映画「シャウトオブアジア」。フェレンツ・シュネートベルガー
2005年4月7日 ます、映画美術学校第2試写室で、映画「シャウトオブアジア」を見る。
試写最終日なせいか、満席。4月23日より、渋谷のシネ・ラセットで公開さ
れる。
韓国の有名シンガー・ソングライター(カン・サネという人。ナイス・ガ
イっぽい)が、日本、フィリピン、インドネシア、中国を旅し、現地の心意
気あるミュージシャンたちと親交を深め、一緒に曲を作ったりもしちゃうと
いう、ドキュメンタリー映画。そこから、アジアの人達が音楽という行為に
託す意味や、目覚めた若い世代のアジアの現場の連体の意義なんかを浮かび
上がらせるという主題も持っているのかな。
監督は、在日二世のテレビ・ドキュメンタリー畑という1958年生まれの玄
真行という人。のっけから、彼のナレーションが入ってきて、びっくり。ち
ょっと、うざい。だったら、興行上は辛くなるだろうが、自分を主役にした
もっと赤裸々な作品を撮ればいいのにと少し思う。でなきゃ、言葉に頼らず
、なんとか映像で語ってほしいナとも。出てくる日本人のミュージシャンは
忌野清志郎とマリーという沖縄出身のヴェテラン・シンガー、後者が沖縄に
戻り母親のお墓参りをするシーンで、(辛くて)歌(「アメイジング・グレ
イス」)なんか歌えないと言う彼女を、「歌って。せっかく沖縄まで来てい
るんだから」という強制ととられなくもない彼のセリフまで入っているのに
はびっくり。そんなの吹っ飛ばして、歌のシーンだけ使うこともできるだろ
うけど。正直な作り手であるんでしょうね。
なぜ映画で対象となるのが上記の国でミュージシャンなのかという説明は
、インドネシアやフィリピンに関してはなされない。まあ、限られた予算や
日程のなかでよく作ったとは思うし、それに?と思うのはぼくが音楽により
入り込んでしまっている人間だからかなと思うけど。主人公や監督の属性か
ら、いろんな歴史に翻弄され、北と南に、朝鮮半島と日本や中国に散らされ
てしまった朝鮮民族の実像が音楽絡みで描かれたりもする。実は、ぼくはそ
っちのほうにポイントを絞ったほうがすっきりしたんじゃないかとも感じた
(2時間強の長さの映画だ)。やっぱり、描こうとする対象が広すぎる。
もちろん、その音楽現場やミュージシャンたちの姿は興味深い。とくに、
スランクというインドネシアのバンドの自国人気はすごいないあ。ただ、属
性違いのミュージャンが一緒に作る曲が既発表曲に類似したものであるのは
非常にまずいんではないか。たとえば、出演者の多くで作られ、映画の最後
のクライマックスの野外コンサートで歌われる「シャウト・エイジア」とい
う単純な曲は、スリー・ドッグ・ナイトのヒット曲「アン・オールド・ファ
ッションド・ラヴ・ソング」のサビと酷似(インドネシア勢と韓国勢の曲の
頭のほうは、レイナード・スキナードの「38スペシャル」とかを想起する)
。偶然なのかもしれないが、胸を張った今のアジアの迸る歌たらんとするな
ら、30年前強のアメリカの有名曲と似ているなんてマヌケじゃない? 映画
にはそれなりの蓄積を持つ人も係わっているのだろうし、誰かがそれを指摘
しなきゃ。共演コンサートの場面からエンドロールに入り、そのままその曲
は流れるのだが、ちょっとぼくはシラけた。アジアの音楽力なんて、そんな
浅薄なもんじゃないだろ? それから、なんだかんだ言っても結局彼らの共
通言語となりえるのは、西欧的ポップ・ミュージックが積み上げてきた価値
観なのだとも、それは痛感させる。洋楽を中心に文章を書いているぼくもま
ったくもって、そうなのだろう……。そういやあ、この日の朝日新聞に日本
の人気バンドの類似曲に対する中途半端な擁護記事が乗ってたなあ、なんて
こともふいに思い出した。
そして、新宿のピットイン。映画見たあとかけつけると、ちょうど2部に
間に合う。ジプシーの血を引くというハンガリーの中年ギタリスト(小柄だ
が、そこそこ風情あり)。旧ユーゴのボスニア出身の有名ジャズ・トンペッ
ター、ダスコ・ゴイコヴィッチのバンドに入ってたりもしてて、エンヤから
5枚のリーダー作を出している人。ガット・ギターを用い、椅子の横におい
たアンプで音を多少作ったりもする。うまい。アルバムで聞くよりジプシー
・ギター濃度は低いが、クラシックからボサノヴァまでいろんなアコーステ
ィック・ギターを用いる演奏を会得してて、それらを粛々と、ジャジーに束
ねたような演奏を披露。最後の方でトランペッターの原朋直が加わったが、
基本的には淡々とソロ演奏。でも、それでも十分に場を持たせていた。エン
ヤの次作はアリルド・アンデルセンらとのトリオで、オスロのレインボー・
スタジオ録音とか。
試写最終日なせいか、満席。4月23日より、渋谷のシネ・ラセットで公開さ
れる。
韓国の有名シンガー・ソングライター(カン・サネという人。ナイス・ガ
イっぽい)が、日本、フィリピン、インドネシア、中国を旅し、現地の心意
気あるミュージシャンたちと親交を深め、一緒に曲を作ったりもしちゃうと
いう、ドキュメンタリー映画。そこから、アジアの人達が音楽という行為に
託す意味や、目覚めた若い世代のアジアの現場の連体の意義なんかを浮かび
上がらせるという主題も持っているのかな。
監督は、在日二世のテレビ・ドキュメンタリー畑という1958年生まれの玄
真行という人。のっけから、彼のナレーションが入ってきて、びっくり。ち
ょっと、うざい。だったら、興行上は辛くなるだろうが、自分を主役にした
もっと赤裸々な作品を撮ればいいのにと少し思う。でなきゃ、言葉に頼らず
、なんとか映像で語ってほしいナとも。出てくる日本人のミュージシャンは
忌野清志郎とマリーという沖縄出身のヴェテラン・シンガー、後者が沖縄に
戻り母親のお墓参りをするシーンで、(辛くて)歌(「アメイジング・グレ
イス」)なんか歌えないと言う彼女を、「歌って。せっかく沖縄まで来てい
るんだから」という強制ととられなくもない彼のセリフまで入っているのに
はびっくり。そんなの吹っ飛ばして、歌のシーンだけ使うこともできるだろ
うけど。正直な作り手であるんでしょうね。
なぜ映画で対象となるのが上記の国でミュージシャンなのかという説明は
、インドネシアやフィリピンに関してはなされない。まあ、限られた予算や
日程のなかでよく作ったとは思うし、それに?と思うのはぼくが音楽により
入り込んでしまっている人間だからかなと思うけど。主人公や監督の属性か
ら、いろんな歴史に翻弄され、北と南に、朝鮮半島と日本や中国に散らされ
てしまった朝鮮民族の実像が音楽絡みで描かれたりもする。実は、ぼくはそ
っちのほうにポイントを絞ったほうがすっきりしたんじゃないかとも感じた
(2時間強の長さの映画だ)。やっぱり、描こうとする対象が広すぎる。
もちろん、その音楽現場やミュージシャンたちの姿は興味深い。とくに、
スランクというインドネシアのバンドの自国人気はすごいないあ。ただ、属
性違いのミュージャンが一緒に作る曲が既発表曲に類似したものであるのは
非常にまずいんではないか。たとえば、出演者の多くで作られ、映画の最後
のクライマックスの野外コンサートで歌われる「シャウト・エイジア」とい
う単純な曲は、スリー・ドッグ・ナイトのヒット曲「アン・オールド・ファ
ッションド・ラヴ・ソング」のサビと酷似(インドネシア勢と韓国勢の曲の
頭のほうは、レイナード・スキナードの「38スペシャル」とかを想起する)
。偶然なのかもしれないが、胸を張った今のアジアの迸る歌たらんとするな
ら、30年前強のアメリカの有名曲と似ているなんてマヌケじゃない? 映画
にはそれなりの蓄積を持つ人も係わっているのだろうし、誰かがそれを指摘
しなきゃ。共演コンサートの場面からエンドロールに入り、そのままその曲
は流れるのだが、ちょっとぼくはシラけた。アジアの音楽力なんて、そんな
浅薄なもんじゃないだろ? それから、なんだかんだ言っても結局彼らの共
通言語となりえるのは、西欧的ポップ・ミュージックが積み上げてきた価値
観なのだとも、それは痛感させる。洋楽を中心に文章を書いているぼくもま
ったくもって、そうなのだろう……。そういやあ、この日の朝日新聞に日本
の人気バンドの類似曲に対する中途半端な擁護記事が乗ってたなあ、なんて
こともふいに思い出した。
そして、新宿のピットイン。映画見たあとかけつけると、ちょうど2部に
間に合う。ジプシーの血を引くというハンガリーの中年ギタリスト(小柄だ
が、そこそこ風情あり)。旧ユーゴのボスニア出身の有名ジャズ・トンペッ
ター、ダスコ・ゴイコヴィッチのバンドに入ってたりもしてて、エンヤから
5枚のリーダー作を出している人。ガット・ギターを用い、椅子の横におい
たアンプで音を多少作ったりもする。うまい。アルバムで聞くよりジプシー
・ギター濃度は低いが、クラシックからボサノヴァまでいろんなアコーステ
ィック・ギターを用いる演奏を会得してて、それらを粛々と、ジャジーに束
ねたような演奏を披露。最後の方でトランペッターの原朋直が加わったが、
基本的には淡々とソロ演奏。でも、それでも十分に場を持たせていた。エン
ヤの次作はアリルド・アンデルセンらとのトリオで、オスロのレインボー・
スタジオ録音とか。
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