フランソワ・バシェ 音響彫刻の響き(演奏、山口恭範。永田砂知子)
2015年5月9日 音楽 竹橋・東京国立近代美術館、ウィークエンドは少しアカデミックなぼく。ヒャハハハ。あまり概要を把握することなく、この項を書いているのであしからず。
フランソワ・バシェ(1920〜2014年)というフランス人のことは浅学にして、知らなかった。奇想天外な音の出るそれなりに大掛かりな音響彫刻を、20世紀半ばからいろいろと発表している人らしい。そして、日本でも1970年大阪万博の鉄鋼館における展示物として、彼は音響彫刻(彫刻というより、音の出るオブジェと言われたほうが、ぼくはピンと来る)を何体も日本で作って、展示したとのこと。万博後はアバンダンなものとなっていたようだが、近年そのなかのいくつかが復刻されたりし、今回の企画に繋がったよう。四者によるシンポジウムと、再生されたものの演奏の2本だてなり。
美術館の講堂に遅れて入ると、小沼純一の進行役でシンポジウム中。パネラーは皆音楽側にいるという発言もあったが、話はいろいろと広がっていたよう。うち、一人は一柳慧。ヨーコ・オノ(2009年1月21日)の最初の旦那さんでもある彼、80歳をすぎているはずだが、それなりに若く、元気に見えた。
その後、復活なったものの一つ、<川上フォーン>と名付けられたブツ(バジェはそれぞれの自らの制作したものに、助手でついた人の苗字をつけたという。協調の有り難みを知る、まっとうな人なんだろうな)を2人の音楽家が20分ぐらいづつ独奏。そのときになると、観覧の人数がぐっと増えた。
その川上フォーン、縦3メートル、横4、5メートル、奥行き1、5〜2メートルぐらいあるもので、太い棒(長さがいろいろで、それで一応音階がつけられている)やバネ状になった金属群を叩いて音を出し、その後方や向かって右横には朝顔状(それは赤や黒や白の色がつけられている)の口型の共鳴物が10個ぐらい配置される、というもの。その花ビラのようなフォーンは拾った音をかなり増幅させると見たが、材質はなんなのだろう。ともあれ、なにもしない状況でも、なんじゃコレと人の興味を誘う見てくれを持つ物体だな。
最初の演奏者は、山口恭範。武満徹が作った「ムナーリ・バイ・ムナーリ」という現代音楽曲(スコアは図形らしい)をやるが、傍目には思いつきで、コドモが打楽器と戯れている様にしか見えない。それは横のほうにほんと多種多様の鳴り物(ドラの音は偉大だな)を置き、中央にもミュートしたヴァイブラフォン、あさってのほうにはピンポン玉を入れたスティール・パンをおいてピアノ線を引っ張って鳴らすなど、いろいろな音出しをやっていたためであるかもしれない。彼は、西アフリカのトーキング・ドラムも少し叩いたな。続く、永田砂知子は川上フォーンだけを相手に即興曲を演奏する。こちらは、他の音が入らないので、川上フォーンの出音/効用が捉えやすい。木槌からマレットまで、複数のものを持ち叩いていた演奏、ぼくの耳にはこちらのほうが構成された感覚を感じた。
そのクラシック打楽器の演奏家のお2人、ぼくの目には拍子抜けするほど只の年寄り気味のおじさんとおばさんにしか見えないが、その道ではとてもエスタブリッシュされた人のようであり、演奏が聞けてありがたやーとなる達人だそう。ブラック・ミュージック派生のポップ・ミュージックに親しんでいるぼくには、体内から溢れるような沸き上がり(グルーヴとは言うまい)がもっとあればとも思わされるが、それは世代的にも彼らが通ってきた筋道的にもないものねだりだろう。道は、いろいろ。とはいえ、スクエアなクラシックの世界のなかで戦い、ツっぱって表現の自由や自らの個を求めてきた人たちなんだろうなというのは、すぐに了解できる。
そのバシェの音の出るオブジェにせよ、お2人の演奏にせよ、当然の事ながら世に存在しなくても支障はないものだ。でも、変な物、普通じゃないもの、ワケの分らぬもの、無駄なものは、どうして多大な興味をひいたり、おもしろかったり、刺激を与えるのだろう。純音楽以外の要素ともフレキシブルに結びついているだろうそれらがメインストリームである必要はないが、そういうものがちゃんと存在できる世の中であってほしいとも思った(あらあら、大げさ?)。そして、この日、音や音の出るブツに対するロマンを、ぼくは山ほど感じた。それは、うまく言葉にできないが、ぼくにとってとっても重要な何か。そんなことを感じることができたのが、大きな収穫だった。
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
<今日の、回顧>
上の催しは、この国立近代美術館で展示している<大阪万博1970 デザインプロジェクト>の一環で持たれたもの。ふむ、大阪万博には、けっこうな感慨を持つよなあ。大阪万博は小学生の夏休みに体験していて、夢の祭典のようにコドモ心に感じて、うひゃひゃひゃひゃだった。サトー家には西に住む親戚がいなくて、その万博行きが初の関西行きであったし、新幹線も初経験であったはずだ。ついでに嵐山に泊まって、京都も初体験だったよなー。行く前からガイドブックとか熟読して、熱心な“バンパク小僧”であったような。新しいもの、未知のものに触れることができるものとして、EXPO’70(そう、当時はそういう表記がけっこう一般的だった)は燦然と輝いていた。2005年の名古屋万博のときにありゃという海外アーティストが万博がらみで来日していたが、大阪のときもきっとそうじゃなかったのかな。そのころは、あまり音楽という項目はぼくにとっては興味を喚起させるものではなかった。
ともあれ、パビリオンを出した企業は張り切って、技術や発想の高さや豊かさをアピールする出展競争(および、建物の外観競争)をしたわけで、バジェのオブジェ楽器の採用もその流れにあるものだったのだろう。鉄鋼館というごっつい響きが災いしたか、ぼくは鉄鋼館には足を運ばなかった。
フランソワ・バシェ(1920〜2014年)というフランス人のことは浅学にして、知らなかった。奇想天外な音の出るそれなりに大掛かりな音響彫刻を、20世紀半ばからいろいろと発表している人らしい。そして、日本でも1970年大阪万博の鉄鋼館における展示物として、彼は音響彫刻(彫刻というより、音の出るオブジェと言われたほうが、ぼくはピンと来る)を何体も日本で作って、展示したとのこと。万博後はアバンダンなものとなっていたようだが、近年そのなかのいくつかが復刻されたりし、今回の企画に繋がったよう。四者によるシンポジウムと、再生されたものの演奏の2本だてなり。
美術館の講堂に遅れて入ると、小沼純一の進行役でシンポジウム中。パネラーは皆音楽側にいるという発言もあったが、話はいろいろと広がっていたよう。うち、一人は一柳慧。ヨーコ・オノ(2009年1月21日)の最初の旦那さんでもある彼、80歳をすぎているはずだが、それなりに若く、元気に見えた。
その後、復活なったものの一つ、<川上フォーン>と名付けられたブツ(バジェはそれぞれの自らの制作したものに、助手でついた人の苗字をつけたという。協調の有り難みを知る、まっとうな人なんだろうな)を2人の音楽家が20分ぐらいづつ独奏。そのときになると、観覧の人数がぐっと増えた。
その川上フォーン、縦3メートル、横4、5メートル、奥行き1、5〜2メートルぐらいあるもので、太い棒(長さがいろいろで、それで一応音階がつけられている)やバネ状になった金属群を叩いて音を出し、その後方や向かって右横には朝顔状(それは赤や黒や白の色がつけられている)の口型の共鳴物が10個ぐらい配置される、というもの。その花ビラのようなフォーンは拾った音をかなり増幅させると見たが、材質はなんなのだろう。ともあれ、なにもしない状況でも、なんじゃコレと人の興味を誘う見てくれを持つ物体だな。
最初の演奏者は、山口恭範。武満徹が作った「ムナーリ・バイ・ムナーリ」という現代音楽曲(スコアは図形らしい)をやるが、傍目には思いつきで、コドモが打楽器と戯れている様にしか見えない。それは横のほうにほんと多種多様の鳴り物(ドラの音は偉大だな)を置き、中央にもミュートしたヴァイブラフォン、あさってのほうにはピンポン玉を入れたスティール・パンをおいてピアノ線を引っ張って鳴らすなど、いろいろな音出しをやっていたためであるかもしれない。彼は、西アフリカのトーキング・ドラムも少し叩いたな。続く、永田砂知子は川上フォーンだけを相手に即興曲を演奏する。こちらは、他の音が入らないので、川上フォーンの出音/効用が捉えやすい。木槌からマレットまで、複数のものを持ち叩いていた演奏、ぼくの耳にはこちらのほうが構成された感覚を感じた。
そのクラシック打楽器の演奏家のお2人、ぼくの目には拍子抜けするほど只の年寄り気味のおじさんとおばさんにしか見えないが、その道ではとてもエスタブリッシュされた人のようであり、演奏が聞けてありがたやーとなる達人だそう。ブラック・ミュージック派生のポップ・ミュージックに親しんでいるぼくには、体内から溢れるような沸き上がり(グルーヴとは言うまい)がもっとあればとも思わされるが、それは世代的にも彼らが通ってきた筋道的にもないものねだりだろう。道は、いろいろ。とはいえ、スクエアなクラシックの世界のなかで戦い、ツっぱって表現の自由や自らの個を求めてきた人たちなんだろうなというのは、すぐに了解できる。
そのバシェの音の出るオブジェにせよ、お2人の演奏にせよ、当然の事ながら世に存在しなくても支障はないものだ。でも、変な物、普通じゃないもの、ワケの分らぬもの、無駄なものは、どうして多大な興味をひいたり、おもしろかったり、刺激を与えるのだろう。純音楽以外の要素ともフレキシブルに結びついているだろうそれらがメインストリームである必要はないが、そういうものがちゃんと存在できる世の中であってほしいとも思った(あらあら、大げさ?)。そして、この日、音や音の出るブツに対するロマンを、ぼくは山ほど感じた。それは、うまく言葉にできないが、ぼくにとってとっても重要な何か。そんなことを感じることができたのが、大きな収穫だった。
▶過去の、ヨーコ・オノ
http://43142.diarynote.jp/200901221504141906/
<今日の、回顧>
上の催しは、この国立近代美術館で展示している<大阪万博1970 デザインプロジェクト>の一環で持たれたもの。ふむ、大阪万博には、けっこうな感慨を持つよなあ。大阪万博は小学生の夏休みに体験していて、夢の祭典のようにコドモ心に感じて、うひゃひゃひゃひゃだった。サトー家には西に住む親戚がいなくて、その万博行きが初の関西行きであったし、新幹線も初経験であったはずだ。ついでに嵐山に泊まって、京都も初体験だったよなー。行く前からガイドブックとか熟読して、熱心な“バンパク小僧”であったような。新しいもの、未知のものに触れることができるものとして、EXPO’70(そう、当時はそういう表記がけっこう一般的だった)は燦然と輝いていた。2005年の名古屋万博のときにありゃという海外アーティストが万博がらみで来日していたが、大阪のときもきっとそうじゃなかったのかな。そのころは、あまり音楽という項目はぼくにとっては興味を喚起させるものではなかった。
ともあれ、パビリオンを出した企業は張り切って、技術や発想の高さや豊かさをアピールする出展競争(および、建物の外観競争)をしたわけで、バジェのオブジェ楽器の採用もその流れにあるものだったのだろう。鉄鋼館というごっつい響きが災いしたか、ぼくは鉄鋼館には足を運ばなかった。
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