丸の内・コットンクラブ。セカンド・ショウ。この日も終日雨。かなり、
寒い。
ドラムのジョン“ジャボ”スタークス(アラバマ州モービル在住。1938年生まれ、)、同じくドラムのクライド・スタブルフィールド(ウィスコンシン州マディソン在
住。1943年生まれ。2006年7月26日)、トロンボーンのフレッド・ウエズ
リー(アラバマ州モービル在住。1944年生まれ。2007年2月2日)..... 黄
金のJBズに在籍した、替えのきかないマスターたち3人がつるんだユニッ
ト。この三人(JBズ名義で、来日公演をやっていますね。1999年10月25
日)は同名名義ですでに2枚のアルバムを出していて、次作も準備中とか。
3人にプラスして、サックス、ギター、ベースというキーボード
レス編成。ギタリストだけ、白人だ(その彼はファンク・マスターズ作品に
も参加している)。で、JB表現の流儀を用いる、気さくなショウを繰り広
げる。「パス・ザ・ピース」、「コールド・スウェット」、「アイ・フィー
ル・グッド」、「パパのニュー・バッグ」らJB曲に、ファンクマスターズ作
でしている曲(アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」も)を並
べる。ウェズリー曲の「ハウス・パーティ」はメイシオ・ポーカーもピー・
ウィ・エリスもそれぞれのリーダー作で取り上げているが、確かに一緒に掛
け声を上げてると非常に盛り上がる。主役の3人は肉声もばりばり出し、バ
ッキングの人達も烏合の衆的な声を出す。ジャボ・ストークスが歌った曲は
、「ストーミー・マンデー」他、ブルースのコード進行曲が2曲も。実はス
タブルフィールドはあんまりドラムを叩かず、カウベルを叩いていたり(2
度ほど、カウベルを手に場内をまわったりも)、踊っていたり。
翌日3人にインタヴューしたが、JBの死に対する気持ちは聞かず。通訳
の人が「3人は昨日ラジオ出演してコメントを求められたんですけど、あっ
さりしたもんですよ。ああ、死んじゃったね。でも、俺たちはまだまだ行く
ぜって、感じの答えでした」と言っていたので。確かに、「このビートはJ
Bではなく俺たちが作ったんだ」(スタブルフィールド)と言ってもいたし
。黄金時代たる60年代後半のJBのライヴはストークスとスタブルフィール
ドのツイン・ドラムで表現にあたり、その微妙なバラツキが未曾有なスケー
ルでかいファンク表現を生んでいたのだが、それについては「俺が入ったと
きはメルヴィン・パーカー(メイシオ・パーカーの年子の弟)が中心に叩いてい
たときで、そんときはドラマーが5人も6人もいてどうすりゃいいんだと思
った。でも、ジェイムズ・ブラウンからはいいから叩けと言ってさ.....
」とか、「ある晩のライヴでドラマーが喧嘩して帰ってしまったことがあっ
てその日の演奏は目茶目茶になり、それでジェイムズ・ブラウンは保険で二
人を揃えておくようになったんだ」というような事をスタークスが言っておりました。
それにしても、顔つきはいかついウェズリー(昨年はジャズ系のアルバム
を出している)はP−ファンクのホーン隊をしきっていた(フレッド・ウェ
ズリー&ザ・ホーニー・ホーンズ)こともあったわけで70年代後半にはロック・
バンドのキッスもびっくりの格好をしてたこともあったんだなと思うと、
なんか可笑しくてしょうがなかった。取材の帰り際、ウェズリーが「また、
ニューオーリンズで会おうナ」(2006年2月4日の項、参照)。「いえ、モ
ービルで!」とぼくが返すと、彼とジャボに大受け。
寒い。
ドラムのジョン“ジャボ”スタークス(アラバマ州モービル在住。1938年生まれ、)、同じくドラムのクライド・スタブルフィールド(ウィスコンシン州マディソン在
住。1943年生まれ。2006年7月26日)、トロンボーンのフレッド・ウエズ
リー(アラバマ州モービル在住。1944年生まれ。2007年2月2日)..... 黄
金のJBズに在籍した、替えのきかないマスターたち3人がつるんだユニッ
ト。この三人(JBズ名義で、来日公演をやっていますね。1999年10月25
日)は同名名義ですでに2枚のアルバムを出していて、次作も準備中とか。
3人にプラスして、サックス、ギター、ベースというキーボード
レス編成。ギタリストだけ、白人だ(その彼はファンク・マスターズ作品に
も参加している)。で、JB表現の流儀を用いる、気さくなショウを繰り広
げる。「パス・ザ・ピース」、「コールド・スウェット」、「アイ・フィー
ル・グッド」、「パパのニュー・バッグ」らJB曲に、ファンクマスターズ作
でしている曲(アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」も)を並
べる。ウェズリー曲の「ハウス・パーティ」はメイシオ・ポーカーもピー・
ウィ・エリスもそれぞれのリーダー作で取り上げているが、確かに一緒に掛
け声を上げてると非常に盛り上がる。主役の3人は肉声もばりばり出し、バ
ッキングの人達も烏合の衆的な声を出す。ジャボ・ストークスが歌った曲は
、「ストーミー・マンデー」他、ブルースのコード進行曲が2曲も。実はス
タブルフィールドはあんまりドラムを叩かず、カウベルを叩いていたり(2
度ほど、カウベルを手に場内をまわったりも)、踊っていたり。
翌日3人にインタヴューしたが、JBの死に対する気持ちは聞かず。通訳
の人が「3人は昨日ラジオ出演してコメントを求められたんですけど、あっ
さりしたもんですよ。ああ、死んじゃったね。でも、俺たちはまだまだ行く
ぜって、感じの答えでした」と言っていたので。確かに、「このビートはJ
Bではなく俺たちが作ったんだ」(スタブルフィールド)と言ってもいたし
。黄金時代たる60年代後半のJBのライヴはストークスとスタブルフィール
ドのツイン・ドラムで表現にあたり、その微妙なバラツキが未曾有なスケー
ルでかいファンク表現を生んでいたのだが、それについては「俺が入ったと
きはメルヴィン・パーカー(メイシオ・パーカーの年子の弟)が中心に叩いてい
たときで、そんときはドラマーが5人も6人もいてどうすりゃいいんだと思
った。でも、ジェイムズ・ブラウンからはいいから叩けと言ってさ.....
」とか、「ある晩のライヴでドラマーが喧嘩して帰ってしまったことがあっ
てその日の演奏は目茶目茶になり、それでジェイムズ・ブラウンは保険で二
人を揃えておくようになったんだ」というような事をスタークスが言っておりました。
それにしても、顔つきはいかついウェズリー(昨年はジャズ系のアルバム
を出している)はP−ファンクのホーン隊をしきっていた(フレッド・ウェ
ズリー&ザ・ホーニー・ホーンズ)こともあったわけで70年代後半にはロック・
バンドのキッスもびっくりの格好をしてたこともあったんだなと思うと、
なんか可笑しくてしょうがなかった。取材の帰り際、ウェズリーが「また、
ニューオーリンズで会おうナ」(2006年2月4日の項、参照)。「いえ、モ
ービルで!」とぼくが返すと、彼とジャボに大受け。
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