07年に80歳で亡くなったフランス人の有名バレエ振り付け師モーリス・ベジャールの名前は、そのプロダクツに接したことはなくてもなぜか昔から知っていたような。親日家で日本から勲章ももらっている彼はこっこう新聞にも載っていたということなんだろう。彼が主宰するバレエ団はスイスのローザンヌ(IOCの本部があるんだよな)に事務所と練習場を構えていて同市から運営資金の援助を受けているようだが、スペイン人女性のアランチャ・アギーレが監督した「ベジャール。そしてバレエはつづく」は、主を失ったベジャール・バレエ団を題材に置くもの。ベジャールの功績を乱暴に振り返りつつ(過去の写真や映像も少し出てきて、関連者の発言もいろいろインサートされる)、新たな後継リーダー/ダンサーのジル・ロマン(優男で愛煙家。60年生まれ)のもと苦悩しつつ新生を求める様を描かんとするドキュメンタリーだ。一人だけ非ネイティヴな発音ながら英語で答えている人もいたが、他に出てくる言葉は(たぶん)フランス語。なんか、途中でその語感に痒くなってきて、フランスには住めないかもなあとふと思う。

 昼下がりに、TMシアター新宿にて。普段まるで関わりのない分野であるので(かつては、意固地なロック観からアートなものを意識的に遠ざけようとしていたし)、いろいろ興味深い。バレエといえどけっこう今様で、ぼくの頭のなかにあるモダン・ダンスのイメージとけっこう重なる。そして、アートっぽいところももちろん多々あるが、なんか下世話だなと思わせるところも。同バレエ団のダンサーたちは30代半ばぐらいまでの年齢か。中年になると、担い手たちはどうするのかとも思った。皆がカンパニーを主宰できないだろうし、誰もが教える側に立てもしないだろうし。音楽の世界だと肉体的に衰えてもそれが味や含みに繋がりもするが、踊りの世界はなかなかそうもいかないだろう。厳しい世界だな。映画はジル・ロマンの振り付けのもと新作をワールド・プレミアに向けて作っていく様を追うが、舞台美術や衣装などの事は少し紹介されるものの、その音楽については一切語られない。なぜ? 音楽好きとしては、それが少し気になった。

 そして、野暮用をすませた後に、新宿・バルト9で、話題(ですよね? 直前でもチケットが買えた)の限定公開映画の「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を見る。びっくり、もー驚いた。

 ロンドンでの50回もの公演(亡くなった2週間後から、それはスタートする予定になっていた)のためにLAで行われていたリハーサルの模様を押さえた映像を柱とするもので、ダンサー陣のオーディションの様子、雇われたダンサーやミュージシャンの発言、ショウで流す映像やそのシューティングの様などをとっても上手くまとめて2時間近い映画にしている。←アリーナに本番と同様のステージ/仕掛けをちゃんと作りリハは行われていて、映画を見るとけっこうショウに接した気分にもなれる。

 そのリハの模様はジャクソンの個人用途のために撮影されたというが、よくもまああれだけ質に不満がない形でおさえていたものだ(映像の質が低くて、採用できなかったものもあるかもしれないが)。同じ曲のなかでも、格好が違う映像がつなげられていたりもするので、何日もカメラは回されたと考えられる。そのリハはフルのバンド演奏のもと、いろんな趣向が凝らされて進められる。完成度、高し。演奏や歌も、ダンスの絡みもばっちり。何から何まで周到に練られて、最終段階のものとして撮影時のリハは行われているのが分かる。が、驚かされるのは、ジャクソンはその出来に満足することなくそこからまたいろいろと注文を出し(たとえば、ベース・ラインはこうなほうがいい、とか口で指示してみたり)、あくなきブラッシュアップを行う。まさしく、彼はクリエイティヴィティの塊であり、自己表現の鬼であり、明晰な統括者であることをまっとうする。彼のショウの最終リハは完成したものをもっと高い極みを求めて再度磨き挙げ、さらにアイデアを注ぎ込むもの……そうした壮絶な現場〜あまりに秀でたエンターテイナーのあり方を、この映画は分かり易く伝えてくれるわけで、もう感服させられる。いやあ、ほんと凄い。

 リハのジャクソンの振る舞いで一番ぼくが好きなシーンは、イアーフォンでモニター音をもらって歌っていたものの、その音が大きすぎて歌えなくなる場面。そのときのとまどった仕草がチャーミングだし、それを説明しようとする、彼の言葉使いもなんかいい。そして、彼は「けっして怒っているんじゃないんだよ。ぼくは、L-O-V-Eなんだから」というようなことを言う。それがらしくも、とっても良い。唯一違和感を感じるのは、ファッションやビート(集団でのダンスにおけるステップの決め、とか)の感覚において軍隊を想起させたりもすること。それ、愛と平和を生真面目に説くジャクソンに合わないとぼくは感じる。

 それから、ショウの背景映像用にシューティングされたブツの質の高さにもびっくり(たとえば、「スリラー」は別ヴァージョンの演奏にて新たなヴィデオ・クリップを作っているようなものだし、映画仕立てのものある)。今回予定されたショウは過去以上に映像をうまく用いようとしたものであることも、この映画は示唆しているだろう。面白いのは純音楽面に関わっているミュージシャンはアフリカ系が主だが、ショウの責任演出家でジャクソンとは長い付き合いを持つケニー・オルテガをはじめ、映像作りや照明など多くの重要裏方はお腹がぷっくりした白人おやじたちであること。ケニー・オルテガはこの映画の監督としてもクレジットされている。そのオルテガはダンサーをしていた御仁で、70年代後半にはトッド・ラングレン(2008年4月7日、他)とも付き合いを持ったサンフランシスコのシアトリカルな賑やかしロック・バンドのザ・チューブスのライヴなんかに関わったのが業界入りの最初だったみたい。その後、TVや映画業界の振り付けで仕事を得るようになり、ひいては総合的な大役をいろいろと担うようになったとようだ。

 とにもかくにも、不眠症だろうとなんだろうと、リハでのジャクソンは元気というか、健やか。繰り返しになるが、歌もダンスも大マル。体型もスリムで格好いいし、澄んだ心持ちや自己表現に対する尽きぬ意欲がほとばしりまくっている。劣化なんてまったく無し。TVで報じられる、オフでの病んでいたりコワれていたりする感じがここにはまったくない。だからこそ、そんな彼がなぜ死ななければならなかったかと、誰もが感じるに違いない。映画を見ながらとっても高揚し嬉しくなるとともに、だからこそどうしようもなく悲しくもなる。

 亡くならなければ、公にはならなかっただろう映像群。それは、一人の天賦の才を持つ人が決定的なものを作り上げて行く様を鮮やかに教える、掛け替えのないものとして結実された。とんでもなく素晴らしい、音楽映画! そして、やっぱり一流の米国のエンターテインメント業界の力はすごいというのも痛感させる。感動したっ。啓発を受けたっ。

 その後、営団地下鉄副都心線に乗って(ぼくは乗るとしても渋谷←→新宿三丁目の間だが、いつもびっくりするぐらいすいている。わざわざ作る必要なかったんじゃないのと、思わずにはいられないぞお。東横線が接続するまではそういう状況が続くのか)、渋谷・デュオに行く。

 まず、出てきたのはイングランド北部出身の、まだ20代半ばだろうベラ・ハーディ。初めて欧州外に出て興奮してマスみたいなMCをしていたが、ほんと初々しい。大学で音楽を専攻している人で、現在UKフォーク界でおおいに注目を集めている新進だそうだが、ミニ・スカート姿やちょいぶりっ娘ぽいしゃべり方はそれとは相容れない感じもあるか。フィドルを手に一人で出てきてパフォーマンスをするが、1曲目からアカペラで自分を開く。おお、落ちついていて、とっても歌力あり。トラッドを中心に歌ったのかな。4分の1ぐらいはアカペラだったかも。他はフィドルを持ちつつ歌うわけだが、面白いのは複音が混ざる一般的なフィドル調の弾き方はあまりせず、単音(低音が多い)を歌に合わせてシンプルに弾いて、淡い単音シンセによるベール効果のような使い方をしていたこと。それ、ゆったりした曲が多かったのとも関係があるのか。なんにせよ、歌は本当に力があった。40分ぐらいのパフォーマンス。

 休憩を挟んで、スコットランド(エジンバラ)のトラッド系トリオのラウー。アコーディオン、生ギター、フィドルが絡まるインストを主体に聞かせるが、ときにはギター奏者がヴォーカルを取ったりもする。MCの声と歌声がけっこう異なる彼、ゆったりした曲のときには倍速でまるで貧乏揺すりをするかのようにせわしなく足をストンプする。人の癖はいろいろですね。アコーディオン奏者からは左手のボタン音を巧みに電気増幅したような非アコーディオン的な音が出ているような気もしたが、足元にはそれなりにエフェクターが置いてあったような。と、そんな事にも表れているように、楽器編成や根本にある流儀はトラッド繋がりだろうが、そこからいろんな創意工夫とともに外に出て行こうという意思が鮮やかに表れる集団。ときに、なんじゃあこのアンサンブルはぁと思わせるところは快感なり。そうでありつつ、残すべきアコースティック性や素朴さをちゃんと保っていたりもし、その大人のイケてる指針こそ、熱心なファンを得ている所以かもしれない。その様に触れていると、まさにプログ(レッシヴ)・トラッドじゃあと思うことしきり。

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