ライヴを見た翌日、エミリオ・カスティロ(57歳)とスティーヴン“ドク”クプカ(62歳)、二人のオリジナル・メンバーにインタヴュー。昔を知る人によると危ないオヤジだったらしいが、今のカスティロはとても紳士的かつ温厚な人。スーツを着ていたら、人情派の管理職といった風情。いっぽう、クプカは悠々とした人で(帽子はステージだけで被るそう)、発言はほとんどカスティロにまかせでおっとり構えている。その記事は毎日新聞の今週木曜(22日)夕刊に出るが、もったいないので、使わなかった発言を以下にいくつかご紹介。

「16歳のときに見たザ・スパイダーズというバンドが凄く好きだった。ホーン・セクションとシンガーがいるバンドで、こういうのやりたいって思った。わざわざサクラメントまで彼らを見に行ったら、ストリップ小屋への出演で、すげえっ俺らもこういう所に出れたらなあなんて思ったな(笑い)。また、スライ・ストーンがまだレコードを出す前のライヴにもとても感化された。すごいエネルギッシュでね。で。その二つを合わせたことをやりたくて、バンドを始めたんだ。まさにそれがタワー・オブ・パワーの求めたところ。なんか、使命のように感じたな。タワー・オブ・パワーの最初のライヴはバークリー・コミュニティ・センターというところでやったんだけど、それはジミ・ヘンドリックスの前座だった。客入りの時にカーテンの前で演奏させられてね。マネイジャーが酷すぎるじゃないかと、(プロモーターの、ロック史に名を刻む大物の)ビル・グレアムに抗議したんだ。そしたら、埋め合わせするからとか言われて」

「俺はカレッジに2年ぐらい行って、ドロップアウトした。最初はオーボエをやってたけど、学校ではソウルを教えてくれないからね。それで、バリトン・サックスに持ち替えて、1年間ファンク・バンドのローディをやっていて、そんなときにエミリオ(カステイロ)に会った。ちょうどサックスがちゃんと吹けるようになってきたときで、彼に会ったのはラッキーだったな」(この発言のみ、クプカさん)。

「サンフランシスコはフラワー・ムーヴメントだヒッピーだと浮かれていたけど、隣のオークランドやバークレーはそれとは違う。で、とにかくソウルが盛んだった。でも、時代的に(シスコにある)フィルモアでやらないことにはどうにもならないから、髪をのばしヒッピーみたいな格好をしてやったりしたな。でも、僕たちが出来るのはソウルだけだったので、それを素直にやっていたけどね。ヒッピー/サイケが下火になり始めてきたとき、逆にライヴ・シーンでは俺たちがおもしろがられた。タイミング的に良かったと思うよ」

「ターニング・ポイントとなる事は沢山ある。ビル・グレアムとアーティスト契約をかわし、フィルモアで人気のバンドになれたとき。その後人気が上がったけど、パンク/ニュー・ウェイヴの時代になると恐竜みたいに思われて人気が下降しちゃったこと。それが、ヒューイ・ルイスとツアーをすることになり、また名前が出るようになったり(そのときは、ホーン・セクションの仕事だけが増えすぎて。さすがリズム・セクションとの関係が危うくなったという)、デイヴィッド・レターマン・ショウ(TV番組)でハウス・バンドをやったのもそうかな。俺たちはドラッグとかいろいろな問題を抱えたバンドだったが、80年代後期にそれを断ち切ったのは大きかった。それは音にも表れているんじゃないか。昔は薬や酒やパーティ好きをつとめてバンドに入れていたが、それ以後はクリーンな奴を入れるようになった(笑い)」

「ホーン・アレンジは最初のころは、その場でせえのでやっていた。グレッグ・アダムス(tp、02年にブルーノートからリーダー作をだしたりも)がいたころは、彼がアレンジャーとして素晴らしかった。今ならば、頼まれるとトラックをまず送ってもらう。で、アイデアがあったら教えてと尋ね、それを基にアレンジを考えてスタジオに行く。やはり、他の人の表現に絡むのは好きだな。宅録なんかも増えて需用は減ってきているけど、これからもいろいろとやっていきたいと思うよ」

「ホーン・セクション参加作でいいナと思えるのは(悩む様子もなくさらりと)、リンダ・ロンシュタットとアーロン・ネヴィルのデュエット「When Something Is Wrong with My Baby」(それが入っているのはリンダの89年作『クライ・ライク・ア・レインストーム』だが、カスティロらの名前は見当たらない。一方、ロンシュタット参加曲もある91年ネヴィル作『ウォーム・ユア・ハート』はタワー勢参加。なだけでなく、タワーを離れたグレッグ・アダムズが管音を仕切っている)。ヒューイ・ルイスの参加したものは全部。それと、エルトンの『カリブ』(74年)。あのアルバムで、タワー・オブ・パワー・ホーン・セクションは知られるようになったからね。あと、リトル・フィートとも複数やっているけど、英国でのライヴ盤『ウェイティング・フォー・コロンブス』(78年)はいいよね」

「(シンガーは声が豪快な人よりは、高音が通るしなやかタイプの人がタワーには起用される傾向があると思うけど、という問いに対し)。うん、そうなんだろうね。そりゃ、ホーン隊もいるしバンド音がパワフルだから、そこから浮かび上がれるタイプを選ぶわけさ。そうすると、高音のほうが突き抜けやすいから、そういう傾向になるんだと思う。パワーも大切だけどね。演奏者にしても、やはり誰でも入れるわけではない。そういうことを出来る人をちゃんと選ぶのさ。そして、グッドな人がグレイトな人になって出て行くわけで、タワー・オブ・パワーは学校みたいだな。こいつはいいぞと見込んで入れたら、使えなくてやめていった奴も何人かはいたなあ」

 今、メンバーは各地に散っているという。カスティロはアリゾナ州(89年の地震後、奥さんがシスコをいやがって故郷に戻り、それについていったそう)、クプカはLAに住む。クプカは普段曲作りに励んでいて、昨年『Doc Goes Hollywood』というアルバムを自主制作した。それは瀟酒なストリングスなどもおごられた、とても端正でノスタルジックなMOR的ポップ盤。なんか、日本で出したがっている感じあったかな。5人の子持ちであるカスティロ(上の二人は前の奥さんとの子供。二番目の娘は音楽好きでユニバーサル・ミュージックに就職したそう。下の3人はまだ14、12、9歳とか)は、普段はとても信心深い生活を送っているようだ。

 タワー・オブ・パワーの結成日は、8月13日だという。今年のその日はすでに別の場所でのライヴ仕事が入ってしまっているので、10月18日にシスコのフィルモアで結成40周年を祝うコンサートをするという。

 それから、こんな質問もした。……かつて、ドナルド・フェイゲンにスティーリー・ダンの音を規定する公式のようなものはありますかと聞いたら、<ファットなR&Bのリズムと、ジャズのハーモニー>と答えたんです。あなたたちの場合は、どう答えますか。それにカスティロは「ユニークな曲作り。クラシックで、ユニークなリズム隊。唯一無二のホーン・セクション。そして、高エネルギーと山ほどのエモーション」と返してくる。そしたら、クプカが「あとは、歌詞。どうでもいいものではなく、俺たちの歌詞にはクレヴァーさがあると思う」と付け加えた。

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