エグベルト・ジスモンチ
2008年7月3日 クラシック〜民俗音楽〜ジャズという枠を自在にかっとぶブラジルのまさしく鬼才(1947年生まれ)の、オーケストラを伴う公演。紀尾井町・紀尾井ホール。洞爺湖でのサミット絡みで駅とかにはパトロールの警察官が目につく。
共演は東京フィルハーモーニー交響楽団。その抜粋なのだろうか、ステージ上には40人ほどがいる(女性奏者の服装のバラバラな色使いは、総体の見え方がお洒落でなく興を削ぐ)。ジスモンチのスコアはそのぐらいの大きさ用に書かれているのだろうか。実はぼくはジスモンチのオーケストラ表現を愛でるようになったのはそんなに昔のことではない。5年前ぐらいに出た、彼のオーケストラ表現が入った2枚組EMI盤『Antologia』を聞き、ジスモンチという人の不思議な才のありかた、一筋縄ではいかない大人数表現の面白さを認識したのだ。指揮者は沼尻竜典、それぞれの足を前後に置いて斜め気味な姿勢で張り切って指揮する人なんだな。
公演は2部制にて、演目はECM盤に入っていた曲が多かったようだ。ジスモンチは一部ではピアノ、2部では10弦ギターを手にして、オーケストラと絡む(オーケストラだけの演奏も、それぞれ1曲づつ)。ピアノの演奏自体はニュー・エイジ・ミュージック的だし、ハーモニックス音を用いたりボディをたたいたりもするギター演奏(こちらは、ソロでも2曲やる)はまさに無勝手流で、クラシック的とは毛頭言いがたい。が、彼の世界観を投影させた独特のスリルや含みやもう一つの美をたたえたオーケストラ表現はまさしく何かを聞き手に感じさせる魅力的なもの(うわー、曖昧な説明の仕方。イカンなと思いつつ、ここでの原稿はより一筆書きすることを是とするので流しちゃう)。で、結果、ここに度を超した物差しを持つ破格の音楽家が、ブラジル人がいるぞと思わせられるわけだ。まあ、実のところ、オーケストラ自体の響きとか重なり具合とかいまいちのような気もしたが、ぼくは身を乗り出して見た。
ふーむ、とにもかくにもオーケストラ表現は興味深い。やっぱ、事情が許せばクラシックをそれなりに突き詰めてみたいナと切に思う。が、そんな(さらには、ライヴ好きの)私ではあっても今のところ、そのホール公演には足を運びたいとはあまり思わない。それは、おとなしくかしこまって見るのが超苦手であるとともに、その終演後の“儀式”に触れると嫌な気分になるからだ。拍手に応え、何度も何度もソリストや指揮者が出てきてお行儀良く挨拶する……、そして何度目かでおもむろにアンコールに答える。そして、また指揮者たちは出たり入ったり。あーかったりー、実におマヌケ。一発でスカっとアンコールにいって、スパっと終わらんかい。聞き手が本当にパフォーマンスに感激して頭のなかに感動の嵐が吹き荒れ、我を忘れてしつこく拍手をし出演者を賞賛する、というのなら分かる。だが、ぼくが今まで接した範囲においてそれはルーティンをなぞる感じを持つもので、クラシックのコンサートはこういうものなのだという共通認識をみんなで共有しあっているように思えてしまう。実に不毛、批評性ゼロにして気色悪い。その様に触れながらクラシック系の聴衆はなんて俗物なんだろうとぼくは思わずにはいられない。まあ、相撲の仕切りみたいに捉えるべきなのかもしれないが、あいにく太っちょ裸男の身体のぶつけ合いもぼくは苦手なんだよな。あーなんてぼくは風情に欠ける、即物的な人間なんだろう。それに、ぼくが感じるような疑問を、ロック公演のアンコールのあり方やジャズの演奏中でのソロをした人への拍手の仕方に覚える人がいても不思議はない。もしかして、クラシックをちゃんと愛好するようになると、講演終了後のそれをアリだと思うようになっちゃうのだろうか。
一応黒色のシャツとパンツは身につけていたものの、赤い布をバンダナのように頭にまいていた(そして、後ろから狸の尻尾のように長髪が出ている)その外見にも現れているように、ジスモンチはせこい決まり事を排し自分の流儀のもと不可解でスピリチュアルな森羅万象表現を世に問うてきた、ある意味パンクな音楽家であるのは間違いない。が、そんな彼もまたクラシック公演のクロージング儀式にはつきあう。なんだかなー。
共演は東京フィルハーモーニー交響楽団。その抜粋なのだろうか、ステージ上には40人ほどがいる(女性奏者の服装のバラバラな色使いは、総体の見え方がお洒落でなく興を削ぐ)。ジスモンチのスコアはそのぐらいの大きさ用に書かれているのだろうか。実はぼくはジスモンチのオーケストラ表現を愛でるようになったのはそんなに昔のことではない。5年前ぐらいに出た、彼のオーケストラ表現が入った2枚組EMI盤『Antologia』を聞き、ジスモンチという人の不思議な才のありかた、一筋縄ではいかない大人数表現の面白さを認識したのだ。指揮者は沼尻竜典、それぞれの足を前後に置いて斜め気味な姿勢で張り切って指揮する人なんだな。
公演は2部制にて、演目はECM盤に入っていた曲が多かったようだ。ジスモンチは一部ではピアノ、2部では10弦ギターを手にして、オーケストラと絡む(オーケストラだけの演奏も、それぞれ1曲づつ)。ピアノの演奏自体はニュー・エイジ・ミュージック的だし、ハーモニックス音を用いたりボディをたたいたりもするギター演奏(こちらは、ソロでも2曲やる)はまさに無勝手流で、クラシック的とは毛頭言いがたい。が、彼の世界観を投影させた独特のスリルや含みやもう一つの美をたたえたオーケストラ表現はまさしく何かを聞き手に感じさせる魅力的なもの(うわー、曖昧な説明の仕方。イカンなと思いつつ、ここでの原稿はより一筆書きすることを是とするので流しちゃう)。で、結果、ここに度を超した物差しを持つ破格の音楽家が、ブラジル人がいるぞと思わせられるわけだ。まあ、実のところ、オーケストラ自体の響きとか重なり具合とかいまいちのような気もしたが、ぼくは身を乗り出して見た。
ふーむ、とにもかくにもオーケストラ表現は興味深い。やっぱ、事情が許せばクラシックをそれなりに突き詰めてみたいナと切に思う。が、そんな(さらには、ライヴ好きの)私ではあっても今のところ、そのホール公演には足を運びたいとはあまり思わない。それは、おとなしくかしこまって見るのが超苦手であるとともに、その終演後の“儀式”に触れると嫌な気分になるからだ。拍手に応え、何度も何度もソリストや指揮者が出てきてお行儀良く挨拶する……、そして何度目かでおもむろにアンコールに答える。そして、また指揮者たちは出たり入ったり。あーかったりー、実におマヌケ。一発でスカっとアンコールにいって、スパっと終わらんかい。聞き手が本当にパフォーマンスに感激して頭のなかに感動の嵐が吹き荒れ、我を忘れてしつこく拍手をし出演者を賞賛する、というのなら分かる。だが、ぼくが今まで接した範囲においてそれはルーティンをなぞる感じを持つもので、クラシックのコンサートはこういうものなのだという共通認識をみんなで共有しあっているように思えてしまう。実に不毛、批評性ゼロにして気色悪い。その様に触れながらクラシック系の聴衆はなんて俗物なんだろうとぼくは思わずにはいられない。まあ、相撲の仕切りみたいに捉えるべきなのかもしれないが、あいにく太っちょ裸男の身体のぶつけ合いもぼくは苦手なんだよな。あーなんてぼくは風情に欠ける、即物的な人間なんだろう。それに、ぼくが感じるような疑問を、ロック公演のアンコールのあり方やジャズの演奏中でのソロをした人への拍手の仕方に覚える人がいても不思議はない。もしかして、クラシックをちゃんと愛好するようになると、講演終了後のそれをアリだと思うようになっちゃうのだろうか。
一応黒色のシャツとパンツは身につけていたものの、赤い布をバンダナのように頭にまいていた(そして、後ろから狸の尻尾のように長髪が出ている)その外見にも現れているように、ジスモンチはせこい決まり事を排し自分の流儀のもと不可解でスピリチュアルな森羅万象表現を世に問うてきた、ある意味パンクな音楽家であるのは間違いない。が、そんな彼もまたクラシック公演のクロージング儀式にはつきあう。なんだかなー。
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