日野皓正

2011年7月25日 音楽
 基本1コードの怒濤&混沌のビート・サウンドに、アブストラクトなトランペット・ソロが炸裂! それが、1時間50分! 南青山・ブルーノート東京、セカンド・ショウ。

 新作『アフターショック』に基づく実演で、日野(2011年3月28日、他)御大に加え、DJのdj honda、アコースティック・ピアノの石井彰(2006年11月3日、他)、電気ギターの小沼ようすけ(2011年3月28日、他)、電気ベース/ラップの日野賢二(2006年1月9日、他)、キーボードのPenny-k(2007年11月27日。アルバムに参加していた佐藤允彦の代役)、コントラバス/タブラの須川崇志(2010年3月14日)という面々。ようは、ドラムレス編成で、ビートはスクラッチングもするDJホンダが送り出し、そこに2ベースと2鍵盤、ギターがえいやって入るというものなり。

 一言でいえば、尖った楽器ソロがのった、“極左”と言うしかない、フリーでヴァイタルなファンキー・ジャズ表現が展開される。演奏した多くの曲は『アフターショック』に入っていた日野曲だったようだが、この設定で、「メリー・ゴーランド」や「アボリジナル」など彼の81年作『ダブル・レインボウ』(CBSコロムビア。菊地雅章の『ススト』と対になるような逸品)の曲をやってほしいと思ったか。あ、話はズレるが、ビュークの「ペイガン・ポエトリー」(2001年『ヴェスパタイン』収録)を聞くと、ぼくは『ダブル・レインボウ』収録の「イエロー・ジャケット」を思い出す。

 熱とどう転がるか判らない現場性をたたえたライヴに触れながら、こんなことも考えた。……マイルス・デイヴィスが亡くなったのは65歳。80年代中ごろ以降はバッキング・トラック作りを丸投げし、本人は素直なメロディをなぞることに徹した。ま、それはそれでいい。が、現在、68歳の日野はなんら枯れるなく(今回の設定は息子の賢二がけっこうお膳立てしたようだが)、アブストラクトでフラッシイなトランペット演奏を青筋立てて怒濤のビートにのせまくり、身軽に踊りまくる(ショウの後半)。ほんと、日野はモンスター。破格にして、賞讃するにあまりある。

 そのトランペット演奏にある名人芸たる冴えたフレイジングや心狂おしい含みは、もしかすると70年代中期には完成していたもの、披露していたものかもしれない。だが、これだけエモーショナルな曖昧〜ジャズたる輝かしい暗黒と直結した何かを“今”とつながりつつ出せる人は、そうはいないのではないか。やはり、ぼくは日野皓正のことが大好きなよう。自虐的というか、どんどんコワれていくMCはちょいしんどいが。

<今日の記憶>
 日野皓正というと、思い出すことがある。彼の公式サイトのディスコグラフィーには載せられていないが、89年に東芝EMIから『オン・ザ・ロード』というスペイン録音のアルバム(ワールド・ミュージック旋風を受けた内容、とも言えるか)を出したことがあった。が、なぜかジャケット・カヴァーはタイのプーケットで撮影し、取材はそこで受けますとなった。ああ、バブリーなころ。レコード会社の人間や撮影スタッフなどに加え、確か二媒体がその撮影ツアーに呼ばれ、ぼくはそのうちの一媒体のインタヴューアーとしてプーケット行きに加わった。
 行きは日野さんも一緒。成田空港の免税店で、彼は沢山の洋酒を買い求めた。ああ、お酒大好きなんだ……。リゾート・ホテルでは一緒にテニスをさせてもらったり、ディスコに行ったり。ディスコに入るやいなや、彼は派手に踊りっぱなし。ああ、楽しむ事にも一流で、何をやるのも全力投球なんだァと了解できた。そして、彼はお酒も煙草も嗜まない人であることも。
 取材陣が帰国する前夜、彼は一緒に来た人間を一人づつ部屋に呼んだ。「こんなボクのためにわざわざ一緒に来てくれて、本当にありがとう」。そう言って、彼が渡したのは、成田で買い求めたお酒だった。


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