3コード(ブルース)専門とも言いたくなるアーシー派白人ピアニスト/シンガーのジーン・テイラーが、テキサス州オースティンの自宅で亡くなった。カリフォルニア生まれで10歳ごろからブギウギ・ピアノを弾き、同半ばにはT・ボーン・ウォーカーやピー・ウィ・クレイトンら西海岸在住ブルーズ・マンと共演するようになった。若くて、使い勝手が良かったらしい。そんなテイラーは、見事に叩き上げ。髭を伸ばしタバコを吸う姿は10代ながら、かなり年長に見えたという。1970年代中期には著名ホワイト・ブルース・バンドのキャンド・ヒートに加わり、同後期にはカナダで活動。その一方、1980年代にはザ・ブラスターズ、さらにオースティンに住むようになった1990年代から2000年代にかけてはザ・ファビュラス・サンダーバーズに加入もした。

 1980年代中期からリーダー作もリリース。ときにスワンピーで、ニューオーリンズぽいスタイルを見せる場合もあった。なんにせよ、ひっかかりのあるギターの音とめっぽう相性のいいピアノを弾く人物という印象をぼくは持つ。エイモス・ギャレットとダグ・サームという米国ルーツ系ロックの大家ギタリストたちとも親しく、その3頭名義による日本ツアーを1990年5月にし、それはライヴ盤にもなった。

<今日の、記憶はボロボロ>
 その実況盤『ライヴ・イン・ジャパン』は東京3箇所や大阪や京都のギグをソースとしていたが、ぼくは九段会館で彼らのライヴを見たのではなかったか。渋谷クラブクアトロだけでなく青山CAYも録音場所のクレジットに入っていて、そのころすでにカイはあったのか。同ライヴ盤はポニーキャニオンの趣味的米国ロック・レーベル<ヴィレッジ・グリーン>から日本盤がリリースされた。そのころ、ポニーキャニオンはA&Mは持つし、グラマヴィジョンもライセンスして(その後にビデオアーツに移った)いるし、洋楽にも力を入れる同社はLA駐在員も必ず出していた。そのころ、同社はPCH(パシフィック・コースト・ハイウェイの略)というLA産のAOR系レーベルも持ったっけ? 1990年代中期にその駐在員をしていたのが、ヴィレッジ・グリーンを仕切っていた*さん。そのころ日本フォノグラムがE.W.&F. (2006年1月19日、2012年5月17 日)のモウリス・ホワイトの個人レーベル(これも名前失念)を出すことになったことがあって、ホワイトのスタジオに取材に行った際、なぜか*さんがプライム・リブの著名レストランであるロウリィズに連れて行ってくれたことがあった。あのころLA出張の場合泊まる頻度が高かった、サンセットのタワー・レコードの近くにあったホテルの名前も忘れた。あ”〜〜。酷すぎる。それと、フランス系のホテルでフロントにテイク・フリーのバケットが置いてあるホテル(それも、名前は忘れた)、そしてサンタモニカの海岸に面したシャッターズ・オン・ビーチ(だったかな?)は同地のお気に入りホテルだった。当時はLAに限らず、本当に海外取材が多かった。
▶過去の、E.W.&.F.
http://43142.diarynote.jp/200601271855390000/
http://43142.diarynote.jp/201205301252113538/