JAVA JAZZ(ジャワ・ジャズ)4日
2012年3月5日 音楽 会場内には企業宣伝ブース練や、フードコード練(支払はプリペイド・カード方式)もどっかーんとある。イスラム教圏であるためか、フードコートのほうではソフト・ドリンクしか売っていない。とはいえ、企業ブースにはハイネケンとジャック・ダニエルのブースがあって、そちらでお酒は買える。確か、値段はハイネケン缶が250円、ジャック・ダニエルのシングルが500円(日本と変わらなーい)。滞在中、日本との比較で一番安く感じたのは、タクシー。20分ぐらい乗っても、200円だからな。
フェスの大きなスポンサーは、タバコ、清涼飲料、銀行など。企業ブース練(ちょいWOMEXの昼の場の様を思い出す)には、ほんと沢山の企業が出店している。やっぱ、景気いいんだな。一般企業を中心に、音楽周辺産業まで(レコード会社はユニバーサルだけだったが)、様々。面白いのは、そのブースに小ステージをもうけている所も多数あり、あちこちから演奏や歌声が聞こえてきて、なんかインドネシア人は音楽好きだなあと思わせられること請け合い。そういえば、もうだいぶ前だけど、久保田麻琴(2010年12月4日、他)さんもジャカルタのクラブ・ミュージック・シーンはすごいと言っていたな。
音楽の会場で一番おどろいたのは、録音や撮影に関して、なんの制約もないこと。というか、公式雑誌に<していいこと>と<しちゃいけないこと>の項目があり、OKの項目にデジタル・カメラやヴィデオ持ち込めますとわざわざ書いてある。みんな気ままに携帯電話で写真や動画を撮ったりしている。ときに大げさなカメラを持っている剛の者もいれば、あるおばさんは長い棒を持ち込み、その先端にヴィデオ・カメラを括り付けてステージを撮影していた。そんなわけなので、ジャワ・ジャズの模様はいろいろとユーチューブにアップされるのではないだろうか。
▶バリー・ホワイト・ショウ&ザ・プレジャー・アンリミッテッド・オーケストラ
タイムテーブルに載ったこの名前を見て、あれれと、思う。1970 年代ディスコ・ミュージック期のスムース・ソウルなるものを提示して当てた、低音ヴォイスも売りであった御大はすでに亡くなっているから。そしたら、出てきたのは、往年のバリー・ホワイトを彷彿とさせる恰幅のいい黒髪/黒髭のおじさん。おお、歌は本人ほど低音ではないかもしれないが、オリジナルよりうまい? 血筋の人なんだろう、と思う。で、本家はザ・ラヴ・アンリミテッド・オーケストラと名付けた集団を率いていたが、ザ・プレジャー・アンリミッテッド・オーケストラと名乗るこちらもストリングスやブラス陣をたっぷりおごった30 人ほどの陣容。ま、やっていることは過去表現の小粒な焼き直しにすぎないのだが、接することができてちょいうれしかった。隣の会場の演奏音がばんばん漏れてきていて、彼らの小さ目の音がおおいにかき消され気味、少し気の毒だし、その真価をつかみにくかった。
▶スウィング・アウト・シスター
これは、ちぃっと拾いものだった。何の期待もなく、時間が空いたからと見に行ったら、管セクションを含む15人ぐらいの大所帯で、実に高品質なソフト・ソウル/アーバン・ポップ表現を提出していた。コリーン嬢のヴォーカルもサウンドに負けず声が出ていて、ふくよか。この手の実演としてはかなり非の打ちどころがなかったのではないか。
▶スティーヴィー・ワンダー(2010年8月8日)
昔は、そんなに彼のことを特別視していなかった。なんか、色づけやグルーヴが薄く感じられ、所謂ニュー・ソウル勢のなかでは、メイフィールドやハサウェイやゲイより、彼は下にいた。なのに、特別な理由もなく、彼のことがたまらないなあと感じるようになったのは、40歳ごろから。いつのまにか、大好きになってしまった。好みが緩くなってきたからかなあ。そして、インタヴュー(2005年11月3日、参照)経験後はそれがより強いものとなった。そんな人の実演を楽々ともろに受けとめることができて、ぼくはとっても幸せな気持ちになれた。
予定時間から、90分以上遅れての登場。エリカ・バドゥと同様にインドネシア人によるインドネシアの国家斉唱がなされたのちに、ショウは始まった。タイムテーブルでは1時間半のパフォーマンス予定となっていたはずだが、なんと悠々2時間20分にわたる実演を見せる。ある意味、時間にルーズなフェスティヴァルって最高だァ。
バンドがで出てきて(コーラス4人を含め、全14人編成)、しばらくしたあとにスティーヴィー・ワンダーがステージに出てきたのだが、観客の反応を楽しむように、すっと奥横に立っている。すごい歓声。その後、中央に出てきて、ショウはスタート。イエーイ。最初の2曲はショルダー・キーボードを弾きながら歌う。何をやったか、記憶がとんでいる。とにかく、代表曲のオン・パレード。メドレーぽいこともせず、1曲1曲をじっくり聞かせる。キーボードを弾きながら歌ったり、グランド・ピアノを弾いたり、立ってマイクを持ちつつ歌ったり、娘(アイシャ)のいるコーラス隊の位置に来て、コーラス隊の一員のような位置で歌ったり。そのパート、けっこう長かった。アイシャをフィーチャーした曲も1曲やったが、歌ったのは父親の曲ではなく、アシュフォード&シンプソン(2009年11月20日)が作ったチャカ・カーンの78年ヒット曲「アイム・エヴリー・ウーマン」。へえ。ともあれ、いろんな私を見せましょうという意思を強く感じました。
キーボード・ソロも披露するジャジーなインストゥメンタルも披露したが、それはジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」だった。よりオデコは広くなったような感じもあるが、元気にはしゃいでいる感じに、ぼくのココロは溶けていく。来て良かったア、と思った。
途中、トイレに行くため出口に向かったら、後ろのほうにライオン頭の男性が。ありゃ、パット・メセニーじゃん。もうニッコニコしながら、一般客に混じって見ている。お、写真も撮っているじゃん。実は初日のハービー・ハンコックのショウの際も、彼は客席で見ていた。メセニーにとってのフェスは、普段なかなか触れることができない同業者のライヴに客席から触れることができる場でもある? まっすぐな素の音楽愛好者の様に触れて、ぼくはメセニーのことを見直した。
実はスティーヴィー・ワンダーはこの日(ライヴ前)の深夜の3時過ぎにホテルのセッション会場にジョージ・デュークと現れ、パフォーマンスをしたという! ぼくがその前にそこをのぞいたときはどうってことないセッションをやっていて、会場も混んでいたので、すぐにその場を離れてしまった。ガーン。話は飛ぶが、空港で日本に帰る便にチェックインするとき、ぼくの前に並んだのがフェス出演のあと日本公演に向かうフランク・マッコム(2011年3月4日、他)だった。彼に、「今回、スティーヴィーと会った?」(プリンスのホーム・パーティで、スティーヴィー・ワンダーと一緒にパフォーマンスしたことがあると、かつてインタヴューで言ったことがあったはず)と聞くと、2日目の夜に一緒にセッションしたよとの返事。なぬ、話題となっていたワンダー/デュークのセッションにはマッコムも参加していたのか。どうやら、マッコムがやっていた所に二人がシット・インしたようだ。
この日の深夜はジャム・セッションの会場にけっこういて(すいている、ステージが見えないテーブルにいた)、シラーズのワインを2本あけたが、その日は見ている者が色めき立つ出演者はなかったよう。でも、ちょっといい話ができた。
書くのを忘れていたが、スティーヴィー・ワンダー公演の特別料金は桁が違っていて、2万5000円ぐらい。それ、インドネシアの感覚だと10万円を超えると思うが、それでも人は集まる。それは彼の威光であるとともに、やはりインドネシアは豊かになっているんだろう。
他に出演した主な海外アーティスは、ポンチョ・サンチェス(2007年7月17日、他)、シーラ・E.(2011年1月18日、他)&ザ・Eファミリー(ちょっと見たけど、かなり大人数でことにあたっていた)、アルフレド・ロドリゲス(2011年11月25日)、シャンテ・ムーア(2008年12月8日、他。愛想良く「テレマカシ(ありがとう)」を連発していたな。ジェラルド・オルブライトかだれか、スムース・ジャズ系の名のあるサックス奏者を招いた特別編成にての実演)、フィル・ペリー、ローラ・フィジー、ジョーイ・デフランセスコ(2010年12月1日)、ロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンド(2012年2月28日、他。終了直前の様を見たけど、ギタリストが混ざっていた)、フランク・マッコム(これまでの日本公演はサックス奏者なり打楽器奏者も抱えてやっていたが、今回はトリオ編成だった)、など。
地元のバンドで一番立ち止まって見たのは、一番大きな野外ステージでやっていたG-プルックという4人組。で、これがザ・ビートルズのコピー・バンド。やっぱ、どこにでもいるんですね。彼らは初期風の格好や髪型をし(ベーシストは左利きだったっけ?)、ソツなく楽しいカヴァー曲演奏を行う。ニコっ。一緒に口ずさんでいる人も少なくなかったな。初期曲だけだく、「カム・トゥゲザー」とか後期のバンドっぽい曲もやっていた。なお、彼らはステージの両端に、コートやジャケットを4点得意げに飾っていたが、それは縁の品であったりするのだろうか。
リハーサルとか、音のオペレーションの部分とか、送り手にとって内側はなんだかんだ大変だったところもあるようだが、出演者たちはみんなちゃんとやっていたと思う。そして、いま日本だと音楽にまつわる話はネガティヴなものが多いが、まだこちらでは娯楽として光り輝く位置に音楽が存在する感じがヘルシー。うれしくもなる。それは、スポンサーの多さにも顕われているのではないか。
<今日の、交通>
外国に行ったときに一度は考えるのは、オレはここでストレスを感じることなく車を運転できるか、ということ。インドネシア語の文字はアルファベットで、そして車線は日本と同じ左側通行。それゆえ、運転しやすそうに一瞬思ったが、ぼくが行った外国の都市のなかで一番運転することに絶望的になったのがジャカルタと言える。ぎょっとするぐらいバイクの数が多く、膨大なそれが車に群がるように、ぐちゃぐちゃで流れていく様には驚愕。これじゃ、すぐに交通事故が起きそうとも感じたが、滞在中にそれには出会わなかった。だが、ぼくが運転難しそうと思うのはそういうの抜きの部分、ジャカルタの道路のありかたが妙だから。ここでは普通に車道がクロスする交差点がなく(故に信号がない)、かわりに変てこなラウンド・アバウトのようなものがあるのだが、違う道路に入るにはとっても手間がいるし(それが重なると、なんか方向感覚も狂う)、今まで頭の中にある交通の物差しを取っ払う必要があると感じてしまうのだ。なお、広い道路は両交通だが、少なくてもジャカルタ中心地の道路の多くは一方通行となっている。走っている車は、トヨタの大圧勝。そして、ホンダとニッサンがわずか。シルヴァー・バード・タクシーはメルセデスを使っていた。1回だけ、パジャイ(タイでいうところの、トゥクトゥク)という三輪タクシーに乗った。ちょいうれしかった。
フェスの大きなスポンサーは、タバコ、清涼飲料、銀行など。企業ブース練(ちょいWOMEXの昼の場の様を思い出す)には、ほんと沢山の企業が出店している。やっぱ、景気いいんだな。一般企業を中心に、音楽周辺産業まで(レコード会社はユニバーサルだけだったが)、様々。面白いのは、そのブースに小ステージをもうけている所も多数あり、あちこちから演奏や歌声が聞こえてきて、なんかインドネシア人は音楽好きだなあと思わせられること請け合い。そういえば、もうだいぶ前だけど、久保田麻琴(2010年12月4日、他)さんもジャカルタのクラブ・ミュージック・シーンはすごいと言っていたな。
音楽の会場で一番おどろいたのは、録音や撮影に関して、なんの制約もないこと。というか、公式雑誌に<していいこと>と<しちゃいけないこと>の項目があり、OKの項目にデジタル・カメラやヴィデオ持ち込めますとわざわざ書いてある。みんな気ままに携帯電話で写真や動画を撮ったりしている。ときに大げさなカメラを持っている剛の者もいれば、あるおばさんは長い棒を持ち込み、その先端にヴィデオ・カメラを括り付けてステージを撮影していた。そんなわけなので、ジャワ・ジャズの模様はいろいろとユーチューブにアップされるのではないだろうか。
▶バリー・ホワイト・ショウ&ザ・プレジャー・アンリミッテッド・オーケストラ
タイムテーブルに載ったこの名前を見て、あれれと、思う。1970 年代ディスコ・ミュージック期のスムース・ソウルなるものを提示して当てた、低音ヴォイスも売りであった御大はすでに亡くなっているから。そしたら、出てきたのは、往年のバリー・ホワイトを彷彿とさせる恰幅のいい黒髪/黒髭のおじさん。おお、歌は本人ほど低音ではないかもしれないが、オリジナルよりうまい? 血筋の人なんだろう、と思う。で、本家はザ・ラヴ・アンリミテッド・オーケストラと名付けた集団を率いていたが、ザ・プレジャー・アンリミッテッド・オーケストラと名乗るこちらもストリングスやブラス陣をたっぷりおごった30 人ほどの陣容。ま、やっていることは過去表現の小粒な焼き直しにすぎないのだが、接することができてちょいうれしかった。隣の会場の演奏音がばんばん漏れてきていて、彼らの小さ目の音がおおいにかき消され気味、少し気の毒だし、その真価をつかみにくかった。
▶スウィング・アウト・シスター
これは、ちぃっと拾いものだった。何の期待もなく、時間が空いたからと見に行ったら、管セクションを含む15人ぐらいの大所帯で、実に高品質なソフト・ソウル/アーバン・ポップ表現を提出していた。コリーン嬢のヴォーカルもサウンドに負けず声が出ていて、ふくよか。この手の実演としてはかなり非の打ちどころがなかったのではないか。
▶スティーヴィー・ワンダー(2010年8月8日)
昔は、そんなに彼のことを特別視していなかった。なんか、色づけやグルーヴが薄く感じられ、所謂ニュー・ソウル勢のなかでは、メイフィールドやハサウェイやゲイより、彼は下にいた。なのに、特別な理由もなく、彼のことがたまらないなあと感じるようになったのは、40歳ごろから。いつのまにか、大好きになってしまった。好みが緩くなってきたからかなあ。そして、インタヴュー(2005年11月3日、参照)経験後はそれがより強いものとなった。そんな人の実演を楽々ともろに受けとめることができて、ぼくはとっても幸せな気持ちになれた。
予定時間から、90分以上遅れての登場。エリカ・バドゥと同様にインドネシア人によるインドネシアの国家斉唱がなされたのちに、ショウは始まった。タイムテーブルでは1時間半のパフォーマンス予定となっていたはずだが、なんと悠々2時間20分にわたる実演を見せる。ある意味、時間にルーズなフェスティヴァルって最高だァ。
バンドがで出てきて(コーラス4人を含め、全14人編成)、しばらくしたあとにスティーヴィー・ワンダーがステージに出てきたのだが、観客の反応を楽しむように、すっと奥横に立っている。すごい歓声。その後、中央に出てきて、ショウはスタート。イエーイ。最初の2曲はショルダー・キーボードを弾きながら歌う。何をやったか、記憶がとんでいる。とにかく、代表曲のオン・パレード。メドレーぽいこともせず、1曲1曲をじっくり聞かせる。キーボードを弾きながら歌ったり、グランド・ピアノを弾いたり、立ってマイクを持ちつつ歌ったり、娘(アイシャ)のいるコーラス隊の位置に来て、コーラス隊の一員のような位置で歌ったり。そのパート、けっこう長かった。アイシャをフィーチャーした曲も1曲やったが、歌ったのは父親の曲ではなく、アシュフォード&シンプソン(2009年11月20日)が作ったチャカ・カーンの78年ヒット曲「アイム・エヴリー・ウーマン」。へえ。ともあれ、いろんな私を見せましょうという意思を強く感じました。
キーボード・ソロも披露するジャジーなインストゥメンタルも披露したが、それはジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」だった。よりオデコは広くなったような感じもあるが、元気にはしゃいでいる感じに、ぼくのココロは溶けていく。来て良かったア、と思った。
途中、トイレに行くため出口に向かったら、後ろのほうにライオン頭の男性が。ありゃ、パット・メセニーじゃん。もうニッコニコしながら、一般客に混じって見ている。お、写真も撮っているじゃん。実は初日のハービー・ハンコックのショウの際も、彼は客席で見ていた。メセニーにとってのフェスは、普段なかなか触れることができない同業者のライヴに客席から触れることができる場でもある? まっすぐな素の音楽愛好者の様に触れて、ぼくはメセニーのことを見直した。
実はスティーヴィー・ワンダーはこの日(ライヴ前)の深夜の3時過ぎにホテルのセッション会場にジョージ・デュークと現れ、パフォーマンスをしたという! ぼくがその前にそこをのぞいたときはどうってことないセッションをやっていて、会場も混んでいたので、すぐにその場を離れてしまった。ガーン。話は飛ぶが、空港で日本に帰る便にチェックインするとき、ぼくの前に並んだのがフェス出演のあと日本公演に向かうフランク・マッコム(2011年3月4日、他)だった。彼に、「今回、スティーヴィーと会った?」(プリンスのホーム・パーティで、スティーヴィー・ワンダーと一緒にパフォーマンスしたことがあると、かつてインタヴューで言ったことがあったはず)と聞くと、2日目の夜に一緒にセッションしたよとの返事。なぬ、話題となっていたワンダー/デュークのセッションにはマッコムも参加していたのか。どうやら、マッコムがやっていた所に二人がシット・インしたようだ。
この日の深夜はジャム・セッションの会場にけっこういて(すいている、ステージが見えないテーブルにいた)、シラーズのワインを2本あけたが、その日は見ている者が色めき立つ出演者はなかったよう。でも、ちょっといい話ができた。
書くのを忘れていたが、スティーヴィー・ワンダー公演の特別料金は桁が違っていて、2万5000円ぐらい。それ、インドネシアの感覚だと10万円を超えると思うが、それでも人は集まる。それは彼の威光であるとともに、やはりインドネシアは豊かになっているんだろう。
他に出演した主な海外アーティスは、ポンチョ・サンチェス(2007年7月17日、他)、シーラ・E.(2011年1月18日、他)&ザ・Eファミリー(ちょっと見たけど、かなり大人数でことにあたっていた)、アルフレド・ロドリゲス(2011年11月25日)、シャンテ・ムーア(2008年12月8日、他。愛想良く「テレマカシ(ありがとう)」を連発していたな。ジェラルド・オルブライトかだれか、スムース・ジャズ系の名のあるサックス奏者を招いた特別編成にての実演)、フィル・ペリー、ローラ・フィジー、ジョーイ・デフランセスコ(2010年12月1日)、ロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンド(2012年2月28日、他。終了直前の様を見たけど、ギタリストが混ざっていた)、フランク・マッコム(これまでの日本公演はサックス奏者なり打楽器奏者も抱えてやっていたが、今回はトリオ編成だった)、など。
地元のバンドで一番立ち止まって見たのは、一番大きな野外ステージでやっていたG-プルックという4人組。で、これがザ・ビートルズのコピー・バンド。やっぱ、どこにでもいるんですね。彼らは初期風の格好や髪型をし(ベーシストは左利きだったっけ?)、ソツなく楽しいカヴァー曲演奏を行う。ニコっ。一緒に口ずさんでいる人も少なくなかったな。初期曲だけだく、「カム・トゥゲザー」とか後期のバンドっぽい曲もやっていた。なお、彼らはステージの両端に、コートやジャケットを4点得意げに飾っていたが、それは縁の品であったりするのだろうか。
リハーサルとか、音のオペレーションの部分とか、送り手にとって内側はなんだかんだ大変だったところもあるようだが、出演者たちはみんなちゃんとやっていたと思う。そして、いま日本だと音楽にまつわる話はネガティヴなものが多いが、まだこちらでは娯楽として光り輝く位置に音楽が存在する感じがヘルシー。うれしくもなる。それは、スポンサーの多さにも顕われているのではないか。
<今日の、交通>
外国に行ったときに一度は考えるのは、オレはここでストレスを感じることなく車を運転できるか、ということ。インドネシア語の文字はアルファベットで、そして車線は日本と同じ左側通行。それゆえ、運転しやすそうに一瞬思ったが、ぼくが行った外国の都市のなかで一番運転することに絶望的になったのがジャカルタと言える。ぎょっとするぐらいバイクの数が多く、膨大なそれが車に群がるように、ぐちゃぐちゃで流れていく様には驚愕。これじゃ、すぐに交通事故が起きそうとも感じたが、滞在中にそれには出会わなかった。だが、ぼくが運転難しそうと思うのはそういうの抜きの部分、ジャカルタの道路のありかたが妙だから。ここでは普通に車道がクロスする交差点がなく(故に信号がない)、かわりに変てこなラウンド・アバウトのようなものがあるのだが、違う道路に入るにはとっても手間がいるし(それが重なると、なんか方向感覚も狂う)、今まで頭の中にある交通の物差しを取っ払う必要があると感じてしまうのだ。なお、広い道路は両交通だが、少なくてもジャカルタ中心地の道路の多くは一方通行となっている。走っている車は、トヨタの大圧勝。そして、ホンダとニッサンがわずか。シルヴァー・バード・タクシーはメルセデスを使っていた。1回だけ、パジャイ(タイでいうところの、トゥクトゥク)という三輪タクシーに乗った。ちょいうれしかった。
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