いけねえ、11時間強も寝ちまっった。外出時間までの3時間弱で原稿2500
字、打ちまくる。いや、当人のなかでは、撃ちまくるという感覚だな。くう
っ。

 ジェフ・テイン・ワッツは現純ジャズ界の、最たる働き盛りドラマー(60
年生まれ)。マルサリス兄弟のバッキングをはじめ80年代あたまから、いろ
んなジャズ・アルバムに参加するとともに、数枚のリーダー作を出してきて
いる。今回のバンドはここ数年の彼のリーダー作のレコーディング・メンバ
ーの選抜群ともいうべきもので、マーカス・ストリックランド(テナー。と
きにソプラノ)、デイヴィッド・キコウスキ(ピアノ。一部、キーボードも
)、クリスチャン・マクブライド(ベース。電気ベースも置いていたが、こ
のセットはすべて縦を弾く。2005年1月18日、2006年9月17日。なお、こ
の日は普通の靴を履いていた)を従えてのもの。テイン&ジ・エボニクスと
いうバンド名(それは、07年の新譜タイトルから来たもの)が付けられてい
て、各人ともに数枚づつリーダー作を出している手練たちですね。

 覇気(テインの叩き音はデカかった)のある、今のジャズを1時間半弱(
6〜7曲演奏したか)。ワッツは4ビート曲はレギューラー・グリップ(左
手は、掌を上に向けるようにスティックを握る)で叩き、叩き込む曲や非4
ビートのときはマッチド・グリップ(両手とも、スティックを鷲掴み的に握
る。ロックやR&Bのドラマーは多くがこっちなはず)で演奏。曲調によっ
て握り方を使い分け、曲の途中でも変えたときがあったな。本編最後にやっ
た、メンバー全員の烏合の衆的なヴォーカル(かなりいい感じ)を出だしと
クロージングに用いるワッツ曲「JC・イズ・ザ・マン」はけっこうオーネ
ット・コールマン(2006年3月27日)ぽい曲だった。丸の内・コットンクラ
ブ、ファースト・ショウ。

 そして、南青山・ブルーノート東京に移動。今年2度目の来日となるデイ
ヴィッド・T・ウォーカーが出演。受付階に下りると人が沢山いる。なるほ
ど、演奏時間が長いのだな。それゆえ、ファーストとセカンド・ショウの入
替え時間が押してしまうというわけだ。

 モータウン他、R&Bバッキングのヴァーチュオーソ。60年代後期からリ
ーダー作も出すようになっていて、フュージョンとはならないギター・イン
スト表現を控えめながら世に送り、しっかりと人々のココロに火を灯してる
人。朋友ジェリー・ピータース(キーボード)や一緒にザ・クルセイダーズ
のサポートをしたンドゥグ・チャンスラー(ドラム)など、気心の知れた名
手たちを従えてのもの。

 メロウ。まったくもって、唯一無二の嬉しい手癖。適切なひっかかりを持
ちつつ曖昧な文様を描くようなその特殊演奏はアーニー・アイズレーの複音
弾き演奏とともに、米国黒人音楽/流儀の嬉しい何かをしかと教えるもの。
かつ、デイヴィッド・Tの場合は人徳というか、ある種の高潔さみたいなの
があるのがポイントですね。演目はジャジィに気儘に流れていくような曲が
主体、そして「ラヴィング・ユー」、「ホワッツ・ゴーイン・オン」や「ウ
ォーク・オン・バイ」などの有名曲も取り上げる。個人的には単純なファン
ク・リフに乗って弾きまくり、妙味が溢れ出るような曲が1曲ききたかった
な。彼はセミアコ・タイプのギター(をステージに置いてはいたものの)を
弾かずに、カスタム・メイドっぽいソリッドなエレクトリック・ギターを弾
いていた。

 彼の演奏を聞きながら、ぼくが最初にLAに行ったのは89年だったことを
思い出す。ちょうどNYとワシントンD.C.とシンシナティに遊びに行く機会
があり、ならついでにLAにもおいでよと誘ってきたのが、当時デイヴィッ
ド・Tのアルバムをプロデュースしていた基本LA在住の日本人Oだったの
だ(ぼくは海外出張と重なり出ていないが、駒場エミナースでやった彼の結
婚披露宴にはデイヴィッド・Tも出席したはず)。ぼくがLA入りする日と
Oが東京からLAに戻って来る日を合わせて、LAXで待ち合わせ。もし、
なんかあったときの保健で彼はデイヴィッド・Tの自宅の電話番号を教えて
くれたっけ。NYやロンドンは何度か行っていても、LAはそのときが初め
てで、その後LAに行く仕事が増え、Oのアパートには2、3度ほど延長滞
在時に泊めてもらったことがあった。なんて、デイヴィッド・Tの絶妙な指
裁きに触れつつ、遠い昔のことがふんわり浮かんできた。

 デイヴィッド・Tの演奏は聞き手の遠い昔の記憶と繋がった甘美な音であ
る。だが、その豊かな昔の音は今という時もやんわりやさしく、でもしっ
かりと揺り動かす力を持つものでもあると思う。

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