シカゴ。クランツ・カーロック・ルフェーヴル
2010年2月19日 音楽 シカゴはロックを聞きだした頃から、リアル・タイムに聞いたバンドだった。彼らはブラス・ロックと呼ばれた管セクション付きの大型バンドで、BS&Tとかチェイスとか同型の米国グループは他にもいたが、ちゃんとアルバムを買ったのは彼らだけ。とはいえ、ぼくがちゃんと聞き込んだのは5枚目の『シカゴⅤ』(72年)までで、そのあとはなぜかすうっと潮が退くように興味が失せてしまい、“その他”のバンドになってしまったわけだけど。そしたら、それと軌を一にするように音楽性がどんどん甘くなっていって、80年代に入るころには耳に入れたくない存在となってしまった。ではあるものの、その初期の男っぽく、ツっぱった音楽性のことを思うと、生理的に発汗するぐらいの愛着は今のぼくのなかにもしっかりとある。
そんな彼らは初期においては反体制的なイメージを鬼のように背負って活動をしていたわけだが、曲者音楽家が大挙出演した(ルー・リード、ボブ・ディラン、ランDMC、ルーベン・ブラデス、トニー・ウィリアムズ、デイヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス、ビッグ・ユース、ボーノ、ボニー・レイット、ジョーイ・ラモン、アフリカ・バンバータ、ボビー・ウォマック、ジョージ・クリントン、ジミー・クリフ、元ミッドナイト・オイルで現在は“おクジラ様”な態度を横柄に取る豪州国務大臣のピーター・ギャレット、他)、南アの反アパルトヘイトを掲げた85年チャリティ・プロジェクト“サン・シティ”で反面教師的に非難の矢面に立たされたときにはびっくりしたっけ。それは、その名前を冠した白人用の象徴的娯楽施設に彼らが出演していたためで、リトル・スティーヴン主導の同曲の決めのリフレインは"Ain’t Gonna Play Sun City!“だった。ちなみに、その曲はアフリカ風味もまぶしたヒップホップ・ロックの傑作(クリップは、ジョナサン・デミやゴドリー&クリームらが監督)で、「ウィ・アー・ザ・ワールド」やボブ・ゲドルフ主導の「ドゥ・セイ・ノウ・イッツ・クリスマス」と当時相次いた有名人満載チャリティー・ソングのなか、ぼくは「サン・シティ」がダントツで好きだった。
有楽町・東京国際フォーラムのホールA。翌日も行われるが、けっこう入っている。笑っちゃうぐらいに、中年越えの人だらけ。オヤジだけでなくオバハンも目に付き、女性からも受けたバンドであるのを認知する。71、72、73年と連続して日本ツアーを行い、東京公演は必ず日本武道館で、初期の日本ロック興行史のなかではトップに大きな存在であったろうバンド。72年の時は、NYカーネギー・ホールでの4枚組の実況盤を出したばかりなのに、日本では2枚組『ライヴ・イン・ジャパン』としてまとめられ、それは遅れて海外でもリリースされた。故テリー・キャスのギター音のチューニングが甘くて少し気持ち悪いそこには、2曲の日本語ヴァージョンが納められていた。この晩もさっそく、2曲目に愛想良く、彼らは日本語版曲(「クエスチョンズ67&68」だったか)を決める。彼らは、かつてもっとも日本にフレンドリーなロック・バンドでもあったのですね。
ロバート・ラム(ピアノ、ヴォーカル)と3人の管楽器奏者がオリジナル・メンバー(という触れ込みだったようだが、サックス/フルート奏者は少し若目に見えたので、新参かな)。他に、ベース/歌、ギター/歌、キーボード/歌、ドラム、パーカッションという、9人編成によるもの。ステージの両側には大きなヴィジョンが置かれ、メンバーの表情/仕草は手に取るように分かる。で、驚いたのは、歌う人は皆ヘッド・セットのマイクを使用し、ブラス陣はワイヤレスのピックアップをつけていて、かなり動いてパフォーマンスすること。じいさん&おじさんたち、意気軒昂。ノースリーブの上着を着たトロンボーンのジェイムズ・パンコウは特に張り切りまくって動き、見栄を切る(前夜は、遅くまでホテルのバーで飲んでいてぐだぐだになっていたらしいが)。ほう。やはり、ホーン音の絡みは好アレンジのもと良好、ときに取った各ソロは確か。本当に、鍛錬された奏者が意気をもって結成したバンドであることが、改めて分かる。当初からブラス・アレンジも担当したパンコウは当時の全米の大学ビッグ・バンド在籍のトロンボーン奏者のなかピカ一の存在ですぐにジャズ・マンとしても活躍できる、なんて紹介のされかたもしたと記憶するが、それもありなん。
1時間45分ほどのパフォーマンス、演奏曲の半分ぐらいは知っていたので、やはり初期曲比率は高かったんじゃないか。うれしい。一番、リード・ヴォーカルを取る比率が高かったのはベーシスト。ハイ・トーンで歌う人で、彼はオリジナル・ベース奏者のピーター・セテラのノリを踏襲する。だが、ベースの指さばきは普通で、それは残念。実は、セテラはベーシストとしては、ポール・マッカートニーの演奏スタイルを最大級に引き継いでいた人。コードの分解に終わらず、ちゃんとメロディと曲調を読んで手数多くメロディアスなフレイズを置いていた彼は、とても秀逸なロック・ベーシストだったと思う。
そんな部分にも表れているように、ジャズ流れのインスト部に力を入れるだけでなく、ザ・ビートルズから受けたようなポップ性も一部では持つバンドであったし、だからこそコーラスに力を入れた曲もあり、曲種に合わせて複数のリード・シンガーを自在に使い分けたりも、彼らはした。それを活かして対話調の曲を作ったときもあったし、集会音を巧みにコラージュした曲を作ったこともあったし(政治的な意識をリアルに表明するために用いたその指針は、チャーリー・ヘイデンのリベレイション・ミュージック・オーケストラ第一作の行き方と重なり、まさに時期も重なった;2001年11月20日参照)、野心的な長尺曲を披露したこともあるなど、あまりにどん欲にいろんな表現に邁進していたバンド。やはり、娯楽性にも長けたこの晩のパフォーマンスに触れてぼくが感じたのは、そんな燦然と輝く事実であったのは間違いない。やはり彼らは、ロックという表現の定型がきっちりと出来上がらず、自分たちならではのロックを作り出すゾと意欲たっぷりにいろんな事に担い手が臨めた時代(彼らは、69年アルバム・デビュー)の旗手であった! だが、そんな彼らも、70年代中盤を超えると開拓/挑戦することを止め徐々に所謂AORという枠型に自分たちの表現を停滞させることを求めてしまう。……それゆえ、ぼくは彼らを見限ったんだナ、とも、ちんたらした曲もやる今のシカゴのパフォーマンスに触れつつ、再確認した。
終盤、有名曲「サタディ・イン・ザ・パーク」のとき、ラムはなんとショルダー・キーボードを手に前に出てきて歌う。ピアノ・ポップの傑作ながら、途中から風と広がりを持つ、本当良くできた曲。1999年7月31日に記しているように、鮮やかな情景を蘇らせる力を持つ曲でもある。一緒に口ずさめてうれしー。やっぱ、素敵なヴァリエイションや表情や曲をいろいろと持つ大グループ、機会が許せばまた見たいな。
その後は、道路を挟んで位置する丸の内・コットンクラブに流れて、在NYのインストゥメンタル奏者の名前が連記された、昨年に同名義のアルバムを出してもいるトリオの実演を見る。90年代は独エンヤ・レーベルからリーダー作を出していたウェイン・クランツ(ギター)、再結成後のスティーリー・ダン(2000年5月15日)に関与しているキース・カーロック(ドラム)、この3人の中では一番フュージョン色の強いセッションに関わっているティム・ルフェーブル(ベース)という内訳。カーロックとルフェーブルはラダーというギターレス/サックス付き4人組(一部で、ポストMM&Wという評も受けているようだ)を組んでいたりもしますね。3人ともトホホなほど普段着、リズム隊は譜面を前にする。
けっこう熱心なファンがいるようで、拍手/反応はそこそこ受けている。で、3人は辛口フュージョンというよりは、パワー・ジャズと言ったほうが適切と思える演奏を繰り広げる。そう思わせるのは、ちゃんとリアルな対話があったためであり、カーロックが笑っちゃうぐらいに叩き込み型の演奏に終始していたため(グルーヴはあまり感じなかったが、このリズムの上にジェイムズ・ウルマーが乗ってもそんなに違和感ないかもと感じた局面もアリ)。1曲ぐらい、ゆったりした曲をやるのかと思ったら、全部その路線。バラード嫌いのぼくは、おおいに拍手! オープナーはかなり仕掛けに凝った曲でもあり、それは個性あり。それ以降は、もう少し1発っぽい曲をやっていたが。また、1曲だけ、テーマ部でクランツは少し歌った。1曲15分ぐらいの尺で、1時間半演奏。
そんな彼らは初期においては反体制的なイメージを鬼のように背負って活動をしていたわけだが、曲者音楽家が大挙出演した(ルー・リード、ボブ・ディラン、ランDMC、ルーベン・ブラデス、トニー・ウィリアムズ、デイヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス、ビッグ・ユース、ボーノ、ボニー・レイット、ジョーイ・ラモン、アフリカ・バンバータ、ボビー・ウォマック、ジョージ・クリントン、ジミー・クリフ、元ミッドナイト・オイルで現在は“おクジラ様”な態度を横柄に取る豪州国務大臣のピーター・ギャレット、他)、南アの反アパルトヘイトを掲げた85年チャリティ・プロジェクト“サン・シティ”で反面教師的に非難の矢面に立たされたときにはびっくりしたっけ。それは、その名前を冠した白人用の象徴的娯楽施設に彼らが出演していたためで、リトル・スティーヴン主導の同曲の決めのリフレインは"Ain’t Gonna Play Sun City!“だった。ちなみに、その曲はアフリカ風味もまぶしたヒップホップ・ロックの傑作(クリップは、ジョナサン・デミやゴドリー&クリームらが監督)で、「ウィ・アー・ザ・ワールド」やボブ・ゲドルフ主導の「ドゥ・セイ・ノウ・イッツ・クリスマス」と当時相次いた有名人満載チャリティー・ソングのなか、ぼくは「サン・シティ」がダントツで好きだった。
有楽町・東京国際フォーラムのホールA。翌日も行われるが、けっこう入っている。笑っちゃうぐらいに、中年越えの人だらけ。オヤジだけでなくオバハンも目に付き、女性からも受けたバンドであるのを認知する。71、72、73年と連続して日本ツアーを行い、東京公演は必ず日本武道館で、初期の日本ロック興行史のなかではトップに大きな存在であったろうバンド。72年の時は、NYカーネギー・ホールでの4枚組の実況盤を出したばかりなのに、日本では2枚組『ライヴ・イン・ジャパン』としてまとめられ、それは遅れて海外でもリリースされた。故テリー・キャスのギター音のチューニングが甘くて少し気持ち悪いそこには、2曲の日本語ヴァージョンが納められていた。この晩もさっそく、2曲目に愛想良く、彼らは日本語版曲(「クエスチョンズ67&68」だったか)を決める。彼らは、かつてもっとも日本にフレンドリーなロック・バンドでもあったのですね。
ロバート・ラム(ピアノ、ヴォーカル)と3人の管楽器奏者がオリジナル・メンバー(という触れ込みだったようだが、サックス/フルート奏者は少し若目に見えたので、新参かな)。他に、ベース/歌、ギター/歌、キーボード/歌、ドラム、パーカッションという、9人編成によるもの。ステージの両側には大きなヴィジョンが置かれ、メンバーの表情/仕草は手に取るように分かる。で、驚いたのは、歌う人は皆ヘッド・セットのマイクを使用し、ブラス陣はワイヤレスのピックアップをつけていて、かなり動いてパフォーマンスすること。じいさん&おじさんたち、意気軒昂。ノースリーブの上着を着たトロンボーンのジェイムズ・パンコウは特に張り切りまくって動き、見栄を切る(前夜は、遅くまでホテルのバーで飲んでいてぐだぐだになっていたらしいが)。ほう。やはり、ホーン音の絡みは好アレンジのもと良好、ときに取った各ソロは確か。本当に、鍛錬された奏者が意気をもって結成したバンドであることが、改めて分かる。当初からブラス・アレンジも担当したパンコウは当時の全米の大学ビッグ・バンド在籍のトロンボーン奏者のなかピカ一の存在ですぐにジャズ・マンとしても活躍できる、なんて紹介のされかたもしたと記憶するが、それもありなん。
1時間45分ほどのパフォーマンス、演奏曲の半分ぐらいは知っていたので、やはり初期曲比率は高かったんじゃないか。うれしい。一番、リード・ヴォーカルを取る比率が高かったのはベーシスト。ハイ・トーンで歌う人で、彼はオリジナル・ベース奏者のピーター・セテラのノリを踏襲する。だが、ベースの指さばきは普通で、それは残念。実は、セテラはベーシストとしては、ポール・マッカートニーの演奏スタイルを最大級に引き継いでいた人。コードの分解に終わらず、ちゃんとメロディと曲調を読んで手数多くメロディアスなフレイズを置いていた彼は、とても秀逸なロック・ベーシストだったと思う。
そんな部分にも表れているように、ジャズ流れのインスト部に力を入れるだけでなく、ザ・ビートルズから受けたようなポップ性も一部では持つバンドであったし、だからこそコーラスに力を入れた曲もあり、曲種に合わせて複数のリード・シンガーを自在に使い分けたりも、彼らはした。それを活かして対話調の曲を作ったときもあったし、集会音を巧みにコラージュした曲を作ったこともあったし(政治的な意識をリアルに表明するために用いたその指針は、チャーリー・ヘイデンのリベレイション・ミュージック・オーケストラ第一作の行き方と重なり、まさに時期も重なった;2001年11月20日参照)、野心的な長尺曲を披露したこともあるなど、あまりにどん欲にいろんな表現に邁進していたバンド。やはり、娯楽性にも長けたこの晩のパフォーマンスに触れてぼくが感じたのは、そんな燦然と輝く事実であったのは間違いない。やはり彼らは、ロックという表現の定型がきっちりと出来上がらず、自分たちならではのロックを作り出すゾと意欲たっぷりにいろんな事に担い手が臨めた時代(彼らは、69年アルバム・デビュー)の旗手であった! だが、そんな彼らも、70年代中盤を超えると開拓/挑戦することを止め徐々に所謂AORという枠型に自分たちの表現を停滞させることを求めてしまう。……それゆえ、ぼくは彼らを見限ったんだナ、とも、ちんたらした曲もやる今のシカゴのパフォーマンスに触れつつ、再確認した。
終盤、有名曲「サタディ・イン・ザ・パーク」のとき、ラムはなんとショルダー・キーボードを手に前に出てきて歌う。ピアノ・ポップの傑作ながら、途中から風と広がりを持つ、本当良くできた曲。1999年7月31日に記しているように、鮮やかな情景を蘇らせる力を持つ曲でもある。一緒に口ずさめてうれしー。やっぱ、素敵なヴァリエイションや表情や曲をいろいろと持つ大グループ、機会が許せばまた見たいな。
その後は、道路を挟んで位置する丸の内・コットンクラブに流れて、在NYのインストゥメンタル奏者の名前が連記された、昨年に同名義のアルバムを出してもいるトリオの実演を見る。90年代は独エンヤ・レーベルからリーダー作を出していたウェイン・クランツ(ギター)、再結成後のスティーリー・ダン(2000年5月15日)に関与しているキース・カーロック(ドラム)、この3人の中では一番フュージョン色の強いセッションに関わっているティム・ルフェーブル(ベース)という内訳。カーロックとルフェーブルはラダーというギターレス/サックス付き4人組(一部で、ポストMM&Wという評も受けているようだ)を組んでいたりもしますね。3人ともトホホなほど普段着、リズム隊は譜面を前にする。
けっこう熱心なファンがいるようで、拍手/反応はそこそこ受けている。で、3人は辛口フュージョンというよりは、パワー・ジャズと言ったほうが適切と思える演奏を繰り広げる。そう思わせるのは、ちゃんとリアルな対話があったためであり、カーロックが笑っちゃうぐらいに叩き込み型の演奏に終始していたため(グルーヴはあまり感じなかったが、このリズムの上にジェイムズ・ウルマーが乗ってもそんなに違和感ないかもと感じた局面もアリ)。1曲ぐらい、ゆったりした曲をやるのかと思ったら、全部その路線。バラード嫌いのぼくは、おおいに拍手! オープナーはかなり仕掛けに凝った曲でもあり、それは個性あり。それ以降は、もう少し1発っぽい曲をやっていたが。また、1曲だけ、テーマ部でクランツは少し歌った。1曲15分ぐらいの尺で、1時間半演奏。
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