうとこうなる? 気のきいた楽曲と伴奏の上で戯れる女性ヴォーカル陣は歌を重ねるだけでなく、拍手で凝ったアクセント音を入れたり、鳴りものやピアニカ音を入れたりも。そういうのも愛らしくも有機的に重なり、ライヴの場で本当に素敵な像を結ぶ。
かなり難しいことをやっているはずなのに飄々無邪気なノリで、音楽をする歓びを振りまき、けっこう実験的かつ挑戦的なことをやっているのにしなやか柔和で、ポップ音楽の輝きを放っているのだから、これは言うことがない。
とにかく、釘付け、ぶっとんだ。海外のフェスやライヴ関連のキュレイターやオーガナイザーに知り合いがいたら、ぼくはもう捨て身で推薦しちゃうなあ。ハイパートーキョーのサップ・ママ(2004年12月16日)、なんて説明したりしてな。やっぱ、日本のポップ音楽界は凄いのはとても凄い。って、それはどこでもそうかもしれないが。
YMOを途中で中座し、南青山・ブルーノート東京に向かう。出演者は南アフリカ生まれの重要ジャズ・ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒム(旧名、ダラー・ブランド)。テンション高い飛躍と人間的なメロディ性を自在に併せ持つ、アフリカの機微たっぷりのピアノ演奏をいろんな形で展開してきたビッグ・ネーム。最初はソロで演奏し、途中からリズムの2人が入り、トリオによるパフォーマンスとなる。どちらにせよ、思いつくまま臨機応変。そんなイブラヒムに無理なく寄添うベルデン・ブロック(ベース)とジョージ・グライ(ドラム)はNYの硬派系ジャズ・サークルにいる奏者たちだ。
別に過剰にタッチが強いわけでも饒舌でもないが、きっちり彼の背景、人間性、心持ちが伝わるパフォーマンス。それ、ひいては、ある種のジャズの素敵も露にする。やはり、貴重な弾き手なり。
<翌日のイブラヒム>
翌日に、御大に取材。長年(古)武道をやっているせいか、年齢(34年生まれ)よりも若く見えるのは間違いない。なんか元気で、今日もトレイニングのため、早朝起きしたと言っていた。長年の武道の師はトネガワ先生とかで、彼はけっこうインタヴューの返答のなかに日本語の単語を入れたりもする。また、日本の染めモノとか、そういうのにも詳しい。それから、デューク・エリントンはこう言ったが、とか、先達の発言を引用して答えを返してくるのも、彼の特徴。それは本人も自覚していて、最後のほうは引用する際にオレもしつこいねという感じおどけて、笑いをさそってきたりもした。アパルトヘイトが崩れ、南アに住む(住める)ようになった彼は悠々、ときどき演奏のため国外に出るという生活のよう。けっこう、厳しい人のようにも思えるが、確かにそういう部分もあるのかも知れないが、ちょっと接した分には、かなりウィットを持ち、サバけているという印象も持った。あなたのジャケット・カヴァーは魅力的なものが多いですよね。と、問うと、「自分でディレクションを出している。でも、マーケッティングとして、それは当然の行為でしょ」とウィンクするように答えたりもする。彼のグループ作の中には本当にカラフルでポップな、大衆アフリカン・フュージョンという内容のものもあるが、それは天然でない部分で作っているのかもと、後からふと思った。あ、それから、彼の娘は米国で活躍する実力派ラッパーのジーン・グレイですね。御大、彼女のことを聞いたら、うれしそうでした。
ところで、彼の旧名を一躍有名にしたピアノ・ソロ作『アフリカン・ピアノ』はECMの前身であるJAPO(Jazz by Post)からのリリース。改めて爆音で聞いてみたら、ピアノ音にはびっくり。わー。これは、完全に現場の音を意図的に、制作者たちの考える局面になんの迷いもなくトランスファーさせている! そして、それは後のECMでより強く出る指針と言える。だが、そういうバイアスをかける行き方も、好奇心おう盛なイブラヒムは楽しんだのではないか。インタヴュー後には、そんなふうにも思える。話は飛ぶが、近く来日するシニッカ・ランゲランのECM盤ライナーノーツで、以下のような事を書いた。
ECMはどんなジャズ・レーベルよりもポップ・ミュージック的である。と、書いたら、笑われるだろうか。
それは、以下の理由による。
多分にレトリックが入るが、ジャズとポップ・ミュージックの違いを、ぼくは次のように説明したりする。無数の点が繋がり線で描いて行くのがジャズとするなら、ポップ音楽は最初から面で描く絵のようなもの。だから、ジャズは最初から最後まで追って聞かないと、その真価が分からない。しかし、ポップ・ミュージックの場合はそうではなく、パっと聞いても何気に判る……。
で、ECMの場合。一聴して、その真価は判らないかもしれないが、すぐにこれはECMの音だ、ああこの広がる余韻や含みは素敵だなあと、思えるものが多い。50年代の骨太なブルーノートのサウンドも一部そうであったかもしれないが、音楽的醍醐味と音質や佇まいが効果的かつ決定的に結びつき、得難い魅力を即効的に放つジャズも絶対にある。
“点”で語る即興音楽の面白さを求めつつ、一方では“面”においても、我々の表現のアドヴェンテージをしっかりと提示してみよう。マンフレット・アイヒャーが社主プロデューサーを勤め続けるECMの新しさ/独自性は、そこにあるのではないか。そのプロダクツが映像的と言われるのも、それゆえのこと。同レーベルの<Editions of Contemporary Music>たる真意もまさしくそこにあると、書いてしまうと我田引水になってしまうかもしれないが。
鈴木慶一(2004年12月12日)と高橋幸宏(2009年10月31日)のTHE BEATNIKS、神聖かまってちゃん(へーえ、こんなん)、サカナクション(人気あるんだなー。なるほど、今ならではの邦楽のメインストリームと言えるか。フロント男性のお行儀のいいMCにはびっくり)、salyu x salyu、YUKI、TOWA TEI、YMOと見る。YUKIとTOWA TEIは奥の方で、知人で飲み和んでいたので、流れてくる音に接しただけですが。YMOでは何人かがサポート、入っていた外国人はクリスチャン・フェネス(2010年11月17日、他)? 坂本龍一はハンド・マイクを持って肉声を発したりした。また、彼がスローガンに掲げる<No Nukes,More Trees>と言う文字が白抜きされた黒い大きな旗を、生理的にまっすぐに振ったりも。細野晴臣(2010年4月15日、他)は少し若く見えたかな。新曲もやったそう。
とにもかくにも、驚いたのは、salyu x salyu。なんじゃあ、これ。2011年最大の出会いとなるのは間違いない。その名前自体もぼくはちゃんと認知してなかったので、余計に鮮烈。Salyuという女性シンガーの多重歌声プロジェクトらしいが、実演はサポートの複数シンガーを雇い、コーラス・グループのようにパフォーマンスする。と書くと、そのオルタナティヴな音楽性からは生理的に離れてしまうかな。
小山田圭吾(2009年1月21日)がプロデュースしているそうだが、ノリとしては、コーネリアスの才気と広がりに満ちたサウンドを百花繚乱する(あ、この形容は大げさです)肉声に置き換えてやってしまうとこうなる? 気のきいた楽曲と伴奏の上で戯れる女性ヴォーカル陣は歌を重ねるだけでなく、拍手で凝ったアクセント音を入れたり、鳴りものやピアニカ音を入れたりも。そういうのも愛らしくも有機的に重なり、ライヴの場で本当に素敵な像を結ぶ。
かなり難しいことをやっているはずなのに飄々無邪気なノリで、音楽をする歓びを振りまき、けっこう実験的かつ挑戦的なことをやっているのにしなやか柔和で、ポップ音楽の輝きを放っているのだから、これは言うことがない。
とにかく、釘付け、ぶっとんだ。海外のフェスやライヴ関連のキュレイターやオーガナイザーに知り合いがいたら、ぼくはもう捨て身で推薦しちゃうなあ。ハイパートーキョーのサップ・ママ(2004年12月16日)、なんて説明したりしてな。やっぱ、日本のポップ音楽界は凄いのはとても凄い。って、それはどこでもそうかもしれないが。
YMOを途中で中座し、南青山・ブルーノート東京に向かう。出演者は南アフリカ生まれの重要ジャズ・ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒム(旧名、ダラー・ブランド)。テンション高い飛躍と人間的なメロディ性を自在に併せ持つ、アフリカの機微たっぷりのピアノ演奏をいろんな形で展開してきたビッグ・ネーム。最初はソロで演奏し、途中からリズムの2人が入り、トリオによるパフォーマンスとなる。どちらにせよ、思いつくまま臨機応変。そんなイブラヒムに無理なく寄添うベルデン・ブロック(ベース)とジョージ・グライ(ドラム)はNYの硬派系ジャズ・サークルにいる奏者たちだ。
別に過剰にタッチが強いわけでも饒舌でもないが、きっちり彼の背景、人間性、心持ちが伝わるパフォーマンス。それ、ひいては、ある種のジャズの素敵も露にする。やはり、貴重な弾き手なり。
<翌日のイブラヒム>
翌日に、御大に取材。長年(古)武道をやっているせいか、年齢(34年生まれ)よりも若く見えるのは間違いない。なんか元気で、今日もトレイニングのため、早朝起きしたと言っていた。長年の武道の師はトネガワ先生とかで、彼はけっこうインタヴューの返答のなかに日本語の単語を入れたりもする。また、日本の染めモノとか、そういうのにも詳しい。それから、デューク・エリントンはこう言ったが、とか、先達の発言を引用して答えを返してくるのも、彼の特徴。それは本人も自覚していて、最後のほうは引用する際にオレもしつこいねという感じおどけて、笑いをさそってきたりもした。アパルトヘイトが崩れ、南アに住む(住める)ようになった彼は悠々、ときどき演奏のため国外に出るという生活のよう。けっこう、厳しい人のようにも思えるが、確かにそういう部分もあるのかも知れないが、ちょっと接した分には、かなりウィットを持ち、サバけているという印象も持った。あなたのジャケット・カヴァーは魅力的なものが多いですよね。と、問うと、「自分でディレクションを出している。でも、マーケッティングとして、それは当然の行為でしょ」とウィンクするように答えたりもする。彼のグループ作の中には本当にカラフルでポップな、大衆アフリカン・フュージョンという内容のものもあるが、それは天然でない部分で作っているのかもと、後からふと思った。あ、それから、彼の娘は米国で活躍する実力派ラッパーのジーン・グレイですね。御大、彼女のことを聞いたら、うれしそうでした。
ところで、彼の旧名を一躍有名にしたピアノ・ソロ作『アフリカン・ピアノ』はECMの前身であるJAPO(Jazz by Post)からのリリース。改めて爆音で聞いてみたら、ピアノ音にはびっくり。わー。これは、完全に現場の音を意図的に、制作者たちの考える局面になんの迷いもなくトランスファーさせている! そして、それは後のECMでより強く出る指針と言える。だが、そういうバイアスをかける行き方も、好奇心おう盛なイブラヒムは楽しんだのではないか。インタヴュー後には、そんなふうにも思える。話は飛ぶが、近く来日するシニッカ・ランゲランのECM盤ライナーノーツで、以下のような事を書いた。
ECMはどんなジャズ・レーベルよりもポップ・ミュージック的である。と、書いたら、笑われるだろうか。
それは、以下の理由による。
多分にレトリックが入るが、ジャズとポップ・ミュージックの違いを、ぼくは次のように説明したりする。無数の点が繋がり線で描いて行くのがジャズとするなら、ポップ音楽は最初から面で描く絵のようなもの。だから、ジャズは最初から最後まで追って聞かないと、その真価が分からない。しかし、ポップ・ミュージックの場合はそうではなく、パっと聞いても何気に判る……。
で、ECMの場合。一聴して、その真価は判らないかもしれないが、すぐにこれはECMの音だ、ああこの広がる余韻や含みは素敵だなあと、思えるものが多い。50年代の骨太なブルーノートのサウンドも一部そうであったかもしれないが、音楽的醍醐味と音質や佇まいが効果的かつ決定的に結びつき、得難い魅力を即効的に放つジャズも絶対にある。
“点”で語る即興音楽の面白さを求めつつ、一方では“面”においても、我々の表現のアドヴェンテージをしっかりと提示してみよう。マンフレット・アイヒャーが社主プロデューサーを勤め続けるECMの新しさ/独自性は、そこにあるのではないか。そのプロダクツが映像的と言われるのも、それゆえのこと。同レーベルの<Editions of Contemporary Music>たる真意もまさしくそこにあると、書いてしまうと我田引水になってしまうかもしれないが。
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