オリンピックのこと。
2008年8月23日 みんな、オリンピックが好きだね。
オリンピックの事には触れてませんねと言ってきた人がいたので、すこし書いておきましょうか。イヴェント好きだし、子供のころは夢の祭典のように感じていたはずだが、成人になって以降は基本どーでもいいというスタンスかな。期間中、TVをつけるとたいてい何か競技を放映しているので、その際はすこしながめてマスという感じ。でも、今回はオリンピックのせいで高校野球が隅においやられた感じがあったのはうれしい。なんか昔から高校野球は嫌いというか、漠然と不信感のようなものをぼくは抱いている。ぼくが通っていたのは県大会で一勝できれば快挙という水準の高校で(ベンチ入りの人数そろえるのにも苦労していたんじゃないかな)、同じクラスに野球部の主将をやっている奴がいたんだけど、そいつが大会前に悲しそうに短髪にしていた。理由を聞くと、高野連がうるさいから、との事。そのころ、髪が長いのは美徳だとぼくは思っていたので、それで一気に高校野球の建前主義に嫌悪感を覚えるようになったような気がする。それに、いろいろある部活のなか、どうして野球だけがちやほやされなければならないのかという違和感を、ぼくは持ち続けている。
話はズレたが、まあ人間て勝負事や強い者が好きだし(4年というスパンも絶妙ですね)、夢中になる人が多いのは分かる。ぼくもユーロやワールドカップにはけっこう燃えるしな。だけど、日本日本、メダルメダルと過剰にさわぐのはなんだかな、なのだ。そりゃ帰属意識はおおいにあるし、日本人が勝てばもちろん嬉しいけど(ソフトボールや陸上男子の400メートル・リレーなんかは見て高揚した)、長年のロック愛好(ジョン・レノン愛好と書いたほうがいいかな)がもたらしただろうリベラルでありたいという気持ちが過剰にナショナリスト方向に傾くのを格好悪いと判断させるのだと思う。えーかっこしいな物言いだが、本当にそう感じるんだからしょーがない。
新聞は良く見るので、結果はけっこう知っている。人口数や経済力が原則ものを言うはずの国別のベダル獲得数、やっぱそんなにムキにならなくてもと思う。メダルの数比較に関して少し変だなと感じるのは、団体球技と個人競技の扱い。長〜い期間に大人数でもって事にあたりやっと優勝してもメダル一つと数えられるのに対して、例えば陸上や水泳は短期間で1人が複数の金メダルを取ることも可能。なんか、おかしくねえ? 野球で優勝したら金9つと数えよ、とは言わないけど。野球と言えば、今回日本がメダルとれなくて良かった。ぼくはどうにも星野仙一監督が駄目。メダル取ってどんなもんだいという彼の態度を(ニュースなどで)見せられずにすんだのは本当にうれしい。
それにしても、TV中継の解説やインタヴューはおうおうにして酷い。もし、ぼくが熱心な五輪TVウォッチャーだったら、爆発しているだろうな。TVを制作する人たちの心智の欠如、底の浅さはスポーツ番組に特に集約されるような気がするが。中継を見るたびに、ぼくは同様のことを原稿で出していないよなと自戒しっぱなし。ハイ。まじに。
最後に、オリンピックとつながる音楽ネタを。
東西冷戦が続いていた80年、多くの西側諸国(日本も、アメリカに同調した)がソ連のアフガニスタン侵攻を理由にモスクワ五輪をボイコットした。なんか、はるか昔の話。今回のロシアのグルジア攻めのニュースを聞いて、ぼくが思い出したのがそのことだった。ロシア、いい根性してんじゃん。
その80年の際、陸上三段跳びの米国オリンピック代表に選ばれていたのが当時の室内米国記録を持っていたヴィンセント・デジャン・パレットという大男。だが、五輪ボイコットでその人生は修正を余儀なくされ、彼は前から好きだった音楽の道に本格的に進むことに決め、84年には奨学金を得て通った大学のあるカンサス・シティからLAに出ることになる。そして、彼はスポーツ・インストラクターで生計を立てつつ(スティーヴィー・ワンダーやダニー・コーチマーらは顧客であった)、我が道を行く音楽作りを求めた。
ヴィンクスと名乗ってパーカッションを弾きながら歌を歌う彼は地道にライヴをやったり(ビル・サマーズのサマーズ・ヒートにも入っていた)、デモ・テープを作ったり。そんなおり、<アフリカ色も強い、レンジの狭い、でも歌心のあるボビー・マクファーリン>という感じもある、そのパフォーマンスを偶然見て、一発で魅了されてしまったのがスティングだった。彼はすぐに動き、当時彼が持っていた自己レーベル“パンジア”から、自分(ライナー・ノーツも担当)やハービー・ハンコック、タージ・マハール、ソロ・デビュー前のシェリル・クロウらが参加したデビュー作『ルームズ・イン・マイ・ファーザーズ・ハウス』を91年にリリースさせる。その後、ヴィンクスは数枚のリーダー作を発表するとともに、現在も活動を続けている。なお、彼のデビュー前のデモ・テープ作りを手伝ったのが、その頃LAに住んでいた沼澤尚。それゆえ、ヴィンクスのデビュー作の感謝の項には沼澤の名前が載せられている。そういえば、大学生になってドラムを叩くようになる前、沼澤は熱心な野球小僧でした。
ヴィンクスは、オリンピック中継を見ているだろうか。
オリンピックの事には触れてませんねと言ってきた人がいたので、すこし書いておきましょうか。イヴェント好きだし、子供のころは夢の祭典のように感じていたはずだが、成人になって以降は基本どーでもいいというスタンスかな。期間中、TVをつけるとたいてい何か競技を放映しているので、その際はすこしながめてマスという感じ。でも、今回はオリンピックのせいで高校野球が隅においやられた感じがあったのはうれしい。なんか昔から高校野球は嫌いというか、漠然と不信感のようなものをぼくは抱いている。ぼくが通っていたのは県大会で一勝できれば快挙という水準の高校で(ベンチ入りの人数そろえるのにも苦労していたんじゃないかな)、同じクラスに野球部の主将をやっている奴がいたんだけど、そいつが大会前に悲しそうに短髪にしていた。理由を聞くと、高野連がうるさいから、との事。そのころ、髪が長いのは美徳だとぼくは思っていたので、それで一気に高校野球の建前主義に嫌悪感を覚えるようになったような気がする。それに、いろいろある部活のなか、どうして野球だけがちやほやされなければならないのかという違和感を、ぼくは持ち続けている。
話はズレたが、まあ人間て勝負事や強い者が好きだし(4年というスパンも絶妙ですね)、夢中になる人が多いのは分かる。ぼくもユーロやワールドカップにはけっこう燃えるしな。だけど、日本日本、メダルメダルと過剰にさわぐのはなんだかな、なのだ。そりゃ帰属意識はおおいにあるし、日本人が勝てばもちろん嬉しいけど(ソフトボールや陸上男子の400メートル・リレーなんかは見て高揚した)、長年のロック愛好(ジョン・レノン愛好と書いたほうがいいかな)がもたらしただろうリベラルでありたいという気持ちが過剰にナショナリスト方向に傾くのを格好悪いと判断させるのだと思う。えーかっこしいな物言いだが、本当にそう感じるんだからしょーがない。
新聞は良く見るので、結果はけっこう知っている。人口数や経済力が原則ものを言うはずの国別のベダル獲得数、やっぱそんなにムキにならなくてもと思う。メダルの数比較に関して少し変だなと感じるのは、団体球技と個人競技の扱い。長〜い期間に大人数でもって事にあたりやっと優勝してもメダル一つと数えられるのに対して、例えば陸上や水泳は短期間で1人が複数の金メダルを取ることも可能。なんか、おかしくねえ? 野球で優勝したら金9つと数えよ、とは言わないけど。野球と言えば、今回日本がメダルとれなくて良かった。ぼくはどうにも星野仙一監督が駄目。メダル取ってどんなもんだいという彼の態度を(ニュースなどで)見せられずにすんだのは本当にうれしい。
それにしても、TV中継の解説やインタヴューはおうおうにして酷い。もし、ぼくが熱心な五輪TVウォッチャーだったら、爆発しているだろうな。TVを制作する人たちの心智の欠如、底の浅さはスポーツ番組に特に集約されるような気がするが。中継を見るたびに、ぼくは同様のことを原稿で出していないよなと自戒しっぱなし。ハイ。まじに。
最後に、オリンピックとつながる音楽ネタを。
東西冷戦が続いていた80年、多くの西側諸国(日本も、アメリカに同調した)がソ連のアフガニスタン侵攻を理由にモスクワ五輪をボイコットした。なんか、はるか昔の話。今回のロシアのグルジア攻めのニュースを聞いて、ぼくが思い出したのがそのことだった。ロシア、いい根性してんじゃん。
その80年の際、陸上三段跳びの米国オリンピック代表に選ばれていたのが当時の室内米国記録を持っていたヴィンセント・デジャン・パレットという大男。だが、五輪ボイコットでその人生は修正を余儀なくされ、彼は前から好きだった音楽の道に本格的に進むことに決め、84年には奨学金を得て通った大学のあるカンサス・シティからLAに出ることになる。そして、彼はスポーツ・インストラクターで生計を立てつつ(スティーヴィー・ワンダーやダニー・コーチマーらは顧客であった)、我が道を行く音楽作りを求めた。
ヴィンクスと名乗ってパーカッションを弾きながら歌を歌う彼は地道にライヴをやったり(ビル・サマーズのサマーズ・ヒートにも入っていた)、デモ・テープを作ったり。そんなおり、<アフリカ色も強い、レンジの狭い、でも歌心のあるボビー・マクファーリン>という感じもある、そのパフォーマンスを偶然見て、一発で魅了されてしまったのがスティングだった。彼はすぐに動き、当時彼が持っていた自己レーベル“パンジア”から、自分(ライナー・ノーツも担当)やハービー・ハンコック、タージ・マハール、ソロ・デビュー前のシェリル・クロウらが参加したデビュー作『ルームズ・イン・マイ・ファーザーズ・ハウス』を91年にリリースさせる。その後、ヴィンクスは数枚のリーダー作を発表するとともに、現在も活動を続けている。なお、彼のデビュー前のデモ・テープ作りを手伝ったのが、その頃LAに住んでいた沼澤尚。それゆえ、ヴィンクスのデビュー作の感謝の項には沼澤の名前が載せられている。そういえば、大学生になってドラムを叩くようになる前、沼澤は熱心な野球小僧でした。
ヴィンクスは、オリンピック中継を見ているだろうか。
コメント